第86話 女装の準備
# 第86話 女装の準備
## エントリー
朝の光が生徒会室の窓から差し込んでいた。
セラは扉の前で三回深呼吸をした。
一回目:落ち着け。
二回目:何も恥ずかしいことじゃない。
三回目:……やっぱり恥ずかしいが、もう遅い。
「失礼します」
重い木の扉を押し開けると、数名の生徒会役員がせわしなく動き回っていた。書類の山。積み上げられたファイル。羽ペンが走る音。
窓際の席に座っていた女子生徒が顔を上げ、セラを見た瞬間——ペンを落とした。コロコロと床を転がる音が、妙に静かな室内に響く。
「あ、あの。何かご用ですか」
「女装コンテストのエントリーに来ました」
室内の空気が固まった。書類をめくる音が止まる。誰かのペンが机に落ちる。窓の外の鳥の声だけが、のんびりと聞こえていた。
(いや、もっとドラマチックな反応を期待してたんだが。静止しすぎだろ。前世の俺がコンビニで変なオーダーをしても店員さんはここまで固まらなかった)
女子生徒は目を皿のようにして、セラを頭からつま先まで見た。もう一度、ゆっくりと。
「あなた……一年A組の、セラくんですよね」
「はい」
「本当に……出るの」
「出ます。一年A組代表として」
「す……すごい……!」
彼女は両手で口を押さえ、目に涙を浮かべそうなほど感動した様子だった。
(なんでそんな感動するんだ。毎年出場者を確保するのが大変だったとか、そういう事情があるんだろうが——それにしたって反応が重い)
女子生徒は机の引き出しからエントリー用紙を取り出した。「第百八回エレガンス・コンテスト参加申請書」というタイトルが印刷されている。記入欄は「氏名」「所属クラス」「年齢」「種族」「希望衣装タイプ」「特記事項」と並んでいた。
「希望衣装タイプは何がありますか?」
「和服、ゴシック、ロリータ、イブニングドレス、カジュアルドレス、ファンタジー風! あとカスタムも相談できますよ!」
女子生徒が指折り数えながら答えた。
セラはペンを手に取りながら考えた。
和服は優雅だが着付けが違う。ゴシックは強めの印象になる。ロリータは……ちょっとキャラじゃないな。イブニングドレスはフォーマルすぎる。カジュアルドレス——動きやすそうで、コンテストのウォーキングにも向いていそうだ。
「カジュアルドレスで」
「了解です! 種族はエルフですね?」
「はい」
「特記事項はありますか? メイクの希望とか」
「とりあえず全部お任せします」
「分かりました! では正式にエントリー完了です!」
女子生徒はエントリー用紙を受け取ると、くるっと室内の役員たちに振り返って高らかに宣言した。
「みなさん聞いてください! 一年A組のセラくんが、女装コンテストに出ます!」
「えっ、マジで!?」
「エルフじゃん! 去年の優勝者もエルフだったよね!」
「優勝くるかも!」
「というか絶対くるやつじゃん!?」
役員たちの視線が一斉に集まった。驚き、感心、期待、それに「もうこれで今年は大丈夫だ」という安堵まで混じった複雑な視線。
(現代だったらSNSに上げられて一晩で何万いいねとかになってる状況だ。俺は常に群衆の一人として生きてきたのに、なぜか今ここで主役の位置に立っている。人生、何があるか分からない)
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
丁寧に礼をして、セラは生徒会室を出た。
廊下に出た瞬間、ふっと息が漏れた。
やった。エントリー完了。もう後には引けない。
心臓が少しだけ早鐘を打っている。緊張と、正体不明のわずかな期待感が混ざり合っていた。
(就職活動でエントリーシートを出した直後も、毎回こんな感覚だった。「もう後には引けない感」。あの時は全部落ちたが、今回は違う結果にする)
廊下の石床を一歩一歩踏みしめながら、セラは歩き出した。
## 衣装選び
昼休み、セラは正門前でアリアたちを待った。
来たのは三人だった。アリア、カトレア、そしてミナ——ミサトのクラスメイトで、いつの間にかセラの事情を完全に把握している女子だ。どこで情報を仕入れているのか、毎度謎だった。
「準備はいい? セラ!」
アリアが両手を振りながら走ってくる。距離感ゼロ。いつも通り。
「うん、エントリーは終わった」
「よかった! じゃあ今日は衣装選び! えへへ、こういうの楽しみにしてたんだ!」
「私も! こういうの得意だよ!」
ミナが自信満々に言う。カトレアはというと、腕を組んで目を細めていた。商人が何かを評定する時の顔だ。
