第二十三話:洋上の滑走路と、落下する巨城
昭和五年(一九三〇年)四月。
世界を巡る軍事バランスは、海の上で大きな転換点を迎えていた。
英国のロンドンで開催されていた海軍軍縮会議において、日本は巡洋艦や補助艦艇の保有量に厳しい制限を課される条約に調印したのである。
いわゆる「ロンドン海軍軍縮条約」の成立により、大艦巨砲主義を信奉する海軍内部には鬱屈とした不満が溜まっていたが、同時に「条約の制限を受けない新しい兵器」へと活路を見出そうとする動きも加速していた。
だが、帝都の喧騒は、そうした国家の危機感とは裏腹に、春の穏やかな陽気に包まれていた。
学習院のキャンパスでは、桜の花びらが舞う中、新入生たちが真新しい制服に身を包み、希望に満ちた表情で行き交っている。
九条芳信、十二歳。
彼はこの春、学習院初等科を卒業し、中等科へと進学した。
二月十一日に十二歳となったばかりの彼は、書類上は「中等科一年生」という初々しい身分である。
入学式の日、兄・秀一がかつて袖を通したのと同じ濃紺の制服を纏った芳信の姿に、母・静子は涙を浮かべて喜んだ。
しかし、その「学生」としての生活は、入学式からわずか数日で終わりを告げた。
父・正和が軍部や西條財閥と連携して宮内省に働きかけた「国家技術研究に伴う特別研究生」という特例措置により、芳信は学校への登校を免除され、その全時間を「研究」という名の国家戦略に捧げることを公認されたのである。
入学式の喧騒から一週間後。
芳信が立っていたのは、教室の教壇ではなく、横須賀港の沖合に浮かぶ巨大な灰色の人工島の上だった。
帝国海軍が誇る航空母艦『赤城』の飛行甲板。
吹き抜ける潮風を切り裂くように、甲甲高い航空エンジンの爆音が響き渡っていた。
「芳信君。いや、今日からは中等科生、か。……入学おめでとう、と言った方がいいのかな?」
海軍の制服に身を包んだ航空本部の若きエリート、神崎烈少佐が、潮風に目を細めながら隣に立つ少年に声をかけた。
「ありがとうございます、少佐。ですが、あんな退屈な教室内で学ぶことは、僕には何一つありませんから」
芳信は特注の飛行服を纏い、首から下げた双眼鏡で、頭上を旋回する海軍の主力艦上戦闘機『三式艦戦』の姿を冷ややかな目で追っていた。
中等科の制服は、今や九条邸のクローゼットで静かに眠っている。
「陸軍の進藤大尉にばかり君の技術を独占させるわけにはいかないからね。我々海軍も、君の液冷エンジンと全金属製単葉機の設計図に、巨額の予算を回す用意がある。ロンドン条約で艦の数が制限された以上、これからは空母に載せる『航空機』の性能こそが、勝敗を決するのだから」
神崎の言葉は熱を帯びていた。
海軍は空母という画期的なプラットフォームを実用化させたものの、肝心の航空機技術では欧米に遅れをとり、陸軍の九条自動車が見せる圧倒的な技術革新を指をくわえて見ているしかなかったのだ。
「……予算を出してくれるのはありがたいですがね、神崎少佐」
芳信は双眼鏡を下ろし、ため息をつくように言った。
「あんな空気抵抗の塊みたいな『布張りの複葉機』を飛ばして喜んでいるようじゃ、僕のエンジンを渡す価値はありませんよ。あんな遅い機体じゃ、敵の戦艦に近づく前に対空砲火の的になるだけだ」
「布張りだと? 馬鹿な、あれは現在配備できる最新鋭の……」
「僕が創るのは、空気抵抗を極限まで削ぎ落とした、全金属製の単葉機です。最高速度は今の複葉機の倍以上になる。……ほら、着艦しますよ」
芳信が指差した先で、三式艦戦が赤城の甲板に向かって高度を下げてきた。
機体はフワフワと風に煽られながら、甲板に張られた制動用のワイヤーに尾部のフックを引っ掛け、激しい金属音とともに強引に停止した。
「……お見事ですね。ですが、少佐。僕の創る高速の単葉機は、あんな低速でアプローチすることはできません。着艦速度は今の倍近くなる。こんな短い甲板では、ブレーキをかける前に海に落ちるか、ワイヤーが切れて機体が大破するかのどちらかです」
芳信の冷徹な指摘に、神崎は言葉に詰まった。
「それは……我々も懸念している。単葉機は速いが、空母の短い甲板で運用するには着艦速度が速すぎるのだ。だから、今はまだ浮力の高い複葉機に頼らざるを得ない」
「発想が逆です、少佐。飛行機を甲板に合わせるんじゃない。僕の『最強の飛行機』に合わせて、空母の甲板の方を改造するんです」
芳信は飛行服のポケットから手帳を取り出し、神崎の目の前に突きつけた。
そこに描かれていたのは、飛行機ではなく、空母の甲板に組み込まれた複雑な油圧装置の図解だった。
「飛行機の主翼には、低速時の揚力を稼ぐための『フラップ』を装備させます。そして空母側には、着艦時の莫大な運動エネルギーを油圧の抵抗で吸収する『新型アレスティング・ワイヤー(着艦制動装置)』を敷き詰める。さらに発艦時には、重い爆弾を積んだ機体を強制的に射出するための『カタパルト』が必要です」
「か、カタパルトだと? 空母の甲板から、機体を弾き飛ばすというのか?」
「当然です。空母はただの滑走路じゃない。僕の創る最高の車を走らせるための『サーキット』であり、最高の機体を運用するための『ガレージ』でなければならない」
芳信は手帳を閉じ、停泊する巨大な赤城の艦橋を見上げた。
十二歳という年齢には不釣り合いな、傲慢なまでの支配者の瞳がそこにあった。
「大艦巨砲主義の時代は終わります。巨大な戦艦は、僕の創る高速機が運ぶ魚雷と爆弾の雨を前に、ただの『浮かぶ鉄クズ』になり下がる。海軍がこれから頼るべきは、大砲の数ではありません。空母というプラットフォームをどれだけ進化させ、僕の機体を何機飛ばせるか、ただそれだけです」
神崎少佐は、吹き荒れる潮風の中で背筋が凍るような戦慄を覚えた。
この少年は、航空機のエンジンを売りに来たのではない。
帝国海軍が誇る巨大な航空母艦という艦種そのものを、自らの部品の一部として再定義し、根本から支配しようとしているのだ。
「……九条芳信。君は、我々海軍の歴史を、一から書き換える気か」
「ええ。陸の泥濘を僕の装甲車が蹂躙したように、海の上の常識も、僕の銀翼がすべて塗り替えます。まずは赤城の甲板を、僕の要求通りに改装する予算を通してください、神崎少佐」
芳信は海風に向かって悪魔のように微笑んだ。
陸軍を抱き込み、財閥の資金を飲み込んだ若き怪物は、学習院中等科生という無垢な仮面を被ったまま、帝国海軍という巨大な軍事組織の心臓部にも、その深く冷たい爪を突き立てたのであった。




