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神に楽しめと言われた。楽しみすぎて、神を超えた。  作者: issoh


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第5話 エルフの文化

# 第5話 エルフの文化


## 朝の挨拶ハグ


 転生五日目の朝。


 セラはベッドで伸びをしながら、天井を眺めていた。


(だいぶ慣れてきた。この体に、この世界に。……とは思うんだが)


 窓の外から鳥の声が聞こえる。木漏れ日が差し込んでくる。エルフの森の朝は毎日こうで、穏やかだ。


 前世の朝とは比較にならない。あの頃の俺は、目覚ましを三回止めてから「会社行きたくない」と天井に向かってつぶやいていた。ここはそういう朝じゃない。穏やかで、清潔で、鳥の声が本物だ。


(鳥の声が本物、か。前世では「本物の鳥の声」というものを、どのくらい聞いていたんだろうな)


 思考がそこまで来た時。


 ノックもなく、ドアが開いた。


「セラ、起きた?」


 アリアの声だ。


「あ、ああ。起きたけど」


 寝間着のまま、寝癖がついた状態だ。完全に無防備。前世の感覚なら、異性に部屋をいきなり入られるなんてあり得ない。でもここはエルフの森。文化が違う。常識が違う。セラはそれを繰り返し自分に言い聞かせていた。


「おはよーう」


 アリアは明るい笑顔のまま、セラに近づいてきた。


(近づいてくる。えっ近い。ちょっと待っ——)


 そして当然のように——抱きしめてきた。


(……はあ!?)


 思考が停止した。


 柔らかい感触。温かい体温。アリアの髪から漂う、花のような甘い香り。心臓が跳ね上がるのが自分でもわかる。


「あ、アリア……? これは……」


「ん?何?」


 アリアは平然とした顔で、セラの胸に顔を埋めている。


「い、いや、だから……ハグしてるけど」


「当たり前じゃない。エルフの挨拶だよ」


「はあ!? 挨拶って——ハグが挨拶!?」


「そうだよ。朝の挨拶はハグ。おはようの気持ちを込めて、肌と肌を触れ合わせる。それがエルフの流儀」


(エルフお前ら何なんだよ……こんな文化、想像もしてなかったぞ……!!)


 体が、動けない。心臓が、正直者すぎる。魔力が、当然のように揺れ始める。


(前世の感覚が激しく抵抗してる。でもアリアはそういう意図では全くない。純粋に「おはよう」を伝えたいだけだ。それはわかる。わかるんだが——)


(心拍数が!!!!!)


「セラ、硬いよ?」


「そ、そうなるだろ普通……」


「もっとリラックスして。エルフの挨拶だから」


 アリアはセラの腕を離し、少し離れた場所に立った。


「まあ、慣れない内は仕方ないよ。でも毎朝するからね」


「毎朝……毎朝するのか」


「当たり前でしょ」


(当たり前でしょ、か。——俺の心拍数、毎朝鍛えられていくことになるんだな)


 アリアは満足そうにドアの方を向いた。


「朝ごはん、もう少しで出来るよ。着替えたら来てね」


「……はい」


 ドアが閉まった後、セラは一人でベッドの縁に腰掛けた。


(ハグが挨拶。毎朝。エルフすごい。俺の感覚、消滅しそう)


 まあ——嫌ではない。それが一番困る。


 手の平を見つめた。先端がほんのりと光っている。


(おい魔力。落ち着け。朝から暴走するな。エルフの挨拶に反応するな)


(でもな、魔力よ、お前が反応するのは仕方ない気もするんだよな。俺の感情に連動してるんだろ。俺の感情が正直なんだよ。体が正直なんだよ)


(前世の俺は感情を抑えることが多かったから、今世の俺が妙に正直なのかもしれない。転生してエルフになったら感情に素直になった。……なんだそれ。成長なのか後退なのかわからない)


 光が消えた。


 着替えを済ませて、一階へ降りた。


## エルフの文化講座


 食堂に降りると、すでに朝食が並んでいた。


 席に着いてスープを一口飲む。美味い。毎朝美味い。


「ねえ、さっきのハグって——」


 スープをかき混ぜながら、セラは切り出した。


「うん、なに?」


「あれ、本当に普通の挨拶なのか?」


「普通だよ。毎朝するじゃない」


 アリアがキノコを口に運びながら、あっさりと答える。


「言葉と行動が違うと、相手にどう思われるか分からないでしょ? エルフはそこをシンプルにしてるの。好きなら好き、嫌いなら嫌い。抱きしめたいなら抱きしめる。それがエルフの流儀」