「商人の目で見ると、セラの顔面は優勝を狙えるレベルだ。問題は衣装の投資対効果だが——今日の衣装選びは重要な投資判断だ。任せてくれ」
「カトレア。投資とか言わないで」
アリアがやんわり制止した。
「失礼、癖が出た。ただ、学費半年分免除と食堂無料パス一年間という優勝賞品は、クラス全体にとっても価値が高い。セラへの協力は合理的判断だ」
「ありがとう、一応」
(カトレアはほんとにいつでも計算している。合理性は高いが、そのまま全部言葉にしてしまうのが玉に瑕なやつ。でも悪意はないし、実際に動いてくれるから助かる。ある意味、正直すぎる商人だ)
四人で王都の商業区へ向かう。大通りは賑やかだった。行き交う人々、屋台の売り声、エルフ、人間、獣人、ドワーフが混在する光景。
「ねえセラ、どんな衣装がいいの?」
アリアが歩きながら聞いてきた。
「うーん、よく分からないから、みんなに任せたい」
「えーっ、それじゃあ変なのになっても知らないよ?」
「みんなが選ぶなら大丈夫でしょ」
「当たり前でしょ! 私のセンスを信じて!」
「アリアに任せる」
「えへへ、よかった!」
ミナが隣に来た。「私も意見言っていい? おしゃれには自信あるんだよね」
「もちろん」
「じゃあカトレアは?」
アリアがカトレアを見た。カトレアは「私は投資判断の観点から意見を述べる」と言った。
「つまり商売人目線で可愛いやつを選ぶってこと?」
「端的に言えばそうだ」
「同じこと言ってる」とアリアが笑った。
「ローズ・ブルーム」は王都の商業区の真ん中にある衣装店だ。ピンクの外壁に薔薇の装飾、大きなショーウィンドウには目がくらむほど美しいドレスが並んでいる。
「うわぁ……」
セラはウィンドウの前で立ち止まった。
エルフ向けの透け感のあるドレス、獣人向けの耳穴あきカチューシャ、ドワーフ向けの寸の詰まったワンピース。どれも丁寧な手仕事で、光を受けてきらきら輝いている。高級ブランドの路面店みたいな雰囲気で、庶民が入っていいのか戸惑う感じがする。
(……でも俺はここで選ぶ立場なんだった。人生、なにひとつ予測できない)
「さあ入ろう!」
ミナが一番乗りで押し込んでいった。
店内はさらに圧巻だった。天井まで届くほどの棚には色とりどりの布地が並べられ、試着室の前には大きな鏡、あちこちのマネキンが豪奢な衣装をまとっていた。
「いらっしゃいませ!」
店員の女性が駆け寄ってきた。明るい笑顔だ。
「学園の女装コンテストの衣装を見たいんです!」
アリアが代弁する。迅速。
「ああ、毎年たくさんの方がいらっしゃいますよ! こちらへどうぞ」
エルフ向けの専用コーナーへ案内された。
「エルフ様の場合は耳の形状に合わせて調整できますし、体型も細身ですからサイズは合わせやすいです。ただ、銀髪の方の場合は、映える色に少し注意が必要で……こちらのローズピンクなどは特にお勧めですよ」
一着目を見せてもらった。淡い青色のイブニングドレス。裾が長くて優雅だ。
「セラ、どう思う?」
アリアが目を輝かせた。
セラは首をかしげた。「少し……フォーマルすぎる気がする」
「フォーマルすぎることはないよ!」
「でもコンテストのウォーキングで裾の長いドレスは難しいかもって、ミナはどう思う?」
「同意! 動きやすい方がいいよ。ウォーキングって歩き方が重要だから」
「投資対効果では、目立つ色と動きやすいシルエットの組み合わせが最高だ」
カトレアが即答した。
店員の女性が二着目を持ってきた。ローズピンクのカジュアルドレス。丈は膝上で、裾にフリルがついている。
「うわ、可愛い!」
アリアとミナが同時に言った。声がぴったり重なった。
セラもつい見入った。……たしかに可愛い。フリルが軽やかで、動いた時に揺れる感じが目に浮かんだ。銀髪にこのピンクは——確かに映える。
「これ、試着できますか?」
「もちろんです!」
(……やばい。俺、積極的に女装の衣装を選んでいる。まあ、これはクラスのためで、俺個人の趣向とは別の話で……いや、なんか鏡の前に立つのが少し楽しみになっているのはなぜだ)
カトレアが腕を組んで頷いた。「ピンクは注目度が高い。観客の視線を集める色だ。このサイズ感も動きやすそうで良い。これで行け」
「……ありがとう、カトレア」
「お礼は優勝した後でいい。ギャハハ!」
## 試着
試着室は小さかった。
カーテンを引いて、ドレスを手に取った瞬間、セラは少し動きが止まった。
(客観的に見ると俺は今、女物のドレスを着ようとしている男子なわけで。コスプレとか舞台衣装とかそういう経緯もなく、学園祭の行事として突然やることになった。しかも大勢の前でウォーキングする。正気かよ俺)
