表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神に楽しめと言われた。楽しみすぎて、神を超えた。  作者: issoh


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
73/81

第73話 初ダンジョン

# 第73話 初ダンジョン


## ダンジョン入口


 朝霧が晴れるのを待って、三人は北門を出た。


 王都から北へ十キロ。荒野の道を、装備を背負って歩く。舗装された街道を外れると、地面が変わる。茶色い砂埃が靴に積もり、低木が点在する。牧草地も羊の群れも消えて、代わりに岩場と乾いた草が広がる。


 空は晴れていた。朝日がまだ低い位置にあり、三人の長い影が前に伸びている。


「重いね」


 カトレアが背負った荷物を揺らしながら言った。罠解除道具、食料、水筒、毛布。ドワーフの体格に不釣り合いな大荷物だ。


「慣れれば大丈夫」


「慣れたい。でも、鎧も合わせると私の体重の六割が装備だよ」


(それはちょっとかわいそうかも)


 二時間ほど歩いて、丘陵地帯に入った。


 そして——そこにあった。


 丘陵の麓。巨大な岩で作られた口が、深淵のように広がっている。高さ三メートル、幅二メートル。苔が生え、風化した岩肌に長い年月が刻まれている。そしてその奥から——冷たい風が吹き出してくる。


 腐ったような匂いが、鼻をかすめた。


 無理。ゲームで見たダンジョンの入り口とは別物だ。


(これ、本物だ。本当に、本物のダンジョンだ)


「今日はダンジョン攻略の日だね」


 アリアが少し緊張した声で言った。尖った耳が微かに震えているのが見える。


「うん。でも準備は万端だ。照明魔法具、松明、回復薬、カトレアの罠解除スキル。完璧なチームだ」


「任せて! 私の暗視能力と罠解除スキルで、どんな罠も見破るよ!」


 カトレアが胸を張った。身長はアリアの半分以下だが、その自信だけはアリアの三倍はある。


 入り口の脇には木製の立て札が立っている。黒ずんでいるが、文字は読み取れる。何人もの冒険者が指でなぞってきたのだろう、表面は滑らかになっている。


『古代遺跡ダンジョン「古びた坑道」。危険度E。初心者向け』


「初心者向け、ね。でも、ガトーさんは罠と魔物がいると言ってた」


 カトレアが立て札を見てから、入り口へ視線を移した。


「カトレア、入り口から奥が見える?」


「ちょっと待って」


 カトレアがダンジョンの入り口をじっと見つめた。ドワーフ特有の暗視能力が発動しているのか、琥珀色の瞳がわずかに光って見えた。人間にはできない視線の集中方法が、彼女の顔を一瞬だけ別のものに変える。


「入り口から十メートルほどの通路が見える。床は平ら。でも、壁に古代ドワーフ文字の刻印がある」


「何て書いてある?」


「『注意せよ。罠あり。』だよ」


 沈黙。


「……正直すぎる警告だな」


「ドワーフは正直なんだよ」


(先祖に届くなら言いたい。廊下の入り口にこんな警告を刻んでくれて、助かった)


 カトレアが岩の表面を丁寧に触った。その手つきが、鑑定するような、祈るような、不思議な動作だった。


「ここ、古代ドワーフの石工の跡がある。この石の組み方——現代のドワーフでも真似できない技術が使われてる」


「そんなにすごいの?」


「うん。石に魔力を込めて強度を上げる技術。今のドワーフはそのやり方を失ってしまった。だから、ここへ来るのが怖いような、誇らしいような……複雑な気持ちだよ」


 カトレアの声が、少しだけ静かになった。ドワーフとしての誇りと哀しみが、その声に滲んでいた。


(ドワーフにとって、これは歴史的遺産の探索なんだな。考古学者が遺跡に来る感覚か。俺には感じられない何かを、カトレアは感じている)


「カトレア、行けそう?」


「もちろん! 気合十分だよ! この手で先祖の技術を確認して、集落再建の参考にする! そして借金を返す!」


(最後が一番具体的だな)


 入り口の前には、他の冒険者たちも集まっていた。三人組の若いパーティ、一人で座って水を飲んでいるベテラン風の男。みんな装備を点検したり、仲間と話したりしている。共通しているのは——全員の目に緊張が宿っていること。


 ベテランの男は入り口から少し離れた場所で、ゆっくりと水を飲んでいた。その姿に余裕がある。装備は使い込まれ、鎧には無数の傷がある。初めてここへ来た人間と、何度もここへ来た人間の差が、佇まいに出ている。剣の柄は磨り減り、革の手袋は黒ずんでいる。そういう人間が、水一口でここへ入っていける。


(俺はいつか、あの余裕を手に入れられるだろうか。あの男の佇まいは、場数を踏んで、そして恐怖を乗り越えた数だけ刻まれた傷跡だ。今日の俺にはまだない。でも、いつか——)


「あそこのパーティ、緊張してるね」


 アリアが三人組を見た。剣士二人と魔法使いの組み合わせだ。剣士の一人が何度も剣の柄に手をやっている。魔法使いは杖を強く握りすぎて、指の関節が白くなっている。


「そうだな。初心者はみんなそうだ」


「私たちも初心者じゃん」


「……俺たちも緊張してる。心の中では」


(心の外も緊張してる。正直に言うと、手の甲が少し震えてる。見えないように、服の中に引っ込めた)


「俺、ここに来て改めて思ったんだけど」


 俺は入り口を見つめながら言った。


「画面越しじゃなくて、肌で感じる冷気とか、外から吹いてくる腐ったような匂いとか——これが本物なんだ、って実感がある」


「怖い?」


「怖い。でも挑戦する」


「セラ……」


 アリアが俺の腕を軽く握った。その手が温かい。


「二人がいれば、どんなダンジョンも攻略できる」


「三人ね。私もいるんだけど?」


 カトレアがむっとして割り込んだ。


「三人で行って、三人で帰ってくる。それが鉄則だ」


 俺たちは入り口の前で手を重ねた。三つの手が積み重なり、温かさが共有される。ドワーフの分厚い手、エルフの細い手、そして俺の手。それぞれ違う形をしているが、温かさは同じだった。


