第4話 アリアとの再会
# 第4話 アリアとの再会
## 朝食の席
朝の光が木窓から差し込み、部屋全体を柔らかな金色に染める。
セラは重い瞼を開けた。
(……ああ。転生したんだった。エルフだった。幼馴染が美少女だった)
毎朝この確認作業をするのが、最近の日課になっている。前世では「今日の会議は何時だっけ」という確認作業だったのが、今世では「転生を受け入れる」という作業に変わった。
効率は悪い。でも、前世の確認作業より精神的充実度は高い。
「セラ! ご飯できてるよー」
階下からアリアの声がした。
(また早起きか。この子、毎日何時に起きてるんだ)
着替えを済ませ(今日は一人で)、一階へ降りる。
食堂に入ると、テーブルの上にすでに料理が並んでいた。濁ったスープ、色とりどりのベリーのサラダ、黒っぽいパン。
「座って座って! 冷めちゃうよ」
アリアがエプロン姿で手を拭きながら振り返る。今日も眩しい笑顔だ。
(……毎朝この笑顔か。朝からエンジン全開だな)
席に着いて、スープを一口。
「……美味しい」
「でしょ? 私、上手でしょ」
アリアが得意げに胸を張る。
「うん、確かに。アリア、料理上手だな」
「当たり前でしょ。セラの嫁になるんだから」
スープが喉に詰まりかけた。
「ぶっ——!」
「えっ、大丈夫!?」
「な、なんでもない! 今何て言った?」
「嫁になるんだから、って言ったよ。昔から決まってたじゃない」
アリアが真顔で言い放つ。その表情には、一瞬の迷いも曖昧さもない。
(え、待って。「嫁」? 「昔から決まってた」? この世界、そういうシステムなのか?)
セラは自分の皿を見つめた。
いや、待て。
落ち着いて考えろ。
(嫁。結婚の約束。幼馴染の美少女エルフ。なろう系かよ——いやなろう系だよこれは確実に。あれか、小さい頃に指切りげんまんでもしたのか。幼馴染との結婚の約束。ゴールデン定番展開だ)
(なんで俺が当事者なんだ。いやエルフだからか。エルフは幼馴染と結婚の約束をするものなのか? それとも俺個人の話か? アリアは今何歳なんだ? っていうかこの世界の「嫁」の概念は前世と同じか?)
(違ったらどうする? 同じだったらどうする? いやどっちにしても問題は同じで——なんで俺こんなに平静なんだ。前世の俺なら「は?」「え?」「ちょ」のループに入って五分は固まったはずだ。なのに今はスープを噛んで誤魔化してる。これが転生補正か。俺の精神年齢、誰かと交換されてないか)
「セラ、止まってるよ。顔が赤い」
「止まってない!! ちゃんと動いてる!!」
「えっ、ごめん。そんなに驚かせるつもりなかったんだけど……」
アリアが少し申し訳なさそうな顔をした。
(いや、驚かせるつもりがなかったのが一番怖い。当たり前のことを言っただけ、という顔だ)
「……昔から、決まってた?」
「うん。私たち二人は将来結婚するって、小さい頃に約束したじゃん」
アリアの言葉に、脳裏に断片的な記憶がフラッシュした。幼い二人、大きな木の下で、小指を絡ませて何かを約束している記憶。
「あ……」
「覚えた?」
アリアが期待に満ちた目でこちらを見ている。
「……うん、なんとなく。小指を絡ませて」
「そーそー! それ!」
アリアはテーブルをバンと叩いて喜んだ。
(……頭の中でずっと反響している。「嫁になるんだから」という言葉が。前世の俺には一生縁がないと思っていた言葉が。転生してエルフになったら、朝ごはんの席で当たり前のように言われた)
セラは深呼吸した。
魔力が少し揺れている。感情と連動しているから、心拍数が上がると魔力も上がる。今、心拍数が上がっている。落ち着け。落ち着け。落ち着——
「セラ? また止まってる」
「止まってない」
「止まってたよ。ほら、スープ冷めるよ」
スープを飲んだ。熱い。でも美味しい。
(……食べながら考えよう。人間、口が動いてると余計なことを考えにくくなるという説がある——エルフだけど)
向かいに座ったアリアが、自分の皿のベリーをつまみながら話し続ける。
「あのね、昔ね、セラが「アリアのこと嫌いじゃないから嫁にする」って言ったんだよ。覚えてない?」
「……そんなこと言ったのか、俺」
「言ったよ! 木の根元でキノコ採りながら」