でも、後退はできない。
エントリーした以上、クラスのためにも最後までやる。
腕を通し、ファスナーを引いた。
……硬い。
前のファスナーではなく背中側だったか。手が届かない。
「セラ、大丈夫? 何も音がしないけど」
カーテン越しにアリアの声が聞こえた。
「ちょっとファスナーが……」
「手伝う?」
「い、いい。自分で——」
「セラ、無理して変に開けると布が傷むよ?」
「……お願いします」
カーテンの端をめくってアリアが入ってきた。ファスナーをするっと上げてくれた。さすがに慣れている。
「はい、完成」
「ありがとう」
「……セラ」
「何」
「鏡、見てみて」
セラはゆっくりと顔を上げ、試着室の鏡を見た。
しばらく、動けなかった。
鏡の中に、銀髪のエルフの少女が立っていた。ローズピンクのカジュアルドレスが白い肌に映えて、フリルが光の中でふわりと揺れている。
……これが、俺か。
(え。えっ。ちょっと待ってくれ。俺ってこんなに女の子に見えるのか? 俺自身が今も半分信じていない。エルフの体ってそういうことなのか。骨格が違うのか。魔法学園の空気がそういう体を作るのか。いや何も説明になってない)
「……アリア」
「うん?」
「俺、こんなに……」
「綺麗だよ」
アリアが真顔で言った。「すごく綺麗。私より綺麗かも。ちょっと複雑だけど」
「ちょっと複雑……」
「ちょっとだけ。あとは純粋に嬉しい」
「ありがとう」
カーテンの外からミナの声がした。「私も見ていい!? ずっと待ってたんだけど!」
「どうぞ」
ミナがカーテンをめくって顔を突っ込んだ。次の瞬間、両手で口を押さえた。
「やだ……! セラくん、本物の女の子みたい……! ていうか本物の女の子より女の子じゃん……!」
「俺、一応男です」
「分かってるけど! でも! ものすごく似合ってる! これは絶対勝てる!」
カトレアが最後に入ってきた。商人らしく冷静に全体を見回し、それからうんうんと頷いた。
「よし。優勝コースだ。間違いない」
「カトレア、俺は商品じゃない」
「分かってる。でも事実だ。セラ・ウィスパーウィンド、エルフの美貌と女装の組み合わせ——この投資はリターンが高い」
(否定できないのが辛いな。でも褒められてるのは分かった。良しとしよう)
セラは鏡の中の自分をもう一度見た。
……まあ、こうなったなら、せめて全力でやるしかない。
「これにする」
「「「やった!!」」」
三人が声を揃えた。
## メイクとヘアセット
衣装を決めた後、店員の女性が「せっかくですから、コンテスト向けのメイク体験はいかがですか」と提案してくれた。
「本番と同じメイクを今日試せるんですよ。いかがでしょう?」
アリアとミナの目が同時に輝いた。
「やって! やって! ねえセラ、絶対やった方がいい! リハーサルにもなるよ!」
「……分かりました」
(俺の人生、どこでこういう方向になったんだろう。美容院すら年に一度も行かなかったのに、プロのフルメイクを体験することになるとは。人生は本当に分からない)
専用のメイクチェアに座ると、プロのメイクアップアーティストがやってきた。静かな目で、まずセラの顔全体を見た。
「エルフのお客様は珍しくはないですが、これほど素材の整った方は……久しぶりですね」
「はあ……」
(素材の良さを褒められるのって、どういう顔をすればいいんだ。「こいつは使える」という言い方をする上司に似てるが、全然質が違う褒め方だ。とりあえず笑顔でやり過ごそう)
まずベースが作られた。肌の色と合わせて丁寧に。次に眉を整えられ、アイシャドウが入り、リップが引かれていく。一工程ごとに鏡で確認させてもらえた。
(……俺の顔、段階的に変わっていく。ベースだけでもうすでに印象が違う。アイシャドウが入った瞬間に目が大きく見えた。リップが引かれた瞬間に口元が変わった。これがプロの技術というやつか。メイクは魔法だ——ていうかこれほんとに魔法レベルだぞ)
「では次はヘアセットです」
銀髪を丁寧に編み込まれた。細かい束を少しずつ、丁寧に。耳の近くにピンで留められ、そっと耳飾りが取り付けられた。
最後に全体の仕上げをして、アーティストが手鏡を差し出した。
「いかがでしょう」
セラは鏡を受け取った。
「…………」
声が出なかった。
鏡の中に座っているのは、銀色の髪を美しく整えた、ローズピンクのドレスをまとった、どう見ても少女だった。
