第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(10)
昼前には、白匙亭の入口から聖人と書かれた紙が消えた。
何もかも消えたわけではない。
聖ボランと呼ばれた男は、水桶を運び終えたあと、まだ少し眠そうに笑っていた。
ミカは人の靴紐を見ないよう、両手で荷を抱えている。
ペルは豆売りの少年に、椀を返す棚の場所を教えていた。
誰も聖人ではない。
誰も拝まないので、椀を持つ客も荷を持つ客も止まらない。
聖人扱いがなくなって、少し寂しそうな客もいた。
宿代を払う時になって、急に手を合わせる客もいた。
ネリはそういう客へ、「施し」「手伝い」と書いた木片を台に置いて見せた。
宿帳は入口脇の台に置かれていた。
革の背には、銀の糸で留めた小さな跡が三つ。
目立たない。
だが、光の当たる角度によって、春の水みたいに少しだけ白く見えた。
ネリは台の横に、細い板を立てた。
泊まる人は名を書く。
帰る時は横棒を一つ。
板の下には、古い定規が横に置かれている。
隠してはいない。
ガルのものでも、宿帳のものでもない。
ネリの道具だった。
「書き方がそっけない」
リュカが言うと、ネリは板から目を離さずに返した。
「読めればいいの」
「読める。文句はない」
「なら黙って」
昨日と似たやりとりだった。
ただ、ネリの前には、冷えきっていない粥がある。
厨房から湯気が流れてきた。
春菜の麦粥だ。
朝の一番忙しい時間を越えたあとの粥は、麦が崩れかけている。
それでも、鍋底で焦げる前に止められていた。
ネリは椀を二つ持ってきた。
一つをリュカへ置き、もう一つを自分の前へ置く。
「食べるのか」
「何よ。食べたらおかしい?」
「昨日から、お前が座って食べるところを見ていない」
「そんなところまで見てたの」
「椀がいつも台の端で冷えてた」
「そこまで見られてるのが嫌」
ネリは匙を取った。
しかし、すぐには口へ運ばない。
台の上の宿帳を見て、入口の列を見て、椀返し棚を見た。
それから、やっと一口食べた。
春菜の苦みに眉を寄せる。
若い豆を噛むと、眉がほどける。
麦はやわらかい。
春菜は刻みが粗く、噛むたびに青い苦みが立つ。
豆は一つだけ固い。
ネリはそれを奥歯で割り、ようやく息を吐いた。
冷めかけた湯気には、朝の厨房の匂いがまだ残っている。
口の中に残る青い苦みが、眠気と苛立ちを遠ざけた。
底の方の麦は、鍋に長く残った分だけ甘い。
焦げる前に火から離れたので、苦みは春菜だけで済んでいる。
鐘を鳴らした分だけ、鍋底は黒くならなかった。
ネリはもう一口すくい、今度は急がずに飲み込んだ。
それが、ネリが座って食べた最初の椀だった。
「薄いけど、腹が落ち着く」
「苦みは残る。朝は少し苦い方が目が覚める」
ネリは椀の湯気越しにリュカを睨んだ。
怒るほどの元気は、まだ戻っていない。
「それ、褒めてるの」
「褒めてる。今朝のは特によかった」
ネリは小さく笑った。
今度はすぐ戻さなかった。
奥から顔を出したガルが、台の方を見る。
「今朝の横棒は?」
「名の終わりに引いた」
「曲がってたな」
「そこまで見てたの」
ネリは定規を、少しだけ袖で隠した。
「音で分かる」
「そこまで当ててくる親、嫌なんだけど」
「いい宿番の父親だからな」
「自分で言うの?」
ガルは満足そうに引っ込んだ。
外では、春市の客がまだ声を張っている。
入口は今日もこのあと、何度か詰まる。
それでも、客は椀を棚へ戻す。
定規もネリの手元にある。
はがした紙も、朝から一枚も増えていない。
リュカは床の隅に置いていた鞄を取った。
その前に、新しい客が二人来た。
一人は春市へ出す布を背負った女。
もう一人は、修道院へ行く道を間違えた若い巡礼者だ。
ネリは二人を同時には受けなかった。
「布の人は荷置き場へ。泊まるなら入口脇で名を書いて」
ネリは若い巡礼者を橋の方へ向けた。
「道を聞きたいなら、橋の柱のところで聞いて」
女は荷置き場へ回り、巡礼者は橋の柱の方へ歩いた。
