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神に楽しめと言われた。楽しみすぎて、神を超えた。  作者: issoh


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第60話 九十日間の終わりと始まり

# 第60話 九十日間の終わりと始まり


## 振り返りの日


 転生八十一日目から、九十日目まで。


 十日間が、静かに過ぎた。


 女装コンテストの余波は続いていた。廊下を歩けば視線が来て、名前を知らない生徒に声をかけられて、反感を持つグループからは意図的に避けられる。それが日常になった。


 でも、アリアとリリナとカトレアがいる。その事実は変わらない。


 昼休みは中庭でよく四人で集まった。アリアが今日の授業で面白かった話をして、リリナが真剣にメモを取って、カトレアが「そんな魔法、いくらで売れるんだろ」と言って、俺が「魔法を売り物にするな」とツッコむ。そういう時間が、自然な日常になっていた。


 ミサトとの犬猿の仲も、日常茶飯事になっていた。廊下でぶつかる、言い合いになる、「フン」で終わる——それが週に二、三回。


「またぶつかったね、ミサトさんと」アリアが言う。


「向こうも前を見てない」


「フン、って言ってすぐ行っちゃうよね。何か話すわけでもないのに、また言い合いになる」


「あのテンポが——嫌じゃないんだよな」


「えへへ、セラ、ちょっとミサトさんのこと好きかもよ」


「それは違う」


「でも嫌いでもないでしょ」


「……そうかもしれない」


 アリアに正直に言えるのが不思議だが、まあいい。


 魔法理論の授業では、「古代エルフは感情と魔力を直結させていた」という話が続いていた。感情が高まれば魔力も増幅し、感情が乱れれば魔力も暴走する。そのバランスを取ることが、古代エルフの修行の核心だったと。


 それは、自分に関係がある話だ。


 授業が終わった後、何度か試した。静かに呼吸を整えて、魔力の流れを感じる。確かに——感情が動く時、魔力の密度が変わる。アリアの笑顔を思い浮かべると、魔力が暖かく広がる。敵意を向けられた時は、尖った密度に変わる。


 面白い。これが古代エルフの感情魔法の原理か。


 実技の授業でも、少しずつ制御が上達している気がした。大きな力を細かく操る練習をしていると、指先から指先への魔力の流れが見えるようになってくる。まだ粗削りだが——確実に変わっている。


 ミナとも時々顔を合わせた。ミナは圧力を受けながらも、俺の側に来てくれることがあった。


「セラさん、最近どう?」


「まあ、普通に生きてる」


「無理しないでね」


「してない。楽しんでる」


「……そういう顔してるから、大丈夫か」


 ミナは少し安心した顔で、自分の席に戻っていった。言葉は短かったが——その短さに誠実さがある。


 学園での日々は、そういう小さな出来事の積み重ねだった。劇的なことは起きない。でも一日一日に、何かがある。


 そうやって、十日間が過ぎた。


 転生九十日目の朝、寮の自室で目が覚めた。


 窓から朝日が差し込んでいる。春の光が白い壁を照らして、学園の塔の影が斜めに伸びている。


 三ヶ月か。


 最初に目が覚めた日——エルフの森、裸で、何もわからないまま起きたあの朝——から、九十日。自分でも信じられないが、九十日が経過した。


 エルフの森での誕生、アリアとの再会、共鳴魔法の習得、聖三角の成功。あの時の高揚感——三人で手を取り合って、伝説級の合体魔法を発動できた瞬間——は、まだ鮮明に思い出せる。


 エルフの村を出た日も覚えている。村の人々に見送られ、境界線を越えた時の、期待と不安が入り混じったあの感覚。外の世界は広くて、何もかもが未知だった。


 最初の街、冒険者ギルドでの登録。能力測定で魔力が平均の五倍と出た時の驚き。初クエストでゴブリンを討伐した時の、妙な達成感。ボス級モンスターとの戦いで聖三角を発動して勝った時の興奮——それは今も体に残っている。