「……エルフの子供、どんな会話してるんだ」
「普通だよ、普通!」
(普通なのか。前世の子供のキノコ採りは「今日の夕ご飯なんだろ」くらいの話で終わったが、エルフは「嫁にする」宣言が飛び出るのか。文化の差というものが広い)
スープをもう一口。ベリーサラダを一口。
黒いパンを一口。——もちもちして、中が柔らかい。
「……これ、なんのパンだ?」
「黒穀のパンだよ。エルフの定番食。栄養あるから毎日食べると魔力が安定するって言われてる」
「魔力と食事が関係してるのか」
「関係あるよ。食べるもので魔力の質が変わるって、長老が言ってた」
(長老。その名前が出てきた。昨日の夜、集会所の外に立っていた白衣の人影。あれが長老か。なぜあの人物はこちらを見ていたのか)
「長老って……どんな人だ?」
アリアが少し考えるような顔をした。
「厳しい、けど、すごく博識な人。エルフの集落で一番知識が深くて、昔のことをよく知ってる」
「昔のことを……」
「セラのこと、長老はなんか知ってると思う。お母さんもそう言ってたし」
(アリアのお母さんが。昨日の夕食で「長老が——」と言いかけて止まったのを思い出した。あの言葉の続きは何だったのか)
セラは黒パンをもう一口かじった。
「アリア。お母さんが言いかけてやめたこと——昨日の夕食で」
「え?」
「「長老が——」って言いかけて、止まったけど。聞いてたか?」
アリアが少し目を細めた。
「……聞いてた。でも、なんで止まったかは、私もわからない」
「気になるな」
「うん。私も気になる。あとで聞いてみようかな」
そう言いながら、アリアは少し遠い目をした。何かを考えているような顔だ。
(この子は——何かを知っている気がする。知っていて、まだ言えていないことが)
でも。
(今は聞かない。タイミングがある)
スープを飲み干した。美味しかった。
## 嫁宣言の処理容量が足りない
朝食が終わった後、アリアが「散歩に行こう」と言い出した。
「外の空気を吸いに行こうよ。ずっと部屋にいたでしょ、セラ」
「まあ……そうだな」
エルフの集落の外れに出ると、森の小道が続いている。木漏れ日が降り注ぎ、足元のコケを柔らかく照らしていた。鳥の声。風の音。
(いい場所だ。今まで住んでいた場所には、こんな静けさがなかった)
歩きながら、セラはふと先ほどの「嫁宣言」を思い返した。
(嫁ね。嫁か。……なんで俺こんなに平静に受け止めてんだ、おかしい、絶対おかしい。前の俺なら「は?」「え?」「ちょ」のループに入って五分は固まったはずだ。なのに今はスープを噛んで誤魔化してた。これが転生補正か。俺の精神年齢、誰かと交換されてないか)
(ただ冷静に考えると、この体の「セラ」は小さい頃にアリアと約束してるわけで、知らない話ではないんだな。でも俺は佐藤カズヤでもあるので、二十九年間で一度も「嫁」などという概念が自分の話になったことなどなく、処理システムがそのルートを通ったことがない)
(つまり今の俺は「慣れた体」と「慣れてない記憶」の二重人格になっていて、体は平静で脳は混乱している。これを「転生者の宿命」と呼ぶらしい。誰が呼んでるんだ)
「セラ、歩きながら考えてる顔してる」
「……考えてた」
「何を?」
「嫁、という単語の処理に人間はどのくらいの容量を使うのか」
「……何それ」
アリアが吹き出した。
「何でそんなこと考えるの」
「処理できてないんだ」
「何が?」
「色々と」
アリアが少し首を傾けた。それからにっこりした。
「処理しなくていいよ。そのうち慣れる」
(この子の「そのうち慣れる」という言葉の軽さが羨ましい。俺の側は今、まだ慣れてない部分が多くある)
## 秘密基地の記憶
「ここ、昔よく遊んだんだよ」
アリアが指差したのは、太い根が絡み合う大木の下。根と根の間に自然な空間ができていて、小さな隠れ家のようになっている。
「二人で秘密基地を作った場所だよね?」
気づいたら、そう言っていた。薄い、でも確かにある記憶。
「覚えてる!?」
アリアの目が輝いた。
「……なんとなく」
「すごい! セラ、大丈夫だね!」
アリアが嬉しそうに頷いた。そして——自然な動作で、セラの腕に自分の腕を絡めた。
(っ!!)
