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第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(9)

 春市の朝、白匙亭の入口には列ができた。


 昨日までの列とは違う。

 椀を返す客は椀を持ち、預けた荷を受け取る客は預かり札を握っている。

 宿代を払う客は、銅貨を数えていた。


 ネリは入口脇に立った。

 左手に宿帳、右手に古い定規。

 目の下に少し影がある。

 それでも、ネリは客を呼べた。


 リュカは台の斜め後ろにいた。

 名を呼ぶのも、名の終わりに横棒を引くのもネリだ。

 リュカは、宿帳の背の光がどこへ走るかだけを見ていた。


 ガルは奥の椅子、厨房の女たちは椀返し棚の向こう側、豆売りの少年は橋の方。

 昨日より少しだけ、居場所が分かれていた。


「ボラン、水桶は運んだね」


 水桶を二つ運んだ男が前へ出た。


「水桶は二つ運んだ。朝の膳も食べた」


 ネリはボランの背中を軽く押した。


「橋の下の焚き火へ。昼まで寝るな」


「最後の一言いる?」


「いる。言わないと寝る」


 ボランは笑いながら頭を下げた。

 ネリは名の終わりに横棒を引いた。


 まっすぐではないが、客の名はそこで終わった。


 宿帳の余白が白く光り、字が浮かびかけたが、紙になる前に薄れた。


 ボランは聖人ではなく、眠い客として入口を出た。


「ミカ、昨日決めたことを声に出して」


 靴紐の男が前へ出る。


「宿代は半分払った。荷運びは半日する。靴紐は自分のだけ結ぶ」


「分かってる」


「昨日は分かってなかった」


「今日は分かってる」


 ネリが名の終わりに横棒を引くと、白い光が消えた。


「ペル、椀を返しに来たね」


 最後の麦粥を空けた若者が、両手で椀を持ってきた。


「まず棚へ置いて。宿代を払ったら、市の豆売りを手伝って」


「俺、聖人じゃない?」


「今は客。豆籠を運んだら、今日はそこで終わり」


「それなら、豆売りを手伝ってくる」


 ペルは椀を棚へ置き、台に銅貨も置いた。

 少し残念そうにしながら、それでも息を吐いた。

 ネリは名の終わりに横棒を引く。


 ネリは次々に、客の名の終わりに横棒を引いた。

 もちろん、すべてがうまくいったわけではない。

 巡礼団の一人は、宿代ではなく祈りで済ませようとした。

 ネリは施しと書いたところを見せた。


「祈りは修道院へ。宿には皿洗い」


 巡礼者は不満そうにしたが、厨房の桶を見て、袖をまくった。

 商人の一人は、荷を預けたまま市へ行こうとした。

 ネリは預かり札を返さなかった。


「荷を出すか、預け賃を置くか」


「細かい宿だな」


「細かくしないと詰まる宿だから」


 商人は銅貨を置いた。


 列は少し詰まったが、止まらない。

 昨日のように、誰も宿帳の前で拝み始めない。


 老人はボランに肩を借りて修道院へ向かった。

 豆売りの少年は籠を受け取り、市へ走った。

 巡礼団は椀を棚へ置いて坂を上がった。


 宿帳の余白には、まだ昨日のほめ言葉が残っていた。

 台の下で、はがした紙を入れた箱がかさかさ鳴る。

 最後に、ネリは自分の名を見た。


 聖ネリ、休みを後回しにした宿番。


 昨夜の字だ。

 余白にまだ残っている。


 ネリは定規を下ろせず、客たちもその字に気づいた。

 誰かが胸の前で指を組みかける。

 また、ありがたい沈黙が来そうになった。


 リュカは台の端で口を挟まなかった。

 ネリは定規を握り直し、自分の名を声に出した。


「宿番です。朝の膳もまだ片づいていません。休みも取っていません」


 そこで少しだけ笑いが起きた。

 胸の前で止まりかけていた指がほどけ、客は椀を棚へ戻し、銅貨を箱へ落とした。


「客ではありません。聖人でもありません」


 ネリは続けた。


「私は、ここで働いています」


 ネリは定規を紙へ当て、横棒を引いた。


 その瞬間、宿帳の背が今までで一番強く光った。

 名を書く場所で止まるはずの字が、裂け目を抜けて余白へ走る。

 台の下の箱がはじけるように鳴り、白紙が二枚、床へ滑り出た。


 聖ネリ、客を泊めすぎる宿番。

 昨夜、誰かがそう言ったのだろう。

 字になった途端、客はネリの足元の水たまりまで避け、冷えた椀にも手を合わせかける。

 聖ネリ、自分の椀だけ冷ます宿番。


 客たちは胸の前で指を組みかけた。

 拝む人が増えれば、誰も椀を置かなくなる。


 紙の一枚が、ネリの袖へすべっていった。

 袖に貼りつけば、手を動かす前に拝まれる。

 ネリは定規を引っ込めかけた。


 聖なる定規。


 定規の上へ、白紙が一枚すべっていった。