 カトレアとの出会い。鉱山クエスト、ドワーフの洞窟、ゴーレム討伐。借金の秘密を打ち明けてくれた夜、四人で一緒に頑張ろうと決めたあの夜。


 王都到着、魔法学園入学。女装コンテスト——あのピンクのドレスと、意図せず優勝してしまったあの日のことは、一生忘れないだろう。


 そしてミサト・ヴァレンタインとの出会い。あいつとの犬猿の仲が始まって、転生者同士の秘密を共有して——今の学園生活のリズムが出来上がった。


 全部あったことだ。


「もうそんなに経ったか」


 窓際に立ち、外を眺める。中庭の桜が咲いていた。転生後に初めて見た春だ。桜というものは、エルフの世界にもあるんだな、と初めて気づいた。前の世界とは少し花の形が違うが、確かに桜だった。


 部屋の静寂の中で、一つ一つを思い返した。


 聖三角の成功——あの時の光は、まだ瞼に焼きついている。アリアとリリナと三人で手を重ねた瞬間、魔力が光になって広がっていった。あれが共鳴の力だった。伝説級と言われていた技が、三人の絆で発動した。


 ボス級モンスターとの戦い。あの重圧。でも、乗り越えられた。


 カトレアが借金の話をしてくれた夜——あの時の、信頼してもらえた感覚。四人で何かを目指すという約束の夜。


 女装コンテストについては、あまり思い返したくないが——あれがなければミサトとも出会わなかった。何が転機になるかは、分からない。


 感謝しかない——と気づくのに、時間はかからなかった。


## アリアとの時間


 転生九十一日目の午後。


 中庭の桜の木の下で、アリアを待った。


 少し遅れてきたアリアは、制服姿で走ってきた。金色の髪が風に揺れ、ピンクの花びらが肩に舞い落ちる。


「待った?」


「少し。走ってきたのか」


「授業が少し伸びちゃって。先生に質問したら長くなった」


「質問したのか。偉いな」


「えへへ、先生に喜ばれた。でもセラを待たせちゃった」


「気にしない」


 息を切らしながら、隣に座った。少し頬が赤い。花びらが一枚、アリアの膝に落ちた。


「桜、きれいだね」


「うん、転生後初めての春だ」


「セラと一緒に見られて良かった」


 さらっと言えるな、とは思う。でも——俺も、そう思っていた。


 二人で桜並木を歩いた。花びらが舞い、春の光が木漏れ日になる。自然と歩調が合う。


「最近、忙しかったよね」


「魔法理論が面白くて、つい遅くなる」


「そういうセラ、好きだよ。楽しそうな顔してる」


 アリアが前を向いたまま言った。


「俺も、アリアのおかげで楽しめてると思う。学園に来た意味がある」


「えへへ。でも私のおかげじゃなくて、セラが面白いと思えるものを見つけたんだよ。私は——関係ない」


「アリアが一緒にいるから、学園が好きになった。それは事実だ」


 アリアが少し黙った。横を向いたが、表情は見えなかった。


「……セラって、ちゃんと言ってくれるよね」


「言いたいことを言っただけだ」


「それが難しい人が、多いんだよ。世の中には」


「アリアは難しくなさそうだが」


「私も、昔は言えなかったよ。伝えたいのに、どう言えばいいか分からなくて」


「今は言えてるじゃないか」


「セラがいるから」


 それだけ言って、アリアが前を向いた。


 歩いていると、手が触れた。アリアが止まらずに——そのまま握ってきた。


「このままでいい?」


「……うん」


 そのまま歩き続けた。アリアの手は小さくて温かい。会話は別にしなくても、それだけで十分だった。


「ねえ、セラ」


 桜の木の下で立ち止まって、アリアが言った。


「ん?」


「私、セラのこと大好きだよ」


 直球だった。


「……俺も、アリアのことが大好きだ」


 アリアが少し目を潤ませた。


「ずっと一緒だよ。何があっても、そばにいる」


「俺も、ずっとそばにいる。約束だ」


 二人は手を握ったまま、中庭に立っていた。周囲の学生たちの声が遠く感じる。春の光が、桜の枝越しに差し込んでいる。


 アリアが「えへへ」と笑った。目が少し潤んでいる。でも声は明るかった。


「セラって、ちゃんと言ってくれるよね」


「……さらっと「大好き」って言えるアリアの方が、よっぽどすごいと思うが」


「難しくないもん」


「俺には難しかった。こっちに来るまでは」


「じゃあ、こっちに来て良かったね」


「……そうだな。本当に、そう思う」