体が強張る。
「何? 硬くならないでよ。いつもこうやって歩いてたじゃん」
アリアは何の気兼ねもなく、セラの腕に自分の体を密着させている。体温が、薄い綿のシャツ越しに伝わってくる。
「う、うん。でも、ちょっと……」
「エルフの間では普通のことだよ。幼馴染だし、将来結婚するんだし」
(「エルフの間では普通」「幼馴染だし」「将来結婚するんだし」——三段論法で完全に詰められた。言い返せない)
「……俺の気持ち、少し混乱してて」
「うん、知ってる。ゆっくりでいいよ」
アリアはそう言って、セラの腕をギュッと抱きしめ、そのまま歩き出した。
「でも、私たちはずっと一緒にいるんだから。そのうち、また昔みたいになれるよね」
(……なれるといいな。いや、なれる。たぶん)
木漏れ日が降り注ぐ中、二人で歩く。アリアが横から体を押しつけてくる。体温がある。香りがある。
魔力が少し揺れる。感情に連動している。
(落ち着け俺。魔力が弾けたら今度こそ笑われる。それは嫌だ)
深呼吸。
少し、落ち着いた。
## 幼馴染の思い出
しばらく歩くと、小さな泉に出た。水晶のように透明な水が湧き出し、周囲には青い花が群生している。
「ここ、昔二人でよく来た場所だよね?」
セラの言葉に、アリアが驚きと喜びが入り混じった表情をした。
「覚えてる!? やっぱり大丈夫だね!」
泉の縁に腰を下ろした。水面に映る自分の顔を見る。
(……毎回びっくりする。鏡を見るたびに「誰?」ってなる)
アリアが隣に座った。肩が触れ合う距離。
「セラ。昨日、魔力が暴走しそうになったって聞いたよ。大丈夫だった?」
「……ああ、なんとかなった」
「よかった。私、すごく心配してたんだ」
「ごめん。心配かけたな」
「謝らなくていいよ。ただ、私がもっと早く気づいてあげられればよかったって思って」
アリアはそう言いながら、セラの肩に頭をもたれさせた。その体温と重みが、なんというか、心地よい。
「セラ、これからもずっと私のそばにいてね」
「……ああ」
「魔力が乱れる時も、困った時も、何でも言ってね。私が支えるから」
(……「支える」か。ずいぶん頼りがいのある言葉だ。職場の誰も、こんなことは言ってくれなかった。まだこんなに若いのに)
「ありがとう、アリア。君がいてくれてよかった」
「……うん。私もよ」
アリアが小さく呟いた。その言葉は静寂に溶け込んだ。
泉の水面に、二人の顔が映っている。銀髪と金髪。前世の俺には、こんな景色は一度もなかった。
(……泉に映る自分の顔が、「知らない人」に見えるのは相変わらずだ。でも今日は、隣にアリアがいる。二人で映っていると——「知らない人」の孤立感が、少しだけ薄れる気がした)
「ねえ、昔のセラって、どんな子だった?」
思わず聞いていた。
「どんな子?」
「うん。俺が覚えてない分、アリアから聞きたい」
アリアが少し考えた。
「うーん……すごく真面目だった。でも、突然変なことを言い出す」
「変なこと?」
「そう。たとえばね——」
アリアが少し笑いながら、泉の水面に指先でさわった。
「一回、「俺、ここが好きだ」って言いながら転んで頭から泉に落ちた」
「……」
「泉から頭だけ出して、「落ちた」って一言言ってた。そのまま十秒くらい動かなくて、私が泣きそうになった」
(……なかなかのエピソードだ。この体の昔の主は、どんな子供だったんだ)
「それで?」
「それで、やっと出てきたと思ったら「水の中の方が音が静かだ」って言ってた」
セラは少し吹き出した。
「……耳が鋭すぎたのかもな」
「そうかもね! いつも、音が多いって言ってたから」
(エルフの耳の問題は、生まれた頃から続いていたのか。この体は最初から「音が多すぎる」という問題を持ち続けていた)
「アリアは、そのとき——」
「怒った」
「怒った?」
「心配して泣きそうになってたのに、「水の中の方が静かだ」なんて言うから。馬鹿!って言って、逃げた」
「……ごめん」
「今謝っても遅い!」
アリアが頬をふくらませた。でも、口元が笑っている。
(……この子との昔があった。俺は覚えていないが、「俺」はちゃんとここにいた。頭から泉に落ちて、「水の中の方が静かだ」と言った「俺」が)
「……アリア」
「なに?」
「そのセラと——今の俺は、同じか?」
アリアが少し沈黙した。
「……似てると思う。変なところが似てる」
「変なところ?」
