第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(1)
結論から言う。
浅瀬亭の隣の湯は、客を休ませすぎる。
疲れを取るだけなら、名湯だった。
肩のこわばりをやわらげる。
膝の鈍い痛みも引いていく。
旅の埃も、汗も、靴底に残った長い坂のだるさも、湯の中でゆっくり抜けていく。
だが今年の夏は、効き目が少し強かった。
疲れは抜ける。
そのかわり、夕餉へ戻る足まで鈍る。
腹の虫は黙り、約束の時間まで、あとでいいと思えてしまう。
湯上がりの客は、宿へ戻る道を知っている。
浅瀬亭の暖簾も見える。
焼けた魚の匂いもしている。
それなのに、みんな橋で風に当たっている。
リュカがその湯治町へ着いた時、夕方の石畳にはまだ昼の熱が残っていた。
外套は腕に掛けているだけなのに重い。
襟は汗で湿り、背の荷は軽い。
肩には、紐の跡だけが残っていた。
食べ物が尽きたせいだ。
昼に口へ放り込んだ干し果は、とうに腹から消えていた。
川の音が近い。
湯の匂いも近い。
川と湯が近い町では、旅人はつい気を抜く。
リュカも、今日は少し楽をするつもりで歩いた。
たまにはいい。
埃まみれで町へ入り、足を洗い、熱い飯を食い、固くない寝床に倒れる。旅人の望みなど、そのくらいで足りる。
浅瀬亭の暖簾をくぐる前に、リュカは財布を開けた。
小銭を掌へ出した。
四枚。
飯だけなら足りる。
寝床だけなら足りる。
両方には足りない。
小銭四枚は、掌の上で軽く鳴った。
銅の薄い音は、さっきの腹鳴りより頼りない。
浅瀬亭は、湯屋の角を曲がった先にあった。
川に面した宿で、入口は大きく開いている。
暖簾の内側からでも、石畳の向こうに橋の欄干が見えた。
その入口から夕餉の匂いが流れてきた。
香草を腹へ詰めた小さな川魚。
井戸水で冷やした瓜。
林檎の酢漬け。
薄く切って焼いた黒パン。
湯上がりの喉に合わせた薄い麦酒。
入る前から腹が鳴った。
腹の方が、財布より礼儀を知らない。
広間では、膳だけが客を待っていた。
魚はまだ熱い。皮の端が、細くぱちぱち鳴っている。油が炭火へ落ちるたび、青い香草の匂いがふっと広がる。
だが席は空いている。
客がいない宿ではない。
履物はある。
椅子の背には、湯屋帰りの濡れた布が掛かっている。
椀にはまだ泡が残り、卓の端には半分だけ裂いた黒パンがある。
席だけが空いている。
空いた席には、それぞれ食べる途中の跡があった。
商人の席には、麦酒の杯だけが冷えている。杯の内側には、泡の輪がまだ残っていた。
巡礼者の席には、祈り紐が置かれていた。出ていくつもりなら持つはずのものだ。
荷隊の若者の席には、魚の身へ箸を入れかけた跡がある。皮の割れ目から湯気が消え、白い身の表面が乾き始めていた。
焼きたての膳は、待たせるほど姿を変える。
皮の音が消え、湯気が薄くなり、油が皿の上で少しずつ固くなる。
リュカは魚の皮のぱちぱちが弱くなるのを見て、腹を押さえた。
空腹の時ほど、冷めていく皿が気になる。
浅瀬亭の女将は、入口脇の焼き台と客席の間に立っていた。
焼き台の火を見ながら、客席と外の橋にも目を配っている。
空いた席より先に、リュカの掌の小銭を見た。
四枚。火から目を離さずに数えた。
「泊まりかい」
「泊まる。飯も食う」
「四枚なら飯までだ」
「寝床は皿洗いで払う」
女将はリュカの腹のあたりをちらりと見て、最後に外の橋を見た。
「食ったぶんの皿を洗うなら、寝床は出す」
「それでいい」
「ただし先に湯だよ。汗くさい客に魚は出さない」
入口に近い卓で、小さな娘が膳の前に座っていた。
前髪の端が、汗で少し湿っている。
口元は結んだままだ。
