第十話:黒い道を往く怪物
一九二五年(大正十四年)十二月。
内務大臣の執務室から見下ろす帝都・東京は、冷たい冬の空気に包まれながらも、確かな熱を帯びて脈動していた。
窓の向こう、かつて馬車と大八車が泥をこねくり回していた主要幹線道路には、今や黒く滑らかなアスファルトが敷き詰められている。
そこを、陸軍のカーキ色に塗られた車両や、富裕層が買い求めた艶やかな黒塗りの自動車が、軽快なエンジン音を響かせて滑るように走り抜けていく。
「九条自動車工業……。たった一人の子供の狂気が、この国の景色をここまで変えてしまうとはな」
私、若槻礼次郎は、手元の書類から目を離し、微かに息を吐いた。
机の上には、三菱合資会社からの膨大な事業報告書と、陸軍省が提出した「次期主力輸送車・九条型の大規模調達計画」の稟議書が積み上げられている。
事の始まりは、およそ一年前。
九条男爵が、まだ五歳だった次男の芳信を連れて、私の私邸を訪ねてきた日のことだ。
最初は、震災で名を上げた神童の、無邪気な戯言だと思っていた。
だが、あの子供の目は、大人のそれよりも遥かに冷徹で、国家の血流すらも計算し尽くした恐ろしい光を宿していた。
『僕が造る最高の車を、最高の状態で走らせるためです』
そう言って私に突きつけられた「道路舗装計画」と「燃料税」の構想は、一見すると荒唐無稽な暴論であった。
しかし、内務省の官僚たちに密かに計算をさせてみると、その数字は寸分の狂いもなく、国家の将来的なインフラ投資として完璧な道筋を描いていたのだ。
私は政治家として、あの芳信という少年の背後にある「底知れぬ何か」に戦慄を覚えた。
そして、あの銀座でのスチームローラーによる舗装と、同乗したプロトタイプの圧倒的な性能。
馬車の延長線上にあると思っていた自動車という概念が、根底から覆された瞬間だった。
泥に足を取られず、無音の空間を矢のように突き進むあの機械は、物流の速度を十倍にし、国家の重工業を牽引する機関車そのものであった。
「……失礼いたします、若槻大臣。九条男爵と、ご子息の芳信君がお見えです」
秘書の緊張した声に、私は革張りの椅子に深く腰掛け直した。
「通したまえ」
重厚な扉が開き、仕立ての良い背広を着た九条正和と、学習院の制服に身を包んだ七歳の芳信が姿を現した。
「若槻大臣。本日はお忙しい中、お時間をいただき感謝いたします」
九条男爵が慇懃に頭を下げるが、私の視線は自然とその足元に立つ小さな少年に向かっていた。
「芳信君。君が三菱を動かして造り上げた品川の工場は、すでに昼夜を問わず稼働しているそうだな。陸軍の将官たちが、君の車を絶賛して予算の獲得に走り回っているよ」
私が探りを入れるように言うと、芳信は子供らしい無邪気な笑みを浮かべ、しかし目は全く笑っていない表情で口を開いた。
「はい、若槻大臣。おかげさまで、軍への納入は順調です。ですが、今日ここへ来たのは軍の話ではありません。もっと大きな、この国の『未来の法律』についてお願いに上がりました」
芳信は小さなカバンから分厚い書類の束を取り出し、私の机の上に置いた。
表紙には『全国自動車道路網整備法案・及び揮発油税創設の提言』と書かれている。
「銀座のアスファルトは、あくまで試験的なものに過ぎません。僕の車が本当にその真価を発揮し、この国の物流を劇的に変えるためには、帝都だけでなく、日本中の主要都市を繋ぐ『黒い道』が必要です」
「全国規模の道路整備だと? 芳信君、銀座の一画を舗装するのとは訳が違う。国家の予算をどれだけ食い潰す気だ」
私は思わず声を荒げた。
現在の加藤高明総理は病に倒れがちであり、もし万が一のことがあれば、私が次期総理としてこの国を背負うことになる。
震災復興で火の車である国家財政において、全国規模の道路舗装などという超大型の公共事業は、政治的な致命傷になりかねない。
「だからこその、揮発油税(ガソリン税)です」
芳信は私の怒気を全く意に介さず、書類の一ページ目を指差した。
「僕の車が全国に普及すれば、必ずガソリンが消費されます。そのガソリンから税を徴収し、それをすべて道路の建設と維持のみに使う『道路特定財源』とするのです。車が走れば走るほど、道を造るための金が自動的に集まる。国家の一般会計を痛めることなく、無限に道を拡張できるシステムです」
私は絶句した。
利用者がインフラの維持費を負担し、それが自己増殖的にインフラを拡大していくという、あまりにも完成された税制のシステム。
大蔵省の熟練の官僚ですら思いつかないような緻密な法案を、この七歳の子供が自ら書き上げ、内務大臣である私に突きつけているのだ。
「……三菱の岩崎君も、この法案に乗っているのかね」
「ええ。三菱はすでに、莫大な資本を投じて海外の石油権益の確保に動いています。ガソリンが売れれば売れるほど、三菱も潤う。彼らが政友会や憲政会の議員たちを説得するための政治資金は、十分に用意されていますよ」
芳信の言葉に、私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
この少年は、軍を抱き込んで自らの車の需要を創り出し、三菱の資本でそれを大量生産し、さらには石油というエネルギーの支配までやってのけた。
そして今度は、国家の法と税制という「ルールそのもの」を、自分の車が走りやすいように書き換えようとしている。
一介の男爵家の次男坊が、大日本帝国という巨大な国家の舵を、力ずくで自分の方へ向けようとしているのだ。
「……芳信君。君は、自分の造る車が、この国をどこへ連れて行くか分かっているのか」
私が恐れを含んだ声で尋ねると、芳信は窓の外の黒い道を見つめながら、静かに答えた。
「分かりません。でも、泥濘を這いずるような遅い国にはしませんよ。僕の車は、誰よりも速く、どこまでも遠くへ行けるように設計してありますから」
その狂気に満ちた情熱と、計算し尽くされた知性。
私は政治家として、この怪物を危険視して排斥するべきか、それとも国家のエンジンとして利用し尽くすべきか、一瞬だけ迷った。
だが、窓の外を走るあの車の美しさと、それがもたらす富の匂いは、すでに私の政治家としての野心を強く刺激していた。
「……よかろう。加藤総理の体調次第では、いずれ私が政権を担うことになる。その暁には、君の法案を議会に通してやろう」
私が覚悟を決めて言い放つと、芳信は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、次期総理大臣閣下。最高の道を用意してくださるなら、僕はそれに相応しい、世界一の車を造り続けますよ」
執務室を後にする小さな背中を見送りながら、私は震える手で葉巻に火をつけた。
九条芳信。
この国は今、途方もない化け物を産み落としてしまったのかもしれない。
だが、彼が敷く黒い道の先にある未来が、私にはどうしても眩しく見えてならなかった。
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