「なんか、思考が独特というか。普通の人が考えないことを考えてる感じ」
(水の中の方が音が静かだ、か。前世の俺も、自分が置かれた状況を分析することが多かった。転生してからも、毎回分析している。それが「同じ」なのか)
「……そっか」
「でも、あの頃より——どこかが違う気もする」
「どこが?」
「うん」
アリアが少しだけ横を向いた。
「なんか……目が、違う。昔のセラは、どこか、ちゃんとここを見てなかった。でも今は——ちゃんと見てる気がする」
(……見てる、か)
セラは泉の水面を見た。自分の顔が映っている。
(前世の俺は、何かをちゃんと見ていたか。コンビニの棚、職場の書類、スマートフォンの画面——そればかりを見ていた気がする。「目の前の誰か」をちゃんと見た記憶が、あまりない)
「……ありがとう、アリア」
「何が?」
「色々と。思い出を聞かせてくれて」
アリアが小さく笑った。
「当たり前でしょ」
また、あの言葉だ。でも今日は——少し温かく聞こえた。
## 魔力の安定
「ねえ、セラ」
しばらくの静寂の後、アリアが口を開いた。
「さっきから、魔力は落ち着いてる?」
「……うん、今は。君が近くにいると安定する」
「私が?」
「そうだよ。触れられた瞬間に魔力が落ち着く。君は俺にとって、何か特別な存在なんじゃないかと思って」
セラの言葉に、アリアの頬がほんのりと桜色に染まった。
「……バカ。変なこと言って」
彼女は不意に視線を逸らし、水面を眺め始めた。でも口元が少し笑っている。
「でも、もし私がセラの魔力を安定させることができるなら……それは嬉しいことだと思う」
アリアが小さな声で言った。
(照れてる。それでもきちんと嬉しいと言える。素直な子だ)
アリアはセラの腕に自分の体をもたれさせた。その瞬間、体内の魔力が劇的に変化した。
暴れまわっていた不規則な魔力が、秩序を与えられたように整然と並び始め、そして完全に静止した。波立っていた水面が鏡のように平坦になるように。
「これ……! 完全に安定した」
「え?」
「君が抱きついてきた瞬間に、乱れていた魔力がぴたりと止まった」
「私、何かした?」
「ただ、もたれかかってきてくれただけ。でも、それだけで魔力が完全に安定したんだ」
「えっと……なんか、すごいね」
アリアが照れたように笑った。
(「すごいね」で済ますのか。この子は本当に……天然なのか、それとも達観してるのか)
泉の縁で、しばらく二人で並んでいた。木漏れ日が水面に映り、きらきらと揺れている。
セラは、今の感覚を言語化しようとした。
(波が、凪いだ。それ以外に言いようがない。ずっと揺れていた水面が——アリアが触れた瞬間に、完全に鏡になった。魔力が「止まった」というより、「落ち着いた」という感じ。怒りが収まるというより、そもそも怒る理由がなくなったような——)
「ねえ、セラ」
「うん」
「これから毎日こうして散歩しようよ」
「……いいな。そうしよう」
アリアが満足そうに頷いた。そのまま、しばらく動かなかった。
(こいつ、寝るつもりじゃないだろうか)
「アリア」
「うん」
「今、眠いか?」
「……ちょっとだけ」
(肩に頭を乗っけたまま「ちょっとだけ」って言うのか。この子のペースが毎回つかめない)
「……寝るな。帰れなくなる」
「ちょっとだけなら大丈夫だって」
(大丈夫じゃない気がする。というかこの状況で俺が平静を保てるかという問題がある——落ち着け魔力)
手の平の先端が、ほんのりと光った。
「あ、また光ってる」
「……落ち着けって言ってるのに」
「何に言ってるの?」
「魔力に」
アリアが吹き出した。
## 予期せぬ新情報
帰り道。
泉から家に戻る小道を、二人は並んで歩いた。
「ねえ、セラ」
「うん」
「さっき、魔力が完全に安定したって言ってたよね」
「うん」
「それって……どんな感じだった?」
「波が、凪いだ感じ。ずっと荒れてた海が、急に鏡みたいに平らになる感じ」
「そっか」
アリアが少し考えた。
「私、セラの魔力に影響を与えられるって……正直、驚いてる」
「そうなのか?」
「うん。エルフって、親しい人の魔力を安定させることはできるって言うけど、こんなに劇的に変わるのは珍しいって思って。お母さんに相談したんだ」
「アリアのお母さんに?」
「うん。そしたらお母さん、少し黙ってて——」
アリアが言葉を止めた。
「どうした?」
「……長老に相談してみると、って言ってた」