 ダンジョンへの挑戦が、始まった。


## ダンジョン内部


 一歩踏み込んだ瞬間、世界が変わった。


 外の光が遮断される。温かい日差しが消える。代わりに、照明魔法具の青白い光だけが、半径十メートルを照らし出している。その円の外は——完全な暗闇だ。


「薄暗いね……」


 アリアが俺の服をぎゅっと握った。


「でも照明があるから大丈夫。カトレア、前衛で罠を探して。アリア、中衛で援護して。俺は後衛で魔法を使う」


「了解!」


 カトレアが前に出る。ドワーフの足音は、意外と静かだ。


 通路は続いている。壁は岩で作られ、天井は低い。時折、天井から鍾乳石が突き出している。床は平らだが、所々に小さな水たまりがある。水滴が落ちる音が、静寂に響く。


 チポン。


 チポン、チポン。


 水滴が落ちる音が、静寂の中で意外なほど大きく響いた。その音は時間の流れを刻む時計のようにも聞こえる。ここに来てからどれくらいの時間が経ったのか、暗闇の中では感覚が麻痺していく。


(静かだ。生きている場所の静けさじゃない。死んだものが時間をかけて積み重なった、そういう静けさだ)


「警告の刻印、ここだ」


 カトレアが壁を指差した。


 確かに、壁に文字が刻まれている。周囲には幾何学的な模様が施されていて、ただの警告文字じゃなく、何か意味が込められているようだった。文字は深く刻まれ、何百年もの年月を経てもなお、その威厳を保っている。古代ドワーフの技術力が、この刻印にも表れている。


「ここから先、罠がある。慎重に進もう」


「床もチェックして、カトレア」


「了解」


 カトレアが床をじっと見る。ドワーフの目が、細かい違いを捉えていく。石畳の一つ一つの微妙な色の違い、隙間のわずかなズレ、何百年もの年月で変化した床の歪み。それらすべてが情報として処理されていく。


「ここ、罠だよ」


 カトレアが床の一点を指差した。見ても、普通の石畳にしか見えない。色も質感も、周囲と全く同じだ。


「どうやってわかるの?」


 アリアが不思議そうに聞いた。彼女のエルフの視覚でも、このレベルの罠は見抜けないらしい。


「床の色が少し違う。踏むと矢が飛んでくるか、毒ガスが出るタイプだ。ドワーフの罠は見た目でわからないように作られることが多いんだよ」


「ギャハハ! 先祖が作ったくせに、我ながら嫌らしいね!」


(いや笑うな)


 カトレアが革のポーチから罠解除道具を取り出した。細いワイヤー、ピンセット、小さな鏡。一つ一つに愛着が感じられる道具たちだ。これらは彼女の仕事道具であり、ドワーフとしての誇りだ。使い込まれた道具の持ち方が、熟練の技術者の手つきだった。


 カトレアが細いワイヤーを床の隙間に差し込む。慎重に、丁寧に操作していく。カトレアの額には汗が滲み、息を止めて集中している。一瞬の油断が死に繋がる。その緊張感が、彼女から周囲に伝染していく。俺もアリアも、息を止めてカトレアの手元を見守った。


 カチッ。


 小さな音が静寂に響いた。


「解除完了。安全だよ」


 カトレアが立ち上がる。額に薄い汗が滲んでいる。大きく息を吐き、緊張を解く。


「すごい!」


「ドワーフの罠解除スキルは伊達じゃないよ。先祖代々受け継がれた技術だ。まあ、先祖が仕掛けた罠を解除してるわけだから、なんとも言えないけどね」


「……それはちょっと複雑な気持ちだね」


「ギャハハ! でも、解除できるならいいじゃん!」


 三人はさらに奥へ進んだ。


 通路を歩くたびに、照明魔法具の光が揺れて、壁の影が動く。その影が、まるで誰かが追ってくるような錯覚を起こす。アリアが何度か振り返った。


「何かいる?」


「いない。光の影だよ」


 でも、俺も一度だけ振り返った。誰もいない。ただ暗い通路が伸びているだけだ。


 薄暗い通路が続いている。左右に小さな部屋が見えてくる。かつてドワーフたちが働いていた部屋が、廃墟として残されている。


「古代ドワーフがここで採掘してたんだよ。鉄や銅、マナ鉱石も掘れたって聞いてる。でも、何百年か前から廃墟になって、魔物が住み着いたんだ」


 カトレアが説明する。声が少しだけ翳っている。自分のルーツに関わる場所が廃墟になっている、その哀しみが滲んでいた。


 壁のツルハシの跡、天井を支える柱の残骸、そして床に散らばった古い道具の破片——かつてここに人々の生活があったことを、静かに語っている。机の上には何も残っていない。埃だけが積もっている。指でなぞると、指先に灰のような埃がつく。何百年もの年月を経て、すべてが埃に帰している。


(先祖の職場が、廃墟になっている。その重さを、俺には想像しかできない。でも、カトレアは笑って前に進んでいる。それが、ドワーフの強さだ)


「でも、私が来た。ドワーフが、また古代ドワーフの場所に足を踏み入れた。それはそれで意味があると思う」


「カトレア……」


 アリアが優しい目でカトレアを見た。


「ギャハハ! しんみりしてても始まらないね! 次の罠を探しに行くよ!」


 カトレアが立ち直るのも早かった。


「あ、ここに古代ドワーフ文字がある」


 カトレアが壁の一角を指差した。


「何て書いてる?」


「えーと……『水に注意。古い水路が近い』かな。昔はここに水道設備があったんだ。鉱山内の水の管理は大事だったから」


「水道設備まで!? すごいな」


「ドワーフは技術の民だから。地下でどうやって水を引くか、換気するか——全部計算して作ってるんだよ」


(何百年前に作られた地下設備。先人の知恵と技術が、今でも壁に刻まれている。それは確かに、すごいことだ)