(……確かに。言葉の裏の裏を読み合うコミュニケーションより、ずっとシンプルだ。前世の職場では、上司の言葉の意味を三段階くらい読んで「これは叱責か評価かどちらか」と分析していた。エルフのシンプルさは、それと正反対だ)


「エルフの世界、シンプルだな」


「でしょ? あ、あとハグだけじゃないよ。手を繋ぐのも、頭を撫でるのも、肩を組むのも。全部、気持ちを伝えるための自然な行為なの」


「そうなのか……」


「うん。エルフは、肌と肌を触れ合わせることで、絆を深めるの。言葉だけじゃ伝わらない感情がある」


(……それは、わかる気がする。誰かに肩を叩いてもらったり、握手したりで、言葉以上のものを感じたことがあった。まあ、前世では頻度が少なかったが)


「それに、セラとは特別な関係だから。もっと触れ合っていいんだよ」


「特別な、って」


「幼馴染で、結婚の約束してる相手でしょ」


(……嫁、という言葉が昨日からずっと頭に残ってる。処理しきれてない。処理の仕方を教えてくれ)


「まあ……そうだな」


「でしょ? だから当たり前なの」


(この子の「当たり前」の範囲が広すぎる。でも——不思議と、否定できない)


「ねえ、セラ。前世でも、好きな人に触れる文化はあったよね?」


「あった。握手とか」


「握手? それだけ?」


「あと、ハグも。でも、俺の生きてたところでは、特別な場合だけだったかな」


「特別な場合? じゃあ、特別じゃない時は?」


「……言葉だけ、かな。あるいは、何もしない」


 アリアが少し考えた顔をした。


「何も伝えないってこと?」


「伝えたいのに伝えない、ということが多かったかもしれない」


「……なんか、それはもったいない気がする」


(もったいない、か。前世の俺には「もったいない」という感覚がなかったな。言葉を言わないことを「普通」と思っていたし、距離を置くことを「大人」と思っていた。エルフの視点で見ると、単に「もったいない」だったのかもしれない)


「それはそれで、一つの文化だよ」


「うん。でも、伝えた方がいいと思う。エルフはそう考えてる」


「…………そうだな」


「あ、そうだ。今日は入浴の日だね」


 アリアが唐突に言った。


「入浴……? ああ、湯殿か。それは構わないけど」


「うん、一緒に行こう」


「一……一緒?!」


## 混浴の宣告


 スープが喉に詰まりかけた。


「コホッ……コホッ……! 一緒って——どういう意味の一緒だ!?」


「どういう意味って、普通の意味だよ。湯殿はみんなで使うものだし」


 嫌な予感がした。


「アリア。湯殿って……男女別なのか? それとも——」


「別々じゃないよ。エルフの湯殿は、みんなで一緒に入るのが普通」


「はあああああ!?」


 椅子がガタッと音を立てた。


「セラ、大丈夫!?」


「い、いや大丈夫だけど! 混浴!?」


「混浴? ああ、人間の世界じゃそう呼ぶんだっけ。エルフじゃただの入浴だけどね」


(……何でもないことのように言ってる!!)


 ここで、セラの思考が爆発した。


(行く。行くって言った。エルフとして生きる覚悟をした。アリアが「当たり前」と言う。エルフの文化に慣れると決めた。だから行く——でも待て)


(湯殿で「一緒に」というのは、アリアと二人きりということか? それとも集落のみんなが来るのか? みんなが来るとしたら人数はどのくらいだ? どちらが嬉しいかと聞かれると返答に困るが、どちらが問題か、という観点でも困る)


(心拍数の問題か、視線の問題か——いや、エルフは羞恥心が薄いんだとしたら逆に俺の反応が浮くだろうか。浮くな。絶対浮く。前世の感覚が抜けきっていない俺が混浴に行ったら、完全に挙動不審だ)


(でも行くと言った。行くって決めた。言ったからには行く。引けない。……で、なんで俺今、心臓が八分音符でリズム刻んでるの。覚悟と身体が全然話し合えてない)


「セラ、顔が白いよ?」


「どっちだよ! さっき赤いって言ってたのに!」


「今は白い。赤と白の中間だったのに」


(そういうことを言われると余計にパニックになるんだが)