(長老。昨日の夜、集会所の前に立っていた人影を思い出した。白い長衣を着た、老エルフ。こちらを見ていた——気がした人物)
「長老が……何か知ってるのか?」
「わからない。でも、お母さんの顔が少し真剣だったから、気になって」
「アリア」
「うん」
「長老は、何か言ってたか?」
「まだ何も。でも——ねえ、セラ」
「うん」
アリアが少し声のトーンを落とした。
「セラの魔力って、やっぱり普通じゃないと思う。私が触れるだけで完全に安定するって、エルフの本には書いてないから」
「……そうか」
「嫌だとかじゃなくて。ただ、ちゃんと知りたいな、と思って。セラのことを」
(この子は——本当に真っ直ぐだ。怖がるでも、距離を置くでもなく、ただ「知りたい」という)
「ありがとう、アリア」
「何が?」
「怖がらないで、そばにいてくれてること」
アリアがしばらく黙った。
それから——
「当たり前でしょ」
また、あの言葉だ。
(当たり前でしょ。——前世の俺には、「当たり前」にそばにいてくれる人間なんていなかったな)
家が見えてきた。
玄関を開けると、アリアのお母さんが台所にいた。アリアに似た、落ち着いた雰囲気の女性だ。
「お帰り。散歩してたの?」
「ただいま。セラ連れてきた」
「ああ、セラ。大丈夫だった?」
「……ご心配おかけしました」
「ちゃんと食べてる? 顔色は良くなったね」
「はい、アリアが色々と助けてくれて」
「そう。アリアが世話焼きだから、安心ね」
「お母さん! 世話焼きって」
「事実でしょ」
(親子の掛け合いだ。アリアのお母さんはツッコミ側だな)
## ◆夕食の席——そして母の一言
夕ご飯を食べながら、三人で話した。
エルフの集落の話、最近の天気の話、森の東側で新しいキノコが採れたという話。アリアのお母さんは穏やかで、話しやすい雰囲気だった。
「セラ、魔力の練習はどう?」
「少しずつ、できるようになってます」
「そう。アリアが教えてくれてるの?」
「はい。助かってます」
「アリアは昔から教えるのが上手いのよ。自分が理解したら、必ず誰かに伝えようとするから」
「お母さん!」
「褒めてるのよ」
アリアが少し照れた顔をした。
(アリアの母は、この子のことをよく見ている。褒め方が上手い。前世の職場の上司は「よくできました」と一言で終わりだったが、この人は「なぜできるのか」まで言う。違う)
「セラ、エルフの集落には慣れてきた?」
「……少しずつ。まだ知らないことが多くて」
「そうよね。焦らなくていいわ。ここはずっとあるから」
アリアのお母さんが穏やかに言った。
それから——
「そうそう、長老にね——」
言いかけて、止まった。
セラには聞こえた。「長老に——」と言いかけて、何かを思い直して、止まった。
(……聞き間違いじゃない。意図的に止めた)
アリアも気づいていた。母の顔をちらりと見た。
「お母さん?」
「……ううん、なんでもない。後でね」
後で。
(「後で」。明確に後回しにした。言えない何かがある——あるいは、セラの前では言えない何かが)
夕食が終わって、セラが自分の部屋に戻ったとき、体の中で魔力が穏やかに流れていた。
## 夜の内省
部屋に戻ってから、セラは窓を開けた。
夜のエルフの森。虫の声。遠くで何かが動く音。木の葉を揺らす風。
(今日は、色々あった)
嫁宣言。腕組み。泉での会話。魔力が凪いだ瞬間。昔の記憶の断片。そしてアリアのお母さんが言いかけて止めた言葉。
長老は、何を知っているのか。
アリアのお母さんは、何を言いかけたのか。
(気になる。気になるが——おかしいな、気になるのに今夜は不安じゃない)
手の平を見つめた。光を出してみる。青白い、淡い光。今日の午後より安定している。アリアが触れた後から、何かが落ち着いた気がする。
(アリアが「当たり前でしょ」と言うたびに、俺は少し驚く。前世の俺には、「当たり前」にそばにいてくれる人間なんていなかった)
(当たり前にご飯を作ってくれる人も、当たり前に心配してくれる人も、当たり前に「支える」と言ってくれる人も——いなかった。だからこそ毎回驚く。この子の「当たり前」が、俺には「奇跡」みたいに聞こえる)
光を消した。
ベッドに横になる。天井を見上げる。木材の、きれいな天井だ。
(……次は、もっと上手く魔力を制御できるようにしよう)
目を閉じると、すぐに眠れた。
アリアのお母さんは、何を言いかけたのか。