二人が別々に動いただけで、入口は詰まらなかった。
リュカが少し笑うと、ネリが睨んだ。
「何を笑ったの」
「今の案内だ」
「案内しただけでしょ」
「二人とも止まらなかった」
「いちいち見張られてるみたいで嫌」
言いながら、ネリは布の女の名を書いた。
名の横に、泊まりではなく荷預かりと書く。
余白は白いままだった。
布の女は荷預かりの札を受け取り、少し首を傾げた。
「聖人の宿だって聞いたんだけど」
ネリは台の下の箱をちらりと見た。
はがした紙は、そこにしまってある。
「昨日までならね」
「今日は、何の宿なの」
「白匙亭。客を泊めて、荷を預かる宿よ」
ネリが答える。
「荷を預かってくれるなら助かるね。聖人の宿だと、値切りにくいし」
「値切る話は荷を見てから」
「少しだけ値切れない?」
「荷を一つ下ろしてくれるなら、少しだけ」
女は笑い、荷を一つ下ろした。
それで入口がまた半歩空いた。
若い巡礼者は橋の柱のところで道を聞き、上へ向かった。
途中で一度振り返り、白匙亭の看板へ手を合わせかけたが、ネリが睨むと慌てて頭を下げるだけにした。
「拝まれるより、会釈で済む方がまし」
ネリが言う。
「客がそこで止まらずに済むからな」
「そこは否定しないんだ」
「拝まれるよりはな」
ネリは少しだけ得意そうにした。
得意そうに胸を張っても、紙は増えなかった。
「もう行くの」
ネリが聞く。
「一晩泊めてもらった。朝も食べた」
「宿帳を見た分は? 縫った分まで、粥ひと椀で足りると思ってるの」
リュカは宿帳の背を見た。
銀の縫い目は、光が当たらなければただの修繕に見える。
そのくらい目立たない方がいい。
「さっき、空の椀を持った客が自分で棚へ向かった」
「それだけでいいの?」
「あれを見るために、朝まで残った」
「それじゃ安すぎるでしょ」
「なら、次に来た時に客として払う」
ネリは定規を指で回しかけ、すぐ止めた。
手遊びにするほど、まだ慣れていない。
「また来たら、宿代取るから」
「聖人でもか」
「次に来たら客でしょ。だから取る」
リュカは少しだけ笑った。
「客でいい。客の方が歩きやすい」
リュカは入口へ向かった。
入口脇の台で、宿帳が一度だけ鳴った。
ぱり。
ネリが振り返る。
リュカも見る。
余白は白いままだった。
名を書く場所に、細い字が一つだけ増えている。
リュカ。
それ以上は何もない。
ネリは定規を持ち、名の終わりに横棒を引いた。
「客として、もう行って」
リュカはその横棒を見た。
少し曲がっている。
だが、名はそこで終わっていた。
リュカはうなずいた。
「泊めてもらって助かった」
「何が助かったの」
リュカは一拍置いた。
昨日の麦粥。
床の隅。
名の終わりに引かれた横棒。
どれも白い紙にはならない。
宿帳は黙っている。
「飯と、寝床。あと、最後に引いてくれた横棒だ」
ネリは定規を握り直した。
呆れたように息を吐いたが、すぐには言い返さなかった。
「横棒まで礼を言われるとは思わなかった」
「あれがないと、俺の名も宿に残ったままだ」
ネリは宿帳を見た。
横棒の先に、余計な言葉は続いていない。
客の名は、そこで終わっている。
「じゃあ、客として帰って」
ネリの声を背に、リュカは白匙亭を出た。
橋の上では、若い豆の籠が日陰に置かれている。
川魚の桶は水場へ戻り、山羊チーズの包みは布の上で順番を待っていた。
修道院の鐘が鳴る。
その音で、余計なほめ言葉は増えなかった。
橋を渡る時、リュカは一度だけ振り返った。
白匙亭の入口で、ネリが次の客へ何か言っている。
橋の上のリュカには、言葉までは聞こえない。
でも、空の椀を抱えていた客は棚へ向かった。
荷袋を持った女も、入口の脇へ回った。
ネリはその二人を見届けて、やっと自分の椀へ戻った。
椀には、まだ細い湯気が残っていた。
ネリは匙を取り、今度は台の端へ戻さなかった。
リュカはそれだけ見て、谷の道へ向き直った。
背後で、白匙亭の鐘が一度鳴った。
厨房の女たちが鍋の前へ戻り、木べらが鍋底をこすった。
振り返らず、若い豆の匂いが残る谷の道を歩いた。