「……分かった。行く」


「ほんと?」


「行くよ。行くって決めた。決めたんだ」


 自分に言い聞かせるように言った。アリアがにっこりする。


「期待してるね。楽しいよ、きっと」


(楽しいとは……思えない……今は……でも「楽しめ」って謎の声も言ってたな……。あの声、転生の時に聞いた「次は楽しめ」という声。あれは——本当に何だったんだろう。自分自身の声に似ていた気がした)


「アリア、その……他に誰が来るのか?」


「湯殿によるけど、今日は家族用の小さいとこにしようと思ってた。セラが慣れてないから」


「……気を使ってくれてるのか?」


「当たり前でしょ。いきなり大勢は大変だと思ったから」


(……この子はちゃんと気を使っている。俺が前世の感覚で困惑することを、ちゃんとわかっている上で、段階を踏んでくれている)


「……ありがとう」


「何が?」


「配慮してくれてること」


 アリアが少し首を傾けた。


「配慮って言うほどのことじゃないよ」


 そう言いながら、ほんの少しだけ、頬が赤かった。


## 湯殿へ


 夕暮れ時。


 空が茜色に染まり、森に影が伸び始めた。セラにとっての「試練」の時間が近づいていた。


 部屋でバスタオルを握りしめる。


(やる。やるんだ。エルフの文化だ。普通の入浴だ。前世の感覚は捨てろ。捨てられるか!?)


 深呼吸。もう一回。もう一回。


(覚悟を決める。エルフとして生きると決めた。エルフの「普通」は、俺の「普通」ではない。エルフの目で見れば、混浴は日常の一部だ。俺の体はエルフだ。——なのになぜ前世の脳みそがまだ「はあ!?」と言っている。脳みそよ、お前もエルフになれ)


 覚悟を決めて、廊下に出た。


「セラ、準備できた?」


 アリアが廊下で待っていた。水色のワンピース。髪をゆるく束ねている。夕暮れの光の中で、なんとも言えない清潔感がある。


「……ああ、だいたい」


「湯殿はこっちね。歩いて五分くらい」


 二人で家を出た。夕方の風が涼しい。森の木々が夕日を受けて金色に光っている。


「きれいな夕日だね」


 アリアが空を見上げた。


「うん。本当に」


(……本当に。前世の帰宅路に、こんな夕日はなかった。コンクリートとガラスの間から見える夕空は、なぜかいつも小さかった。ここは広い。空が広い)


 しばらく歩くと、湯気が立ち上るのが見えてきた。岩と木材で作られた建物から、絶えず白い湯気が上がっている。温かい湿気と硫黄の匂いが漂ってくる。


「ここだよ」


(天然温泉か。造りからして良さそうだ。……混浴でなければ)


「セラ、緊張してる?」


「……半分くらいかな」


「半分って、変な言い方ね」


 アリアがクスクスと笑った。


「前世の感覚がまだ抜けきってないんだよ。別々に入る習慣があったから——」


「だんだん慣れていくよ。エルフの体になると、エルフの感覚にも自然になっていくから」


 アリアがセラの手を握った。小さくて温かい手だ。


「私がいるから大丈夫。逃げなくていいよ」


(……逃げない。逃げるつもりはない。ただ、心拍数が正直者すぎて困る)


「……うん」


「行こう」


 アリアが引っ張るように歩き出した。


 手がつながれたまま、湯殿の扉に向かう。


(これが試練だ。試練——でも、不思議と、アリアの手が温かいと、少しだけ足が前に出る気がする)


## 混浴の現実


 湯殿の中は湯気で霞んでいた。


 更衣スペースに入ると、アリアは迷わず服を脱ぎ始めた。


「ちょっ、アリア!?」


「ん?何?」


「そんなにあっさり——!」


「脱がないと入れないじゃない」


 アリアは平然とした顔で服を脱いでいく。セラは思わず天井を見上げた。壁を見た。どこを見ていいかわからない。


(ダメだ無理だ見ちゃいけない……道徳観が警鐘を鳴らしてる……!!)