 二人は手を繋いだまま、中庭の散策を続けた。


 途中で、桜の花びらがアリアの頭に落ちた。


「あ」


「取ってあげる」


 手を伸ばして、花びらを取った。アリアが少し目を閉じて——開けた。その仕草が自然すぎて、俺の方が恥ずかしくなった。


「セラ、顔赤いよ」


「赤くない」


「赤いよ。えへへ」


 言葉は多くなかった。でも、それで十分だった。


 この人が近くにいる。


 それだけで、十分だ。


## リリナとの時間


 転生九十二日目の午後。


 学園図書館でリリナを待った。


 静かな空間だ。本棚が整然と並び、古い書物の香りが漂っている。大きな窓から日差しが差し込んで、読書に向いた光の質がある。


 リリナが現れた。制服姿、筆記用具を抱えて、少し急いだ様子で。


「待った? 授業が少し長引いて」


「気にしない。来てくれただけで十分だ」


 隣の椅子に座り、リリナが教科書を開いた。


「今日は来週の試験対策をしたい。魔法理論の復習」


「付き合う」


 二人で並んで勉強を始めた。魔力と感情のリンク、属性の相性、魔法陣の構造。リリナが分からない箇所を聞いてきて、俺が説明して、また次の箇所へ。


「ここが分からないんだ」


 リリナがページを指差した。古代エルフの魔法に関する章だった。


「古代エルフは感情と魔力を直結させていた。感情が高まれば魔力も増幅する——」


「これ、セラに関係があるよね」


「……授業でも言われてる。古代エルフの転生者という話で」


「うん。だから私、ここすごく気になって。セラが理解できるはずって思って」


 リリナが真剣な表情で言った。その眼差しに、深く考えてきた痕跡がある。


「リリナが俺のことを、そこまで考えてくれてるとは思わなかった」


「当たり前だよ。セラは……私にとって、特別だから」


 真剣な声だった。


「俺も、リリナのことが特別だと思ってる」


 リリナの耳が少し赤くなった。


 二人はしばらく黙って、勉強を続けた。図書館の静寂の中で、ページをめくる音だけが響く。窓の外では、春の風が木々を揺らしている。


「ここの説明、分かった」


 リリナが少し表情を明るくした。


「良かった。難しかったか?」


「最初は。でもセラの説明の仕方が分かりやすくて。魔力の流れを水の流れに例えてくれたやつ」


「あれは俺が魔法を習い始めた時に、先生に言われたことだ」


「誰の先生?」


「……アリアの前の師匠みたいな人。長老だ」


「そういう人が教えてくれたんだね」


「うん。最初は全然分からなかったが、じわじわ分かってくる感じがあった。リリナも、そうなると思う」


「セラがそう言うなら、頑張れる」


 リリナが少し微笑んだ。真剣な顔の合間に出るその笑顔が、図書館の光の中で清くていい。


「ねえ、セラ」


 リリナが手を止めた。


「私、転生前は孤独だった」


 唐突だった。でも——言いたかったのだろうと、分かった。


「家では誰も気にかけてくれなかった。学校でも友人はいなかった。一人で本を読んで、一人で過ごして、いつも——寂しかった」


 静かな声だった。


「でも、セラと出会って、アリアさんとカトレアさんと出会って。初めて「一緒にいたい」と思える人たちができた」


「リリナ……」


「私、四人での生活が大好き」


 リリナが俺を見た。まっすぐに。


「みんなで一緒にいる時が、一番——」


 言葉が途切れた。でも、続きは分かった。


「俺も、四人での生活が大好きだよ。これからもずっと、四人でいよう」


「うん、約束」


 勉強の後、二人は図書館を出て広場を歩いた。夕日が空をオレンジに染めて、学園の石畳が長い影を作っている。


「ねえ、セラ」


「ん?」


「私、もっと強くなりたい。セラみたいに、聖三角を使えるくらいに」


「リリナは既に使えてるじゃないか。聖三角は三人がいないと使えない技だ。それをできる時点で、もう十分だ」


「でも、個人の魔法がまだまだで」


「そこは練習だよ。三人で特訓しよう」


「……うん。セラと練習できるなら、頑張れる気がする」


 リリナの瞳が少し明るくなった。


 ベンチに座って、夕日を二人で眺めた。


「セラのことが、大好きだよ」


 リリナが静かに言った。


「俺も、リリナのことが大好きだ」


 答えた。言葉は短かったが、嘘はなかった。