 ネリがそれを押さえる前に、列の前の巡礼者が膝を折りかけた。


「定規まで聖なるのか?」


 ペルが思わず言った。


「確かめる前に椀を置いて」


 ネリが低く言った。

 ミカが真面目にうなずきかけ、ミトに足を踏まれた。


 聖なる椀棚。

 椀を置こうとしていた客がためらい、後ろの椀がぶつかる。


 ネリは椀棚を見ず、椀を持つ客を見た。


 聖なる預かり箱。

 商人が銅貨を箱の口で止める。


「銅貨を入れて」


 ネリが言った。


「拝む前に、箱へ入れて」


 商人は慌てて銅貨を落とした。

 箱の中で、かつん、と普通の音がした。


 聖なる入口。


 入口の前にいた客が、片足を上げたまま止まる。


「入口は出るところ」


 ミトが厨房から言った。


「ありがたがるところじゃない」


 客の何人かが、膝を折りかける。

 入口の外の人まで足を止めた。

 魚屋の桶で魚が跳ねる。

 拝まれた瞬間、宿の道具は道具でなくなる。


 誰かがネリの名を呼ぶ前に、ネリは定規の端を帳面へ打ちつけた。


「椀は、いつもの棚へ置いて」


 ペルはびくっとした。

 それでも椀を置いた。


「銅貨は、もう箱へ入れて」


 商人は手を引っ込めた。


「出る人は、止まらず外へ出て」


 入口の客が、今度こそ一歩出た。

 その隙間から、外の冷たい空気が入る。

 拝む場所ではなく、通る場所の風だった。


 ペルが椀を棚へ戻し、商人が銅貨を箱へ落とした。

 入口の客は外へ出て、橋の少年は籠を肩へ掛け直した。

 魚屋も水場へ急いだ。

 宿は、ぎりぎりで拝む場所にならなかった。


 聖ネリ、朝になっても客を帰せない宿番。


「まだ続くのか。客が動けない」


 リュカはそう言って、初めて宿帳へ手を伸ばした。


「宿帳の背に触るぞ」


 ネリは定規を握ったまま、うなずく。


「今なら許す」


 リュカは、まだ少しだけ待った。

 椀を置いた客が棚から離れ、商人が箱から手を離し、客が一人ずつ入口を通る。

 椀を返させるのも、銅貨を受け取るのも、客を外へ送るのも、もうネリたちがやっている。

 宿帳の背だけに、まだ白い光が残っていた。


 リュカは鞄から細い銀の糸を出した。

 指先でつまむと、先だけが硬くなる。

 銀の糸は、椀にも、箱にも、入口にも向かわない。

 向かう先は、裂け目の残る背だけだ。


 リュカは宿帳の背へ糸を通した。


 糸は革へ沈み、紙の間をすっと潜った。

 余白へはみ出していた字が、縫い目の手前からほどける。

 床に落ちていた白紙の端が、ぱた、と伏せた。


 裂け目の端が寄り、宿帳の背に銀の縫い目が残った。

 残った銀の跡は、三つだけだった。

 白い光は、銀の縫い目を越えなかった。


 余白へ伸びかけていた字も、縫い目の手前で止まる。

 椀にも、銅貨の箱にも、入口の客にも、新しい字は伸びない。


 宿帳が音を立てた。

 ぱり、ではなく、古い革がゆるむような音だった。


 余白にはみ出していた白い字が薄れ、古い紙の色が戻ってくる。

 聖ネリ。その二字だけが最後まで残りかけた。


 ネリは定規を置き、その上を指で押さえた。

 今は逃げなかった。


「違う。私はネリだ」


 ネリは震えていた。

 それでも、入口の客たちは顔を上げた。


「ネリ、とだけ書いて」


 白い字が消えた。


 宿帳の余白は、ただの紙の色へ戻った。


 客が椀を棚へ置き、銅貨を箱へ落とす。

 荷札を受け取った客が、荷置き場へ回った。


 ネリはすぐに次の名へ移った。

 リュカの術のあとでも立ち止まらない。


 豆売りの籠は橋へ、魚桶は水場へ、巡礼団は皿洗いへ。

 ネリが名の終わりに横棒を引くたび、宿帳の余白は白いままだった。

 余白が光らなければ、客は次の場所へ動けた。


 一人だけ不服そうな商人がいた。

 昨日から聖人と書いた紙を胸に貼りたがっていた男だ。


「せっかくなら、少しくらい残してもよかったんじゃないか」


「何を残せばよかったの?」


「評判だよ。聖人が泊まった宿なら、客も増える」


「増えた客を誰が帰すの」


 商人は口をつぐんだ。


「泊まるだけなら増やせる。帰せない客は増やさない」


 ネリはそう言い、商人の名にも横棒を引いた。


 余白は光らなかった。

 商人は不満そうに銅貨を置き、荷を持って出た。


 ペルは空の椀を棚へ置き直した。

 ミカは自分の靴紐だけ確かめて、荷を持つ。

 ボランは長椅子を振り返ったが、今回は座らなかった。


「寝過ごしを許された客、廃業」


 自分でそう言い、橋の下へ歩いていく。

 三歩目であくびをしたが、誰も拝まず、誰も止めなかった。


 ネリは、やっと肩から力を抜いた。


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