(いや待て。俺も脱がなきゃいけないのか。そりゃそうだ。入浴なんだから。でも、脱ぐということは——脱ぎます。脱ぎますよ。覚悟した。エルフとして生きると決めたんだろ俺。エルフの体なんだろ。エルフだ。エルフは脱ぐ。脱ぎます。……でも今、手が震えてる気がするのはなぜだ)


「セラ、早くしてよ。湯が冷めちゃう」


「あ、ああ……」


 覚悟を決めて、服を脱いだ。バスタオルで体を巻くことはしなかった。アリアも巻いていない。エルフの文化だ。


(カッコよく決めたつもりだったが、要するに裸だ。台無しというか何というか。転生から五日目にして最大の試練がここに来た)


(いや落ち着け。普通の入浴だ。エルフにとっては。文化の違いだ。俺がおかしいんじゃなくて、俺の前世の常識がエルフの世界では通用しないだけだ。呼吸を整えろ。魔力よ、今は絶対に暴走するな。お前が光ったら俺の動揺がバレる)


 二人で湯殿の中に入った。


 天然の岩盤浴場のような場所だった。湯がぽちゃぽちゃと音を立て、壁面からも絶えず新しいお湯が湧き出している。湯気に霞んで、視界がぼんやりしている。


(……これは良い。普通に良い。ここだけ切り取れば、温泉と変わらない)


 湯に入った瞬間、温かいお湯が体を包み込んだ。


「あっ……温かい」


「でしょ? 気持ちいいでしょ」


 アリアが湯の中で向かいに座っている。湯気に霞んで、詳細は見えない。見えないが——近い。


「悪くない」


 セラは正直に言った。


「前世にも温泉があったって言ってたよね」


「うん。疲れも取れるし、ストレス解消にもなる」


「エルフの湯殿も同じだよ。コミュニケーションの場でもあるけど」


 お湯の温かさが全身に広がっていく。緊張が少しずつほぐれていく。


(……不思議と、ほぐれていく。入ってしまったら——普通に温泉だった。体が温かい。足が伸びる。前世で温泉に行ったのは、いつが最後だろうか。二十代後半のどこかで、一度日帰り温泉に行ったが、それ以来行けてなかった。温泉は好きだった。この体でも好きだ。湯の質が違うかもしれないが——温かいというのは、気持ちがいい)


「ねえ、セラ」


「うん」


「慣れてきた?」


「……思ったよりは」


「でしょ?」


 アリアが嬉しそうに笑った。


「あ、そうだ。背中、流してあげようか?」


「はあ!?」


(また思考が停止した!!)


「背中を、流す」


「うん。エルフの湯殿じゃそういうのも普通だよ」


(交互に——いや落ち着け俺。エルフの文化だ。コミュニケーションだ。普通のことだ。普通の——絶対に普通じゃないんだが)


「……いいよ。お願いします」


「やった!」


 アリアがパッと顔を輝かせて、セラの背後へ回った。


 温かいお湯が背中に降り注ぐ。


「気持ちいい……」


 思わず声が出た。お湯の温かさが、肩の凝りをほぐしていくような感覚。


「でしょ?」


(……これは、正直に言って、気持ちいい)


 お湯が背中を伝って流れていく。湯気の中、アリアの声が近くで聞こえる。温かい場所にいる。


 セラはゆっくりと息を吐いた。


(転生して五日目。ここには、まだ知らない「普通」がたくさんある。でも——悪くない。こうして温かい場所にいて、アリアの声が聞こえて——「普通」というものが、前世と違う形でここにある)


「アリアも、背中を流そうか?」


「あ、じゃあお願いしようかな」


「……うん」


 今度はセラが背後に回った。温かいお湯を汲んで、アリアの背中にかける。


 返ってきたのは「きもちい」という、満足そうな声だった。


(……転生して五日目。こんな場所にいる。前世の俺が知ったら、信じないだろう。でも——これが今の俺の「普通」になっていくのかもしれない)


## 湯気の中の声


 しばらくして、湯殿の奥から人影が来た。


 白い長衣を纏った人物だ。セラは咄嗟に目をそらした——が、その人物がアリアに話しかけるのが聞こえた。


「アリア」


「あ、リルフェ長老!」


(長老。——昨日の夜、集会所の前に立っていた人影。あれがこの長老か)


 白衣の老エルフが湯殿に入ってくる。白く長い髪。深い緑色の瞳。皺が深く刻まれているが、その目は鋭かった。


「久しぶりね。体の調子はどうかしら」


「はい、おかげさまで」


 長老の視線が、セラに向いた。


 どこかを見透かすような目。静かで、深い目だ。


(……これが長老か。アリアのお母さんが名前を出して止まった、あの人物か。見た目より——目が若い。深緑色の目が、何かを知っている目をしている)


「……あなたがセラね」


「は、はい」


「顔を見てみたかったの。聞いていた通りの目をしてる」


(聞いていた通り? 誰から聞いたのか。何を聞いたのか)


「……どんな目ですか」


 思わず聞いていた。


 長老が少し目を細めた。


「迷っている目よ。でも、しっかり見ている目」


(迷っていて、しっかり見ている——そうなのか、俺は)