両手で魚皿の縁を押さえている。
皿の端には、よく焼けた尾がある。尾の細い骨は飴色に透け、塩が小さく光っている。
娘の膝には、結び直した小さな旅包みが乗っていた。
紐は青い。
大人の指には短く、子どもの指ではほどきにくい結び方だった。
「お父さん」
娘が橋の方へ声を張る。
「もう少し涼んだら行く」
入口の向こう、橋の欄干から男ののんびりした声が返った。
怒鳴っているわけではない。
困っているわけでもない。
川風の中で、返事の最後だけが長く伸びた。
「さっきも言った!」
娘は魚皿の縁を押した。
尾が揺れた。女将がすぐに皿を押さえる。
「皿を動かすんじゃない。尾は逃げないよ」
「お父さんが逃げる」
「逃げてはいないさ。橋でふやけてるだけだよ」
娘は女将を睨んだ。
女将は眉ひとつ動かさず、魚皿の蓋を直す。
「明日の朝には行くくせに!」
今度は橋から返事がない。
聞こえるのは川音と、湯上がりの客たちの小さな笑いだけだった。
女将の話では、娘は昨日から浅瀬亭に預けられている。
峠の荷が遅れ、父親は今夜だけ町へ降りてきた。明日の朝にはまた山道へ戻る。
荷隊の子が、町の宿で二晩、三晩と待つことはある。女将の口ぶりでは、珍しい話ではない。
珍しくないことと、寂しくないことは別だった。
広間の隅には、娘が自分で畳んだ小さな寝巻きが置いてあった。青い紐の旅包みは、その上に乗っている。
娘はその紐を、さっきから何度も指で押さえていた。
その父親が、魚の尾ひとつを食べに戻ってこない。
リュカは娘の前の皿を見た。
尾を守る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。
「夜明けの荷か」
女将が短く答えた。
「峠へ戻る荷隊だよ。夜明けに出る。青い紐を首に掛けた客が父親だ」
「なら、尾は今夜だ」
「湯上がりの客は、今夜の用事でも、あとでいいって言い出す」
リュカは娘を見た。
「娘には効かないのか」
「疲れを抜く湯だからね。あの子は疲れてるんじゃない。父親を待ってるんだよ」
女将は、薄く切った瓜を一枚、リュカの手にのせた。
「これは水代わり。膳じゃない」
川水で冷やした瓜は、持つだけで指が冷えた。
塩が少しついている。
噛むと、青い甘さが歯の奥に広がった。
余計に腹が鳴る。
その音に、娘がこちらを見た。
「お兄さん、食べる人?」
「食べる」
「じゃあ戻ってきて」
娘の指は、魚皿の縁に食い込んでいた。
戻ってきて、というより、皿の前から逃げるな、だった。
「まだどこにも行っていない」
「湯へ行くんでしょ。大人は、行ったら戻らない」
女将が娘の頭に軽く手を置いた。
「戻る客もいるよ。膳の前でぼんやりするから困るんだ」
「それ、戻ってない」
「まったくだ」
女将はリュカへ向き直り、指を三本立てた。
「湯へ行く。腹の虫を起こして戻る。膳を食う」
一本ずつ折る指には、小麦粉と魚の油がついていた。
「そこまでできたら皿を洗いな。寝床はそれで出す」
「鳴らなかったら」
「橋の風に泊まりな」
この宿では、困った客にも寝床は出す。ただし、飯と皿洗いの順番は崩さない。
「橋の風は、飯を出さない」
「寝床も出さない。だから宿があるんだよ」
リュカは小銭をしまった。
悪くない取引だった。少なくとも、腹の虫が大きく鳴るうちは。
女将は広間を見回した。
熱い魚と空いた席。冷えた瓜と減らない椀。食卓は整っているのに、客のいない椅子が並んでいる。
「今年の湯は、肩だけほぐせばいいのに、箸を持つ手まで鈍らせる」
「湯屋の隣は忙しいな」
「忙しいだけなら、まだましだよ。膳の前で箸が止まるから困るんだ」
女将は娘の魚皿の尾を見た。