「ここ、昔は作業部屋だったのかな。机と椅子の残骸がある」


 アリアが古い家具の跡を指差した。


「そうかもしれない。採掘の記録を付けたり、道具を整備したりする部屋だよ。ドワーフの組織は地下を系統立てて管理してたから」


「鉱山って、暗くて怖いイメージしかなかったけど——こうして見ると、一つの町みたいだね」


「そうだよ。地下の町。そこで暮らす人たちがいた。子供も老人もいて、笑い声があって、喧嘩もあって」


 カトレアが少し遠くを見るような目をした。


「今は魔物の巣窟。でも——ここが生きていた時代があった。それを、私は知ってる」


 静寂の中で、カトレアの声だけが通路に響いた。水滴の音も、遠くのゴブリンの鳴き声も、その時だけは聞こえなかった。


「カトレアは、この場所が好きなんだね」


 アリアが静かに言った。


「好きかどうかわからない。怖くて、悲しくて、でも何か見ないといけない気がする。先祖が作ったものを、誰かが知らないといけない気がして」


 カトレアが足を止め、壁に手を当てた。


「集落にいる長老から、ここのことを聞いたことがある。若い頃に一度だけ来て、涙が止まらなかったって。なんで泣いたのか自分でもわからなかったって」


「それは——」


「今わかった。ここに来ると、先祖が確かに存在したことがわかる。生きてた。働いてた。笑ってた。それが全部、今はなくなっている。その事実が——目で見ると、すごくリアルなんだよ」


 カトレアが手を離して、前を向いた。


「だから来たかった。長老の話を聞いた時から、自分で見たかった」


(これがカトレアがこのクエストを即答した理由か。報酬だけじゃなかった)


 俺は何も言わなかった。カトレアが必要としているのは、言葉じゃなくて——ただ、聞いてくれる人だと思ったから。


 しばらく進んで、廃墟の中で少し広い部屋に入った。


 天井が高くなっている。壁には等間隔に松明を掛ける金具の跡が残っていた。床の中央には、かつて何かが置かれていたらしい、正方形の台座の跡がある。


「ここ、集会所みたいな部屋だよ」


 カトレアが言った。


「ドワーフは節目ごとに集まって、採掘の状況を報告したり、功績を称えたりする儀式があったんだって。集落長が演説する場所」


「演説、か」


「うん。ドワーフの言葉で『石に刻む』というのがあって、集会での言葉はちゃんと記録に残す。岩に彫り込んで、永遠に残す。言葉が口から消えても、石が覚えていてくれるから、って」


 カトレアが台座の跡に手を当てた。


「長老が言ってた。ここのダンジョンに来た時、一番泣いたのがこの部屋だったって。集会所の台座が残っていて、そこに手を当てて——なんで泣いてるかわからなかったって」


「今はわかる?」


 俺が聞いた。


 カトレアは少しだけ考えた。


「……集落が滅んでも、台座だけは残ってる。石は何百年でも待ってくれる。だから——長老は、祖先の声を聞きたかったんじゃないかな。台座に手を当てると、昔ここで話した人たちの声が聞こえる気がして」


 静かな返答だった。カトレアが感傷的な話をするのは珍しい。


「それは、聞こえた? 長老に」


「聞こえたって。石が温かかったって」


 沈黙。


「俺には手を当てても、石しかわからないと思う。でも、長老には——聞こえたんだな」


「うん。ドワーフにはドワーフの感じ方があるって。私はまだ若いから、そこまで感じるかどうかわからないけど」


 カトレアが台座の跡に手を当てた。しばらく、そこに立っていた。


(俺には邪魔できない時間だ。ここが何百年前に生きていた場所だということを、今この瞬間、カトレアは全身で感じている)


 アリアが、俺の袖を静かに引っ張った。そのまま、少し後ろに下がる。


 カトレアの時間を、二人で静かに守った。


 カトレアが手を離して、振り返った。


「ありがとう、二人とも。聞いてくれて」


「集落のみんなに、今日のこと話してあげて」


 アリアが言った。


「うん。手紙に書く。長老に」


 さらに進むと、ある部屋の中央に——宝箱があった。


「宝箱?」


 俺の冒険者の勘が、即座に警鐘を鳴らした。


「ガトーさんから聞いた。ミミックかもしれない」


「ミミック!?」


「宝箱の形をした魔物だ。近づくと食われる。遠くから石を投げてみる」


 俺は石を拾い、宝箱に向けて投げた。


 カツン。


 宝箱は反応しなかった。


「……本物かな?」


「もう少し様子を見よう。光弾で照らす」


 俺は魔力を指先に集め、宝箱に向けた。


「光よ、矢となれ——」


 短い詠唱で光の玉を飛ばす。柔らかい光が宝箱を照らした。木目、錆びた金具、埃の積もり具合——どれも本物に見える。宝箱は静止したままだ。


「大丈夫そうだ」


 カトレアが宝箱を開けた。ギギ、と錆びた蝶番が鳴く。蓋が開いて——


 銀貨五枚と、小さなルビーが輝いていた。


「お宝だ!」


 カトレアが歓声を上げた。ドワーフらしく、すぐに価値の計算を始めている。


「銀貨五枚と小さなルビー。価値は銀貨十枚ほど。いいスタートだね!」


「最初の宝箱で銀貨十枚の価値か。悪くない」


(本物の銀貨の重さは確かだ。このずっしりした感触が、現実の冒険者であることを教えてくれる)


 マッピングを続けながら探索を進めた。俺は羊皮紙の地図を取り出し、部屋の配置と通路の方向を記録していく。インクが羊皮紙に染み込み、地図が少しずつ完成していく。


「部屋の配置、通路の方向、罠の位置を正確に記録する。次の探索や、他の冒険者にも役立つ。それに、マッピングクエストとして追加報酬もある」


「ドワーフ的には一石三鳥だよ! 探索、素材回収、マッピング報酬! 効率的!」


(カトレアのコスト意識と効率の追求。学べることが多い)


 俺は地図を描きながら、ダンジョンの全体像をつかもうとした。


 第一層は、メインの通路が中央を貫いていて、そこから左右に枝分かれした小部屋が続いている。採掘エリア、休憩部屋、作業部屋——役割ごとに区画されていたことがわかる。現代のドワーフは地下鉱山を系統立てて設計する。その原型がここにある。