 言葉より、その前後の沈黙の方が、何かを語っていた気がした。


## カトレアとの時間


 転生九十三日目の夕方。


 街の道具屋でカトレアを待っていた。


 日が沈みかけて、街に灯りがともり始めている。ドワーフが経営するこの店は、カトレアの馴染みの場所だ。


「セラ、待った?」


 カトレアが元気よく現れた。商人としての鋭い目つきと、戦士としての気迫が同居している。


「少し。商売の話してたのか?」


「ちょっとね。まあ、今日は手伝い要員として来てよ。店主が忙しいから、手伝ってくれるなら銀貨一枚」


「お、いいね」


「でしょ? ギャハハ!」


 商品の並べ替え、在庫確認、客への対応——カトレアが動くと、仕事が次々と片づいていく。手際が異常にいい。客への説明が分かりやすく、値段交渉も自然に落としどころを見つける。


「ちょっとこっち」


 カトレアが呼んで、棚の商品を指差した。


「これ、先週入ったやつだけど、置き場所が悪くてほとんど見られてない。こっちの角に移した方がいい。客の目線が来るから」


「……なんで分かる?」


「来店してから一番目に見える場所と、二番目に見える場所がある。一番目は売れてるもの、二番目は新商品。店主は慣れてるから気づいてないけど、客は新しい目で見てる。私はその違いが分かる」


 俺には分からない世界だった。


 棚を移動した。その後、その商品が実際に売れた。


「カトレア、商売、本当に上手いな」


「当たり前だよ。商人の魂を持ってるから」


 胸を張った。嘘がない顔だった。


「集落再建の夢、絶対に叶えてあげるよ」


「……うん、信じてる。四人で一緒にな」


 カトレアの声が、少しだけ変わった。


 手伝いが終わって、店の外で休憩した。


「ねえ、セラ」


「ん?」


「私、セラたちに出会えて、本当に良かった」


 珍しく真剣な顔で言った。


「出会う前は、借金のことばかり考えてた。毎日必死でクエストに出て、でも借金は減らない。一人で戦い続けてた。誰にも頼れなかったから」


 カトレアが夜の街を見ながら言った。


「でも、セラたちが助けてくれた。四人で一緒にやると言ってくれた。あの時——もう一人じゃないって分かった」


「カトレア、もう一人じゃないよ。四人がいるから」


「……うん、そうだな。四人がいるから」


 カトレアが少し横を向いた。


(この人、本当は繊細なんだよな。ギャハハの後ろに——ちゃんと傷がある)


 少し黙ってから、カトレアが言った。


「セラって、何も言わなくてもそばにいてくれるよね。そういう人、なかなかいないよ」


「カトレアが大切だから、そばにいたい」


「……ちゃんと言えるな、それが」


 カトレアがニカっと笑った。


「仲間として、友人として——大切に思ってるよ、セラのこと」


「俺も同じだよ。カトレア、頼れる仲間だ」


「えへへ、それが嬉しいんだよなあ。金になっても応援するよ」


 二人で笑い合った。


 店主から銀貨一枚を受け取った。カトレアが銀貨を掲げて「やった!」と言って、帰り道を並んで歩いた。月が出て、王都の夜が始まっていた。


「セラ、将来どうする?」


「将来?」


「学園を卒業したら、冒険者に戻る? 魔法使いとして就職する? それとも他の何かを——」


「……正直、まだ決めてない。でも、四人で何かをやるとは思ってる」


「四人で?」


「アリアとリリナとカトレアと一緒に。何をするかは、まだ分からないが」


 カトレアが黙った。珍しく黙ったままだった。


「……いいね、それ」


 小さく言った。


「四人で何かをやる、か。夢があるね。いや、夢じゃない——計画だな」


「計画、か。まだ具体的じゃないが」


「具体的にしていこうよ。私の集落再建も、その中に入れてよね」


「入れる。当然だ」


「ギャハハ! よし、契約成立!」


 帰り道の王都の夜は、明るかった。


## 九十四日間の締めくくり


 転生九十四日目の夜。


 アリアはリリナと勉強会に出かけて、カトレアはアルバイトに行っている。


 一人で月を見ていた。


 窓から見える夜空に、星が出ている。春の夜風が少し冷たい。


 九十四日。


 転生してから今日まで——何があったかを、順番に思い返せる。最初の混乱、エルフの森、アリア、魔法の修行、旅立ち、最初の街、カトレア、王都、学園、女装コンテスト、ミサト。