「……それは」


「良い目だとも思う。迷いがない者は、たいてい何も気づかないから」


 長老がそれ以上何も言わずに、向こうの浴槽に入っていった。


 アリアが、セラの隣に戻ってきた。ちょっと不思議そうな顔をしている。


「リルフェ長老、セラのことが気になってるみたい」


「……何か、知ってるのか」


「わからない。でも——お母さんが言ってた通りだと思う。長老は何か知ってる、って」


(お母さんも「何か知ってる」と思っている。昨日の夕食で言いかけて止まった「長老が——」という言葉。そして今夜の長老の言葉——「聞いていた通りの目をしてる」)


(誰から聞いたのか。何を聞いたのか。この体が生まれた時から、長老は何かを知っていた?)


「長老に、話を聞けるか?」


「……今度、お願いしてみる。でもリルフェ長老は気まぐれだから、すぐには」


 湯の向こうで、長老が静かに目を閉じた。


 その横顔が、何かを考えているように見えた。


(……この人は、何を知っている?)


 セラはしばらく、その横顔を見ていた。


 長老は何も言わない。ただ、湯の中で静かにそこにいる。


 でも——その沈黙の質が、ただ「知らない」という沈黙とは違う気がした。


(これは「言わない」沈黙だ。「言うべき時ではない」という沈黙だ)


## 帰り道


 湯殿を出た後、空は完全に夜になっていた。


 森の道を二人で歩く。足元に月光が落ちている。


「楽しかった?」


 アリアが聞いてくる。


(楽しかったか——正直に言うと、後半はリラックスできていた。温かいし、アリアと話せたし、背中を流してもらって気持ちよかった。最初のパニックさえなければ、普通に「良い体験」だった)


「……最初はパニックだったが、後半は悪くなかった」


「そう言ってくれると嬉しい。また行こうね」


「……慣れたら、な」


「慣れるよ、きっと。エルフの感覚は染み込んでくるから」


 アリアが自信満々に言う。


(エルフの感覚が染み込む——確かに、湯殿でも後半は「当然のこと」のような感覚に少しなってきていた)


 二人で歩きながら、セラはふと振り返った。


 湯殿の明かりが、遠くなっていく。


(……長老は、何を知っているのか。そして——「楽しめ」という声は、本当に誰の声だったのか)


「ねえ、アリア」


「うん?」


「長老に話を聞けるとしたら、何を聞きたい?」


「え? 私?」


「セラの魔力のことを、長老が知ってるとしたら」


 アリアが少し考えた。


「……セラが、なぜ特別な魔力を持って生まれてきたか、かな」


 それは当然の問いかけだと思った。


 でも。


「あと——」


 アリアが言いかけて、足を止めた。


「……なに?」


「あと……長老が昔、誰かにしたって言ってた予言。誰に、何を言ったのか。それも気になる」


「予言?」


「うん。お母さんが聞いたのは、それだから。長老が昔、ある子どもの誕生の時に予言した——って」


(ある子どもの誕生の時に、予言)


「……それが、俺の誕生のことか?」


「わからない。でも——」


 アリアが少し赤くなった。


「でも、そう思う。だって、お母さんが俺に話してくれたのは、その話をセラが生まれたときに長老から聞いた、って言ってたから」


(セラが、生まれたとき。この体の、セラ・ウィスパーウィンドが誕生した時に——長老が何かを予言した)


 風が吹いた。木の葉が揺れる。月明かりの中、エルフの森が静かに呼吸している。


(……この世界には、俺が来る前から、何かが準備されていた?)


「セラ」


「うん」


「怖い?」


「……怖くない。ただ」


「ただ?」


「気になる」


 アリアが笑った。


「それでいいよ。気になることは、ちゃんと調べればいい。私も一緒に調べる」


 当たり前でしょ、と言いかけて、今日は言わなかった。


 ただ、セラの手を一度だけ握った。それから離した。


(……この子は、本当に不思議だな)


 体の中の魔力は、今日も穏やかに、少しずつ安定しながら流れていた。


 でも今夜のセラの頭の中には——予言という言葉と、長老の深緑色の目と、アリアが言いかけて止まった何かが、静かに渦を巻いていた。


(楽しめ、か。謎の声よ——ちゃんと楽しんでる。でもそれと同時に、どんどん謎が増えていく気がするんだが)


 窓の外に、明るい光が差し込んでいた。



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