「ここ、採掘エリアが三か所確認できる」


「よく見てるね」


「壁の削られ方が違う。採掘した跡は、ツルハシで縦横に削ってある。でも作業部屋の壁は、平滑に仕上げてある。目的によって石の処理が変わるんだよ」


「カトレアが解説してくれると、廃墟が遺跡に見えてくる」


「そうでしょ! これは歴史の現場だよ!」


 時折、ゴブリンの気配を遠くに感じるが、まだ遭遇していない。遠くから聞こえる足音、鳴き声。それらが魔物の存在を告げている。


「まだ出てこないね」


 アリアが少し不思議そうに言った。


「これからだ。気を抜かないように」


 通路の先から、かすかに何かの気配がした。


(獣の匂いが——ここから少し先か)


## 最初の魔物


 通路の角を曲がった瞬間——気配を感じた。


 止まれ。


「止まって!」


 俺が叫ぶより先に、体が動いていた。


 獣のような臭い。荒い息遣い。そして——殺意。


 照明の光が、前方の影を照らした。


 緑色の皮膚。小さな体。鋭い爪と、敵意に満ちた目。皮膚には傷跡や痣があり、鋭い爪は汚れている。前世のゲームで見たゴブリンと似ているが、よりリアルで、より——醜悪だ。生きている魔物だ。


「ゴブリンだ!」


 カトレアが叫んだ。その声には、驚きと警戒が混じっている。


(リセットなし。コンティニューなし。死んだら終わり。これが現実だ)


「戦闘態勢!」


 俺は指示を出した。心臓が早くなっているのを感じる。でも、それが恐怖じゃなくて——少し、興奮に変わってきた。リーダーとして振る舞わなければならない。二人の命がかかっている。


「カトレア、前衛で受け止めて! アリア、援護して! 俺が魔法で攻撃する!」


「任せて!」


 カトレアのハンマーが輝く。ドワーフとしての前衛構えが、照明の光に映える。彼女の体が、戦闘態勢に入った。


 ゴブリンが叫び声を上げて突進してきた。


「ギャアアアア!」


 その叫び声は、ダンジョンに響き渡る。不協和音のような耳障りな叫びだ。知性を感じさせない獣のような凶暴性が含まれている。


 カトレアのハンマーが床を叩く——が、ゴブリンは回避した。速い。想像以上の素早さだ。石の床が砕け、石片が飛び散る。


「速い!」


 カトレアが驚く。予想以上のスピード。ゴブリンの貧相な体からは想像できない敏捷さだ。


「アリア、水の鞭!」


「はい!」


「水よ、我が手に従いて敵を縛れ! 水の鞭!」


 アリアの手から水流が迸り、ゴブリンの胴体に絡みついた。透明な水が鞭のようにしなやかに動き、ゴブリンの体に絡みつく。動きが止まった。


「そこだ! 光弾!」


 俺は魔力を一気に解放した。


「光よ、我の敵を討て! 光弾!」


 光の矢がゴブリンに命中する。光の衝撃が、ゴブリンの体を打ち付け、苦痛の叫びを引き出した。


「グギャアア!」


 ゴブリンの悲鳴がダンジョンに響く。よろめいた。体勢が崩れた。


「トドメだ!」


 俺は風の刃を形成した。詠唱が出てこない——いや、出てきた。でも短い。魔力が自然に流れる感覚があった。


「風よ、刃となれ!」


 鋭い風の刃がゴブリンを切り裂いた。数回痙攣し、動かなくなった。


 静寂が戻る。


 三人の荒い息遣いだけが、ダンジョンに響いた。


「倒せた!」


 アリアが安堵の声を上げた。膝が少し震えている。戦いの後の解放感が滲んでいる。


「初めてのダンジョンモンスター、勝利だ!」


 カトレアが拳を握る。その顔には、興奮と安堵が混ざり合っている。


 俺は倒れたゴブリンを確認した。


(ゲームとは違う。本物の生命だったものだ。重い感覚がある。でも、これが現実だ。目をそらすことはできない)


「セラ、大丈夫?」


 アリアが心配そうに聞いた。


「うん。大丈夫だよ。ただ、本物だという実感が来た」


「三人の連携は完璧だったよ。カトレアの前衛、アリアの援護、そして俺の魔法——全部がうまくいった」


「ふふ、ありがとう。セラの指示が的確だったよ。戦闘中、冷静に状況を判断してた」


「セラの魔法も進化してたよ。最後の風刃、詠唱が短かったね?」


「……あ。気づいた?」


「当たり前じゃん。耳あるもん」


(無意識に詠唱を省略してた。魔力が自然に動いたような感覚だった。体が覚えた——そういうやつか)


「感情と魔力がリンクしてるのかな。アリアを守らなきゃって気持ちが、魔力を引き出した」


「ロマンチックな理論だね」


 カトレアが皮肉っぽく言ったが、目は笑っていた。


「でも、私のハンマーも同じだよ。借金返済のために絶対に倒す!って気持ちが、あの一撃になったに決まってる」


「カトレア、それはロマンチックじゃないな」


「ギャハハ! 別にいいじゃん! 動機がなんであれ、結果が出ればいいんだよ!」


(カトレアの実用主義は、時々すごく正しいことを言う。目的が何であれ、行動した結果が本物ならそれでいい。今日俺たちが倒したゴブリンは、本物の手応えだった。その事実は、どんな理由があっても変わらない)


 俺は倒れたゴブリンをもう一度見た。


 感情が複雑だった。ゲームならここで経験値が入って、次の敵が出てきて、また倒すだけだ。でも今は——確かに一つの命を終わらせた、という感覚がある。それは、重い。


 でも、これが現実だ。この世界で生きていくためには、必要なことだ。その二つが、同時に俺の中にある。


「カトレアの戦い方、見てて思ったんだけど」


 俺が言った。


「なに?」


「ハンマーを振る前に、必ず一歩踏み込んでから振ってる。ゴブリンが回避した時も、その一歩が体勢を崩すのに役立ってた」


「あ、わかった? ドワーフの戦闘術だよ。ハンマーは重量武器だから、踏み込みの力を乗せないといけない。当たらなくても、踏み込みで相手の動きを誘導できる」


「アリアの水の鞭も、タイミングが完璧だった。ゴブリンが横を向いた瞬間を狙ってた」


「そうそう! 水魔法は速度が落ちるから、相手が静止している瞬間に絡めるのがポイントなの」


(二人とも、戦闘センスがある。俺は魔法の発射は任せてもらっているが、二人のスキルがあってこその後衛だ)