 全部あった。全部、今の自分を作った。


「俺の最初の九十日が、区切りを迎えたな」


 小さく呟いた。


 この九十四日で——本当に色々なものを手に入れた。魔法の力、友人、ライバル、学ぶ場所。前の生活では持っていなかったものが、今はある。


 アリアが笑う。リリナが真剣に勉強する。カトレアがギャハハと笑う。ミサトが「フン」と言う。それが日常になった。


 窓の外で、月が白く輝いている。夜風が少し冷たい。


 仲間たちは今頃、隣の部屋や別の棟で寝ているだろう。アリアは日記を書いてから眠るらしい。リリナは読書を続けすぎて途中で寝落ちすることが多い。カトレアは「布団に入った瞬間に寝れる」と言っていた。


 守りたい——という気持ちが、静かに湧いてくる。


 前の世界では——守れるものが何もなかった。守ろうとする気持ち自体、出てこなかった。でも今は違う。この三人は、守りたい。


 アリアの笑顔、リリナの真剣な眼差し、カトレアの「ギャハハ」。


 それが——あるだけで、いい。


「ありがとう、みんな」


 小さく呟いて、布団に入った。


 机の上に、古代エルフの守護指輪が置いてある。三人で受け取ったこの指輪は、絆の証だ。月の光を反射して、銀色に輝いている。


 これからは、冒険者デビューと王都編。学園生活はそのまま続くが、外の世界への活動が増えるはずだ。新しい冒険者クエスト、新しい出会い、新しい困難。


 怖くはない。怖くないというより——楽しみだ。


 アリアと、リリナと、カトレアと一緒に、次の章が始まる。


 目を閉じると、三人の顔が浮かぶ。


 次の日々も、頑張ろう。


 眠れそうだと思った、その時——


## 夜の呼び出し


 ノックが、した。


 深夜だった。


 月が大きく傾いている。時刻は夜中の二時を過ぎているだろう。学園の廊下は静かで、生徒たちは寝ている時間だ。


 もう一度、ノック。


 俺は起き上がって、扉を開けた。


 廊下に立っていたのは、学園の事務局員だった。若い男で、少し表情が硬い。手に、封書を持っている。


「セラ・ウィスパーウィンド生徒で間違いありませんか」


「……そうですが」


「こちらを」


 封書を差し出した。


 受け取ると——重さがある。封蝋がしてあって、印章が押されている。学園長の印だ。


「届けろと言われたもので。失礼します」


 事務局員はそれだけ言って、廊下を去っていった。足音が静かに遠ざかる。


 俺は扉を閉めて、封書を開いた。


 封蝋は学園長の印章だった。正式な書状だ。


 中に一枚の紙が入っていた。


 文字は少なかった。


―――


夜明けと同時に、執務室へ来ること。


緊急の案件がある。


他の者には知らせないように。


            ——学園長


―――


 読み終えた。


 もう一度読んだ。


(緊急。深夜に届けさせた。他者には知らせるな。——この三点セット)


 嫌な記憶が蘇る。サラリーマン時代、こういう呼び出しは大抵ろくでもない話だった。「緊急・極秘・早朝」は、良い話を持ってくる時には使わない言葉だ。


 でも——ここは前の世界じゃない。


 窓の外を見た。月が西に傾いている。夜明けまで、まだ間がある。


 仲間の部屋の方を見た。扉の向こうで、三人が寝ている。


 この書状を、三人には知らせない。「他の者には知らせないように」という指示に従う理由もあるが——それ以上に、余計な心配をかけたくない。


(守るために、一人で行く)


 すでに答えは決まっていた。


 布団に戻った。でも、眠れなかった。


 月が傾いていく。夜が深くなっていく。


 学園生活の最初の章が、静かに終わった。


 そして——新たな冒険の幕が、不穏に、開こうとしていた。


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