(……これ、本当に俺。俺なんだけど。俺なんだけど……少し時間が欲しい。現実を受け入れる処理速度が追いついていない。これが自分だと理解するまで、もうしばらくかかる)
「セラ!!」
ミナが叫んだ。「超綺麗!! 本物の女の子!!!」
「……俺です」
「分かってるけど分かりたくない!!」
「どういう感情だ」
アリアが隣でしみじみと頷いていた。
「うん。完璧だよ。これで優勝できなかったら審査員の目がおかしい」
「当たり前でしょって言いたいとこだけど……えへへ」
アリアが笑うように言ったのを見て、セラは思わず笑ってしまった。
「……セラが照れてる」
「照れてない」
「照れてる。頬が少し赤い」
「メイクのせいだ」
「メイクで頬は赤くなりませんよ」
メイクアーティストに言われた。
(……やっぱり照れてた)
カトレアは満足げに腕を組んだ。
「ギャハハ! これが本番の姿か。素晴らしい完成度だ。クラスの顔が立つどころじゃない——優勝確定だ」
「まだ確定してない」
「カトレアの勘では確定している」
「カトレアの勘がいつ当たったんだ」
「商売では常に当たっている」
「……まあ、ありがとう。引き続きよろしく」
## リハーサル
夕方、学園の演習場でリハーサルが行われた。
メイクを落とした普通の顔のセラが、女装用の歩き方を練習するという、説明するのが難しい状況だ。
(接客業の研修みたいな感じか。ただし内容が「ドレスを着た時の歩き方」で、観客は友人たちとクラスメイトで、本番は千人以上の前だ。普通の研修じゃないな)
「セラ! もっと胸を張って! 視線は前に!」
ミナが監督として演習場の隅に仁王立ちしていた。腕を組んで、完全にプロデューサーの目になっている。
「こんな感じ?」
「そう! でももっとゆっくり! ウォーキングはゆっくり歩く方が綺麗に見えるんだよ! 急いで歩くと脚が見えにくくなるし、フリルも揺れない!」
「なんでそんな詳しいんだ」
「私の趣味だよ! ファッションは勉強してる!」
(この子のポテンシャルがまったく測れないな……こういうマルチな才能を持ってる人間は、大体とんでもないところまで行く。ミナも将来すごいことになりそうだ)
セラは指定されたラインを歩く。見ているのはアリア、カトレア、ミナ、それとクラスメイトが何人か野次馬で来ていた。
「うまい!」
「セラすごい! なんで初めてなのにそんなに自然に歩けるの!?」
「エルフだから……かな」
(エルフの体は、もともと動きが優雅なんだ。特別意識しなくても、この体が綺麗に動いてくれる。文句を言う理由がない。まあありがたい話だ)
アリアが小声でつぶやいた。「本当に……セラって不思議だよ。こういうことも、なんでも自然にこなしてしまう」
「俺はただ歩いてるだけだよ」
「その『ただ歩いてる』が綺麗なんだよ!」
「そうそう!」とミナが割り込んだ。「セラって、自分では意識してないのに綺麗に見えるんだよ。それが一番すごい。意識して綺麗に見せようとしてる人より、自然にできてる人の方が美しいんだ」
「……ミナ、なんかいいことを言った」
「えへへ、ありがとう!」
担任のリナ先生も顔を出していた。腕を組み、少し目を細めてリハーサルを眺めていた。
「セラ、姿勢がいいですね。これなら本番も問題ないでしょう」
「ありがとうございます、先生。……先生、笑ってます?」
「笑っていません。純粋に評価しています」
「目が笑ってます」
「……これが私の素顔です」
(先生、正直だ。笑いながら評価してくれているのは伝わっている。笑顔の意図は分かる。リナ先生の笑顔は善意だ)
「先生、一年生で優勝した例はありますか?」
「ありません。あなたが初めてになるでしょうね」
「プレッシャーをかけないでください」
「かけていません。事実を述べただけです」
「それがプレッシャーです」
「……精進してください」
リナ先生が苦笑いしながら去っていった。
リハーサルの最後に、セラがターンを決めた瞬間、見ていたクラスメイトたちから拍手が起きた。
「やったー! セラ優勝するよ絶対!」
「クラスの代表として誇らしい!」
「明日が楽しみだ!」
「セラ、ドレスが似合いすぎ問題!」
(みんなこんなに喜んでくれるなら、やってよかった。やってよかった——本当に、そう思う。今の方が、よっぽど充実してる気がするのは内緒にしておこう)
演習場に夕日が差し込む中、セラは静かに決意を固めた。
——明日、全力でやる。
クラスのために。この世界に転生した縁に報いるために。
そして……少しだけ、自分自身のために。
なんでかは、うまく言えないけれど。