## 戦利品の回収


 ゴブリンの素材回収は、カトレアが担当した。


「ゴブリンの牙、耳、小さな袋……これらは価値があるよ。ギルドで買い取ってくれる」


「いくらになる?」


「牙二本、耳一対。袋の中には銅貨五枚。素材だけで銀貨一枚くらいかな」


「少ないね」


「ゴブリンは一番安い魔物だよ。でも、積み重なれば馬鹿にならない。私の借金返済計画では——」


「今は聞かなくていい」


「えー? 計算したんだけど」


「今は聞かなくていい」


 アリアが苦笑いしている。俺も笑った。


(カトレアのこういうところは、ある意味で尊敬できる。目標に対して常にブレない。それが、この小柄なドワーフの本当の強さだ)


「でも、このペースで行けば銀貨二十枚の報酬プラス素材で、借金返済が少し進む!」


「ギャハハ!」


(うん、それはそれでいいと思う。カトレアのモチベーションは明確で、強い。揺るがない動機が、最大の武器だ)


 少し休憩を取った後、俺たちは再び探索を続けた。


 ゴブリンを一体倒した後、俺の心の中には妙な静けさがあった。怖かったのは事実だ。心臓が飛び出るかと思った。でも——終わった後に残ったのは、恐怖じゃなかった。


(生き残ったという、実感だ。これが冒険者として生きるということか)


「セラ、さっき顔が真っ青だったよ」


 カトレアが言った。


「そう見えた?」


「見えてた。でも声はちゃんとしてたから、リーダーとして機能してた」


「頑張ったんだよ」


「ギャハハ! よく頑張りました!」


(褒められているのか、からかわれているのかわからない。でも、カトレアが言うと本気に聞こえる)


 通路を進みながら、地図に書き込んでいく。


 ゴブリンの足跡の跡がある。獣脂の匂い。小さな骨の欠片が床に散らばっている。こいつらは、ここで長い間暮らしているんだな、という実感がある。単なる「魔物」じゃなく、この廃墟の住人として——ここが「家」だ。


 それを俺たちが踏み込んで、倒して、素材にする。


(その割り切りが、冒険者の仕事だ。感傷的になることは許されているが、だからといって手を止めるわけにはいかない)


「次の通路、左と右がある」


 カトレアが言った。


「左は壁に亀裂が入ってて、天井が少し崩れそうな感じ。右は安全そうだけど、遠くでゴブリンの気配がする」


「どっちにする?」


「右の気配は、一体か二体だと思う。左はリスクが高い」


「右にしよう。先に障害物がない道で、カトレアが慣れている状況で戦う方がいい」


「了解!」


 少し先へ進むと、二体目のゴブリンと遭遇した。


 今度は少し落ち着いて対応できた。最初の時ほど心臓が跳ね上がらない。体が覚えている。


「カトレア、前で押さえて!」


「任せた!」


 カトレアのハンマーが素直に当たった。今度は回避されない。ゴブリンがよろめく。


「アリア!」


「水よ、我が手に従いて敵を縛れ! 水の鞭!」


 水流がゴブリンの足首に絡みついた。完全に止まる。


「光よ、刃となれ——ウィンド・エッジ!」


 詠唱が自然に出た。風の刃が走り、ゴブリンを撃破した。


「今、詠唱が変わった」


 アリアが指摘した。


「うん。さっきより言葉が出た。魔法の名前が、自然に——」


「セラ、それ、技名で呼べるようになってる」


(技名を呼ぶことで、魔力の流れが変わる。名前が魔法に意味を与える——エルフの魔法の仕組みの一端が見えた気がした)


「覚えてる名前が、ちゃんと使えるようになるんだな」


「成長してるよ、セラ」


 アリアが嬉しそうに言った。その笑顔が、ダンジョンの薄暗さの中で輝いて見えた。


 俺は手のひらを見た。魔力の残滓が、掌にまだ微かに残っている。温かい感覚。それが魔法の痕跡だ。


 ウィンド・エッジ。


 その名前を頭の中で繰り返した。風の刃は、名前をつけることで——形が変わった気がした。詠唱なしの時よりも、鋭く、速く。名前が魔法を強くするのか、魔法が名前に意味を与えるのか。どちらが先かはわからない。でも、確かに何かが違った。


(感情が魔力を動かす。名前が魔力に意味を与える。この世界の魔法の仕組みの一端を、少しだけ感じた気がする)


「セラ、今何考えてた?」


「魔法のことを」


「どんな?」


「名前をつけると魔法が変わるな、って」


「それ、エルフの魔法の基本だよ。言葉に宿る力が、魔法を形作る。だから詠唱がある。詠唱は呪文じゃなくて、意志を言葉に変える行為なんだって、師匠から教わった」


(アリアの師匠。エルフの魔法の系譜。俺が生まれた時から持っていた魔力は、どこから来たのか。それもいつか——わかる時が来る)


「ありがとう、アリア」


「どういたしまして」


 二体のゴブリンの素材を回収した。牙四本、耳二対、袋二つ。銅貨合わせて九枚。カトレアが丁寧に素材袋へ収納していく。


「合計、銀貨二枚くらいになるよ。宝箱と合わせると、今日の収穫は銀貨十二枚相当」


「悪くない」


「悪くないどころじゃないよ! 初日でこれだけ! このペースが続けば——」


「計算しないで」


「ギャハハ!」


 三人でマッピングを続けながら、ダンジョンの第一層を系統的に調査していった。カトレアが前衛で罠を探し、アリアが中衛で周囲を警戒し、俺が後衛で地図を描く。この配置が、体に馴染んできた。


 前と中と後。それぞれの役割が、干渉しない。前衛が動けば、中衛は斜め後ろで支援の準備をする。後衛は離れすぎず、近づきすぎず、魔法が届く距離を維持する。最初は言葉で確認していたことが、今は無言でできる。三人が一つの動きになっていく感覚があった。


