第十一話:教室のロードマップと、過給の夢
一九二六年(大正十五年)五月。
学習院初等科、三年生の教室。
初夏の日差しが差し込む中、教壇では白髭を蓄えた老教師が、明治維新の偉業について熱弁を振るっていた。
周囲の席では、華族や財閥の子弟たちが背筋を伸ばし、退屈を隠しながらノートを取るふりをしている。
だが、俺のノートに記されているのは、西郷隆盛の名前でも、大久保利通の功績でもなかった。
そこにあるのは、複雑に絡み合う歯車と、二つの繭型ローターが噛み合う「ルーツ式スーパーチャージャー(過給機)」の詳細な設計図だった。
「九条。お前、また歴史の時間に変な機械の絵を描いているのか」
隣の席から、小声で話しかけてくる気配があった。
侯爵家の嫡男であり、この学習院でもトップクラスの成績を誇る学友、西條隆明だ。
「変な機械じゃない。エンジンの出力を、今の限界からさらに三割引き上げるための魔法の装置だ」
俺は視線をノートから外さず、鉛筆を走らせながら答えた。
「三割だと? お前の家の工場が造っている『九条型一号車』は、ただでさえアメリカのフォードを置き去りにするほど速いじゃないか。うちのお父様も一台買い求めたが、運転手があの加速に怯えていたぞ」
西條は目を丸くし、俺のノートの図面を覗き込んできた。
彼は他の生徒たちのように俺を「変人」として避けることはなく、むしろ俺の持つ異質な知識に強い好奇心を抱いている、数少ない学友の一人だった。
「一号車の五十馬力なんて、俺に言わせればまだまだ準備運動に過ぎない。自然吸気(NA)のエンジンでは、シリンダーに吸い込める空気の量に限界がある。だから、この『過給機』を使って、強制的に空気をシリンダーに押し込むんだ。空気が増えれば、より多くのガソリンを爆発させられる」
俺はローターの隙間の公差を計算しながら、静かに熱を帯びた声で説明した。
品川の量産工場はすでに軌道に乗り、陸軍への納入は順調に進んでいる。
だが、俺の頭の中にある「自動車産業のロードマップ」は、まだ最初の一歩を踏み出したに過ぎなかった。
軍用の武骨な幌付き車両だけでなく、今後は雨風を完全に凌げる「密閉型セダン」や、流麗なデザインを持つ富裕層向けの「クーペ」といった、ボディタイプのバリエーションを展開しなければならない。
さらに、陸軍の大型輸送トラックや、海軍の艦艇(内火艇)に搭載するための、トルクと燃費に優れた「ディーゼルエンジン」の自社開発も急務だ。
しかし、俺という一人の車バカの魂を最も燃え上がらせるのは、やはり純粋な「モア・パワー」の追求だった。
エンジンの回転数を上げ、過給機によって限界を超えたパワーを絞り出し、アスファルトを切り裂くような極限のスポーツカーを造り出すこと。
それこそが、俺が前世から引き継いだ拭いがたい業なのだ。
「空気を無理やり押し込む……。お前の頭の中は、本当にどうなっているんだ? そんな危険な爆発に、鉄のエンジンが耐えられるのか?」
西條が信じられないという顔で呟く。
「耐えさせるさ。八幡の職人たちが造り出す特殊鋼と、俺の計算があればな。西條、お前は将来、親父さんの跡を継いで財閥を動かすんだろう?」
俺は鉛筆を置き、西條の顔を真っ直ぐに見据えた。
「ああ。大蔵省に入って国を動かすか、西條財閥をさらに大きくするか、思案中だ」
「なら、今のうちに俺の車に投資しておくことだ。俺が造る過給機付きの新型車は、いずれ世界のレースで欧米の車を蹴散らす。その時、西條の資本が入っていれば、お前は世界一の自動車メーカーの共同オーナーになれるぞ」
八歳の子供同士の会話とは思えない、生々しい利権の誘い。
だが、西條は俺の提案を冗談として聞き流すことはしなかった。彼は俺のノートに描かれた過給機の図面を食い入るように見つめ、やがて口角を上げた。
「面白い。九条、お前のその狂気には、金を賭ける価値がありそうだ。お前がその魔法の装置を完成させた時は、一番最初に僕を乗せろ。その加速で僕を失神させられたら、西條の資本を動かしてやる」
「約束したぞ。失禁しても文句は言うなよ」
俺たちが教室の片隅で密かに悪徳な契約を交わした直後、授業終了の鐘が鳴り響いた。
俺はノートを乱暴にカバンに突っ込み、誰よりも早く席を立った。
「おい、九条! 次は算術の授業だぞ!」
「俺にとっては、あんなものは幼稚園のお遊戯だ。黒木さんが工場で、新型のクランクシャフトの試作品を待っているんでね!」
教師の制止の声を背中で聞き流し、俺は教室を飛び出した。
学校という子供の檻に閉じ込められている時間など、俺には一秒たりとも存在しない。
校門の外では、進藤大尉の手配した黒塗りの九条型一号車が、アイドリングの鼓動を響かせて俺を待っていた。
「さあ、帰ろうぜ。俺の工場へ」
大正時代の終わり。
過給機という新たな狂気を孕んだ俺の設計図は、次なる自動車革命の火蓋を切るべく、油まみれの机の上へと運ばれていくのだった。
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