「この地図、詳しいね」


 アリアが覗き込んだ。金髪がほわっと頬をかすめる。


「正確なマッピングはダンジョン探索の基本だ。次の探索や、他の冒険者にも役立つ。それに、マッピングクエストとして追加報酬もある」


「ギルドに提出すると、報酬がもらえるんだよ! マッピングクエストっていうの」


 カトレアが補足する。


「なるほど。一石二鳥だね」


「一石三鳥だよ。探索、素材回収、マッピング報酬。ドワーフ的には効率が大事なんだよ」


(コスト意識と効率の追求。カトレアに学べることは多い)


## 重力の罠


 地図が第一層の大部分を埋めた頃、俺たちは採掘エリアの奥にある部屋へ踏み込んだ。


 入った瞬間、何かがおかしかった。


 (空気が——重い)


 体が、少しずつ下に引かれる感覚がある。歩く度に、足が床に吸い付くような手応えがある。普通に歩いているはずなのに、一歩ごとに疲れていく。


「うわっ、なんだこれ」


 カトレアが足を持ち上げようとして、いつもより大きく体を揺らした。ドワーフの分厚い鎧が、普段より重く感じられているらしい。


「重力……魔法罠だよ」


 カトレアが低い声で言った。部屋を素早く見渡す。四隅の床に、うっすらと発光している石が見える。魔力が込められた石が、部屋全体に重力を強化する効果を発揮している。


「出ないと、体が持たない。私、鎧が重いから長くいると動けなくなる」


 カトレアが額に汗を浮かべながら言った。本当に、ゆっくりと押しつぶされていく感覚がある。


 (問題は、どうやってこの罠を無効化するか。魔力が込められた石を破壊するか、封じるか)


「カトレア、解除できるか?」


「物理的な罠じゃなくて魔法罠だから……道具じゃ難しい。でも、発光してる石に何かをぶつければ効果が止まるかもしれない」


 俺は照明魔法具の光が弱まっているのに気づいた。この重力強化、魔力まで圧縮している。通常の光弾では弱すぎる——そう直感した。


「アリア、魔力の感じは?」


「圧縮されてる。ここ、魔力の流れが歪んでる。でも——」


 アリアが俺を見た。


「セラなら。セラの魔力量なら、この圧縮の中でも届くかも」


 俺は掌に意識を集中した。重力が増している中でも、体の奥から魔力が湧いてくるのを感じる。制御が難しい。流れがぎこちない。いつものように魔力を掌に集めても、そのまま圧縮されて形が崩れていく。


 (詠唱が必要だ。形を言葉で固定する)


 俺は何かを探した。言葉を探した。


 「光よ、矢となれ」では弱い。「光弾」は広範囲だが精度が足りない。


 あの石に、届く言葉を。


 (光よ——道を、示せ)


 その言葉が、自然に浮かんだ。どこから来たのか、わからない。でも、それが正しい言葉だという感覚があった。魔力の流れが、その言葉に反応した。


「光よ、道を示せ——ライト・アロー!」


 光の矢が走った。


 普通の光弾とは違う。細く、鋭く、真っ直ぐに。方向が定まった光。圧縮された重力の中を、まるで糸を通すように進んでいった。


 ビシュッ——


 四隅の一つで、石が弾けた。淡い光が散り、その一角だけ重力が消えるのを感じた。


「もう三つ!」


 俺は矢継ぎ早に三発を放った。「ライト・アロー」を繰り返す。同じ言葉が、同じ形の矢を作る。同じ精度で、同じ正確さで。三つの石が順番に弾けて——


 部屋全体から、重力の圧力が消えた。


 ハアッ、と三人同時に深く息を吐いた。


「解除した……!」


 カトレアが膝に手を当てて、大きく息をしている。


「セラ、今の詠唱、初めて聞いたよ」


 アリアが真剣な目で俺を見た。


「そうだな。自然に出てきた」


「ライト・アロー。光の矢。普通の光弾と全然違った。制御が——すごく精密だった」


「言葉が、形を決めた」


 俺は自分の掌を見た。魔力の残滓が、普通より整然としている気がした。


(光よ、道を示せ——ライト・アロー。道を示す、か。何かを指し示す言葉が、魔力に方向を与えた。詠唱は呪文じゃなくて、意志の言語化だとアリアが言ってた。今日それが、はっきり分かった気がする)


「カトレア、重力の罠はドワーフのものか?」


「ドワーフは物理罠が得意で、魔法罠は珍しい。これ……エルフの技術かもしれない」


「エルフ?」


「昔、エルフとドワーフは協力してたって聞いてる。魔法技術はエルフが提供して、石工技術はドワーフが提供した。この罠は、エルフの魔法をドワーフが応用したに違いないよ」


(エルフとドワーフの共同作業。この世界の歴史が、廃墟の中に眠っている)


「それが今、俺のライト・アローで解除された、か」


「なんか、つながってるね」


 アリアが静かに言った。


「うん。つながってる」


 俺は地図に「重力魔法罠・解除済み」と書き込んだ。羊皮紙に刻まれた文字が、今日の発見を記録していく。


 途中でもう一か所、壁の罠を発見した。今度は床じゃなく、壁から矢が飛び出すタイプだ。


「壁の罠は珍しい。こっちに気を取られていると、床の罠を踏む——という二重罠の可能性もある」


 カトレアが慎重に確認しながら、順番に解除した。


「ドワーフは意地悪だな」


「先祖が意地悪なんだよ! 外部の人間が簡単に入れないようにするためだからね」


「内部の人間は覚えてたの?」


「経路を覚えるか、地図に記録するか。集落の長老から聞いた話では、安全な経路が言い伝えで残ってたらしい。でも今は……もうないね」


 カトレアが少しだけ口を閉じた。


(その「もうない」に込められた重さを、軽く流せなかった)


「でも、今日カトレアが来た。記録が続いた、ということだよ」


 俺が言った。


 カトレアがちらっと俺を見て——


「ギャハハ! なんかセラ、かっこいいこと言ったね!」


 笑い飛ばした。でも、その目は少し潤んでいた。カトレアが笑いながら泣きそうな顔をするのは、今日だけで二回目だ。それがカトレアという人間の、一番素直な部分だ。


 さらに探索を続け、もう一か所の罠を解除し、通路の奥の部屋を確認した。空き部屋が二つ、採掘の跡がある壁が三か所、そして壊れた道具の残骸。ドワーフたちの作業の痕跡は、至る所に残っている。


「カトレア、全部記録してる?」


「もちろん! この通路の分岐の形、壁の文字、罠の種類——全部頭に入ってる。帰ったら長老への手紙に書く」


「羊皮紙、足りる?」


「足りない! だから頭に入れてる! ドワーフの記憶力は岩と同じで頑丈なんだよ!」


(頑丈な記憶力。それがドワーフのもう一つの特技だ。カトレアが「即答」で何でも受け答えできるのは、記憶と計算が並列で動いているからなんだろう)


 地図が少しずつ完成していく。第一層の構造が、羊皮紙の上に現れてくる。


## 野営


 第一層の調査が一通り終わったのは、夕方近くだった。


 というか、ダンジョンの中に「夕方」という概念がないのだが、照明魔法具の魔力残量と、体の疲れから判断した。


「今日はここまでにしよう」


「うん。体力的に限界に近いかも」


 アリアが正直に言った。


 安全なエリアを探して、俺たちは野営地を探した。


 ダンジョンの第一層の端に、扉が残っている小部屋が一つあった。他の部屋と違い、扉が木製で、まだ蝶番が機能している。カトレアが罠がないことを確認し、壁に刻まれた古代ドワーフ文字を読んだ。


「『休息のための室。清浄。』だって。ドワーフが作業の合間に休む部屋だったんだね」


「それは安心だ」


 カトレアが扉の内側に重しを置いて簡易的に固定した。扉と枠の間に微妙な隙間があって、重しを使わないと半開きになる構造だ。カトレアは枠の角度と扉の重さを一瞬で判断して、最適な位置に荷物を当てた。


「ここなら安全だと思う。扉があるから、魔物が気づいても入ってこれない」


「外から見て不自然じゃない?」


「大丈夫。扉が古びてて閉まってるように見えるから、通りすがりのゴブリンはスルーするはずだよ」


「なるほど。カトレア、頭いいな」


「当たり前だよ。ドワーフは戦略的なんだよ! 借金返済も戦略的にやってるし!」


(カトレアの中では、借金返済が人生のあらゆる場面に繋がっているんだろう。それが彼女の動かぬ羅針盤だ)


 照明魔法具を部屋の中央に置き、松明を入り口の近くに据えた。温かい光が部屋を満たし、影が壁に揺れる。外の暗闇とは違う、人間的な光だ。ダンジョンに入ってから初めて、「安全」という感覚が戻ってきた。


 三人は野営地のセットアップを進めた。


「毛布は一枚ずつ。岩の床に直接置くと冷えが来るから、荷物を敷いた上に毛布を置いて」


 アリアが指示しながら、手際よく荷物を並べる。こういう実務は、アリアが一番得意だ。


「食料の管理は私がする。保存食の残量を確認して、明日の分を分けておかないと」


 カトレアが食料袋を開く。乾パン六枚、干し肉四切れ、干し果物が少し。三人一食分に計算すると……


「明日の朝ごはんと昼ごはんの分はある。夕方まで第一層を探索して、何もなければ帰還できる計算だよ」


「完璧な管理だ」


「もちろん! ドワーフは食料管理が命だから。地下で食料が尽きたら、それで終わりだからね」


 三人で寄り添って食事をした。乾パンは硬いが、体が疲れているせいか、やけに美味しく感じる。干し肉は塩気が強く、噛み切るのに少し力がいる。それでも、疲れた体に染み込んでいく塩気と脂は確かな栄養だ。水筒の水で流し込むと、冷たさが胃に広がった。


(ダンジョンの中で食べるメシか。質素だけど、なんか格別に感じる。外で食べるものより、ずっと美味い気がする。これが冒険者飯というやつだな)


「今日、すごかったね」


 アリアが言った。


「うん。初ダンジョン、無事に第一層をほぼ攻略した。ゴブリン二体を倒して、罠を五か所解除して、宝箱を一つ開けた」


「私の罠解除、役に立ったよね?」


「カトレアがいなかったら、今頃どこかの罠に引っかかってたよ」


「ギャハハ! そりゃそうだよ! 私の腕が頼りだよ!」


 声が少し大きかったが、まあ大丈夫だろう。


「今日一日で思ったんだけど」


 アリアが乾パンの最後の一切れを飲み込んでから、しみじみと言った。


「三人って、ちょうどいいね。一人じゃ絶対無理だったし、二人でも怖かったと思う。でも三人だと——なんか、バランスがある気がする」


「前衛と中衛と後衛。カバーしあえる」


「それだけじゃなくて。誰かが怖くなった時に、誰かが踏み出せる。誰かが疲れた時に、誰かが笑わせてくれる」


 アリアが俺とカトレアを交互に見た。


「ありがとう、二人とも」


「何言ってるの、当たり前じゃん」


 カトレアが照れたように言った。


(ありがとう、って言われると照れるのはドワーフも同じか)


 食事を終えて、三人は装備の点検をした。


 照明魔法具の魔力残量。松明の残り本数。回復薬の在庫。罠解除道具の状態。一つずつ確認して、問題がないことを確かめる。


「明日も使えそうだよ、照明魔法具」


「よかった。魔力の注入は俺がやるから、残量が減ってきたら言って」


「了解。カトレアの罠解除道具は?」


「問題なし! ワイヤーが一本曲がったけど、予備がある」


「完璧だ」


「ゴブリンの素材はちゃんと整理した。牙は乾いた布で包んだから腐らない。明日もう一体倒せたら、銀貨三枚の素材が揃う」


「何枚あれば借金がいくら減るの」


「今日の収穫全部で銀貨十五枚相当。私の借金が銀貨千枚として——まだ千分の十五しか減ってない」


 沈黙。


「……気長にやるしかないね」


「ギャハハ! そりゃそうだ! でも今日で、昨日より十五歩進んだ! 一歩一歩だよ!」


(そういう考え方は、すごいな。千枚の借金の重さに押しつぶされることなく、今日の十五枚を喜べる。カトレアの底力は、その視点にある)


 カトレアが荷物を整理しながら、ふいに言った。手は止めずに、声だけがぽつりと出てきた。


「今日、ダンジョンに入れてよかった。罠を全部解除できてよかった。ゴブリンを倒せてよかった——全部、よかった」


「カトレア、珍しくしんみりしてるね」


「借金の話じゃなくて、ね」


 カトレアが苦笑いした。


「うん。たまには純粋にそう思ってもいいじゃん。ドワーフだって感情があるよ」


「知ってるよ」


「ギャハハ! そりゃそうだ!」


「警護交代はどうする?」


 俺が聞いた。


「私が夜勤する。ドワーフは夜目がいいから、暗闇での警戒は得意だよ」


「カトレア、一人で大丈夫?」


「大丈夫。それに、セラは魔力を回復しないといけない。明日も魔法を使うんでしょ?」


 確かに。俺の魔力は体の回復と連動している。今日の戦闘で使った分、ちゃんと回復しておかないと明日が危ない。


「ありがとう、カトレア」


「いいよ。でも、明日は銀貨十枚分くらい頑張ってもらうよ!」


(そういう計算が瞬時に出るんだな)


 カトレアが見張りにつき、俺とアリアは横になった。ダンジョンの床は硬い。毛布を敷いても、地下の冷気が染み込んでくる。照明魔法具の光が部屋を照らし、カトレアのシルエットが入り口に映っている。


「……セラ」


 アリアが暗闇の中で囁いた。


「ん?」


「怖かったね。ゴブリンの時」


「うん。怖かった」


「でも、セラが指示を出してくれたから、動けた。私、一人だったら固まってたと思う」


「俺も怖かったよ。心臓バクバクしてた」


「え、そうなの? 落ち着いてるように見えた」


「リーダーが怖がってたら、チームが崩れるから。落ち着いてるふりをしてただけだ」


「……ふーん」


 アリアが少し考えるような間があった。


「セラ、すごいな」


「全然すごくない」


 俺は少し間を置いた。


「会議で緊張して声が震えるくらい、昔は度胸がなかった。今は——少しだけ、変わった気がする」


「会議?」


 しまった、と思った時にはもう遅い。


「えっと……昔ね。昔話」


「どんな会議?」


「……大勢の人が集まって、意見を言い合う場所。声が震えた。だから度胸がついた今の方が、ずっと楽だ」


「ふーん」


 アリアが少し考えるような間を置いた。


「セラ、たまに変な言葉を使うよね。『会議』とか、不思議な言い回しとか」


(やばい。聞かれた。どう答える?)


「エルフは輪廻を信じるから、過去生の話をすることがあるって聞いたことあって。それで、なんとなく」


「ふーん。じゃあ、セラの前世ってどんな感じだったの?」


「……普通の人間だったと思う。平凡な毎日を送ってた。今みたいに剣を持ったり、魔法を使ったりはしてなかった」


「それでもセラはセラだね」


 アリアが柔らかく言った。


「今のセラが大好きだから。昔がどんなだったかは、あんまり関係ないよ」


(これは……刺さる。過去を知らなくても、今の俺を見て「大好き」って言ってくれる。こういうことが、昔の俺にはなかった)


「ありがとう、アリア」


「うん。おやすみ、セラ」


「おやすみ」


 静寂がダンジョンを包んでいる。


 遠くでゴブリンの声がするが、今夜はここには来ない。


 俺は目を閉じた。


 魔法の名前が、ちゃんと口をついて出てきた。ウィンド・エッジと呼んだ風の刃が、確かに魔物を切り裂いた。自分でも驚くくらい、自然に。


(これが成長というやつか。気づかないうちに、体が変わっていく。強くなるということは——こういうことだ)


 遠くで、カトレアのつぶやきが聞こえた。


「二人、幸せだねぇ……」


(入り口で見張りながら、二人の様子を見てたのか。ありがとう、カトレア)


 カトレアの声には、少しの寂しさと、でも確かな優しさがあった。


 眠りに落ちながら、俺はカトレアのことを考えた。借金、集落再建、ドワーフとしての誇り。彼女が笑い飛ばす言葉の裏に、どれほどの重さがあるのか。


 入り口で見張りを続けるカトレアの後ろ姿が、目の裏に浮かんだ。照明魔法具の光が、彼女のすらりとした輪郭を照らしている。鎧の表面に光が反射し、短い足を踏みしめて、ダンジョンの暗闇を見つめている。


 銀貨千枚の借金。集落再建の夢。それだけじゃない。


 台座の跡に手を当てたカトレアの横顔も、目の裏にある。あの時、カトレアは何を感じていたんだろう。石の温もりを感じたんだろうか。先祖の声が聞こえたんだろうか。


 俺には、あの感覚はわからない。でも——わからなくていい気がした。それはカトレアだけのものだ。


 意識が遠のいていく中で、カトレアの声が聞こえた。


「……セラたちが寝てる」


 独り言だ。


「よかった。今日は疲れたから、すぐ眠れると思ったのに、なかなか寝れてないんだよね、あの二人。無理してたんだよ、絶対」


 カトレアが小声で続けた。


「私はドワーフだから夜目が効く。暗視能力で、二人の呼吸がちゃんと整ってるのがわかる。アリアも、やっと落ち着いた。よかったよかった」


 松明の炎が揺れる音。遠くで水滴が落ちる音。


「明日も頑張るよ。借金のためだけじゃなくて——今日の台座の跡、長老に報告する。あそこが残ってたこと、ちゃんと伝える。文字も読んだ。道具の跡も確認した。私が来た意味は、ちゃんとある」


 カトレアの声が、少しだけ低くなった。


「先祖に恥ずかしくない冒険者になる。借金なんか笑い飛ばすくらい、でっかいドワーフになる」


 俺は眠りの縁で、その言葉を聞いた。


(カトレア、聞こえてるよ。ちゃんと、聞こえてる)


 声には出せなかった。もう喉が動かなかった。


「ドワーフの集落、必ず再建しよう」


 心の中だけで言った。


 明日も、三人で前へ進む。


 今夜は、それだけ考えれば十分だ。


 遠くで水滴が落ちた。チポン、という小さな音が、静寂に溶けた。


 ダンジョンの静寂が、三人を包んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