第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(2)
湯屋の裏口には、下足番がいた。
若い男で、袖をまくり、濡れた布を肩に掛けている。
額に汗はない。
湯屋の者らしく、熱い湯気のそばでも汗を拭こうとしない。
下足棚には客の履物がきちんと並んでいた。
旅靴、町履きの軽い靴、荷隊の革靴、巡礼者の古い靴。
濡れた足跡は石の上に散っているのに、棚の中だけはまっすぐだった。
そこだけは、町でいちばんきちんと並んでいた。
「浅瀬亭へ行くんですか」
「その前に湯だと言われた」
「では、靴はこちらへ。戻る時、迷わないで済みます」
「迷うほど遠いのか」
下足番は布を絞り、リュカの靴を見た。
「靴底が少し剥がれてます。長く歩きましたね」
「腹もだいぶ空いた」
「湯から出たら、右の暖簾を見てください。魚の匂いがします」
「女将に、腹の虫を起こして戻れと言われた」
下足番はそこで手を止め、靴からリュカへ目を上げた。
若いが、布を絞る手つきは固い。
濡れた布を握ったまま、棚の前から動かなかった。
「今年は、右の暖簾を見ても、みんな橋へ行くんです」
「下足番が止めるのか」
「靴は棚にあります。橋へ出る時は、湯屋の履き物を借りるんです」
「名前を聞いていいか」
「下足番のトマです」
「リュカだ。世話になる」
トマは下足棚の端を押さえ、浅瀬亭の方を見た。
「リュカさん。湯から出たら、右へ曲がってください」
「右くらいは分かる」
「浅瀬亭の暖簾があります」
「遠い道には見えない」
「近すぎるから、あとでいいと思うんです」
トマはリュカの靴を受け取り、棚の中段へ置いた。
青い紐の男の革靴が、その隣にあった。
靴の横に、短く切った荷縄がひと巻き置かれている。
明朝の荷隊のしるしだろう。
湯屋の履き物と替える木片が、一つだけ棚から抜けていた。
「隣の革靴の客は、どこへ行った」
「橋へ出ています。青い紐の人です」
「革靴を置いたままか」
「はい。湯屋の履き物を借りています」
「膳はまだ間に合うか」
「さっき、まだ皮が鳴っていました」
トマは淡々と言った。
言い終えると、布を絞る手が少し遅れた。
湯は熱かった。
湯屋の中は、石と木と湯気の匂いで満ちていた。
天井の梁から水滴が落ちる。
誰かが桶を置く音が、湯気の中でくぐもった。
リュカは体を洗い、肩まで湯へ沈めた。
最初に薄れたのは、足裏の痛みだった。
石畳の熱。峠道の砂。宿を探して歩いた町の角。その残りが、足裏から少しずつ薄くなった。
次に肩が軽くなった。
外套の重さ。荷の紐。雨に降られた日の古いこわばり。湯に浸かっているうちに、それも一つずつ緩んでいく。
それはいい。
とてもいい。
リュカは目を閉じた。
旅人が湯へ肩まで沈むと、頭に浮かぶものは多くない。
今夜の飯。明日の距離。靴底の残り。雨の匂い。
だが、魚の匂いを思い出そうとしたところで、さっきまでの腹鳴りが止まった。
さっきまで空だった腹が、急に静かになる。
腹の底で騒いでいた虫が、ぴたりと止まった。
魚。
瓜。
林檎の酢漬け。
黒パン。
名前は言える。皿にのった姿も思い出せる。焦げた皮の色も、瓜の青さも覚えている。
なのに、体が欲しがらない。
あとでいい。
リュカは目を開けた。
湯気の向こうで、老人が湯の縁へ腕を預け、長く息を吐いている。
商人の身なりをした男は、湯の縁へ腕を置き、宿の方角を見ずに笑っている。
巡礼者は、湯の中で小さく祈りの言葉を唱え、そのまま半分眠りかけていた。
あとでいい。
誰かがそう言ったわけではない。
それでも湯の中の客は、そろって目を細めて息を吐いていた。
湯の中では、急げと言われても、まあいいかと笑いたくなる。
商人は「あとで払うよ」と言い、巡礼者は「あとで祈ります」と言い、荷隊の若者は「あとで荷を見ます」と言う。
どれも、嘘ではない。
嘘ではないから、湯に浸かっていると、つい口に出したくなる。
リュカも、もう少しで同じ言い訳を口にしかけた。
あとで女将へ謝ればいい。
あとで娘の父親も戻るだろう。
あとで腹が鳴ったら食べればいい。
だが旅の途中で、あとで食べる飯ほど信用できないものはない。
雨は降る。
店は閉まる。
約束した相手は先へ行く。
いつものリュカなら、そこで腹が鳴り、すぐ湯から上がった。
今は鳴らない。
立ち上がる気にもならない。
危ない。
リュカは湯から上がった。
体は軽い。軽すぎる。濡れた髪を布で拭き、足を洗い、裏口へ出る。
川風に、思わず足が止まりそうになった。
湯で温まった首筋に、夕方の風が当たった。
石畳はまだ温かい。けれど風だけは、水を含んで涼しい。
橋の上には人影があり、売り声も聞こえる。
瓜を割る音。
麦酒の泡をすくう音。
酢漬けを混ぜる、湿った音。
浅瀬亭は右にある。
知っている。
リュカの足は、橋へ向いた。
「リュカさん、そちらは橋です」
トマが言った。
トマは濡れた布を握ったまま、橋の方を指した。
「橋へ向いているのは分かっている」
「浅瀬亭は右手です」
「浅瀬亭が右なのも分かっている」
「なら、どうして橋へ行くんですか」
リュカは答えようとして、口を閉じた。
橋へ行きたいわけではない。宿へ戻りたくないわけでもない。女将との取引を忘れたわけでもない。
ただ、急がなくていい。
その気分だけが残り、魚の匂いを吸っても、リュカは宿へ急げなかった。
「腹が鳴らない。魚の匂いはしているのに、食指が動かない」
トマは眉を寄せた。
「さっきは、よく鳴っていました」
「今は、匂いがしても鳴らない」
「湯に入ると黙るんですか」
「湯から出ると、膳の前で食べ始められない」
リュカは自分の腹に手を当てた。
鳴らない。
さっきまであれだけ騒いでいた腹が、急に音を立てなくなっていた。
「腹の虫だけ、まだ起きてこない」
トマは布を握った手を少し止めた。
「橋へだけは、すぐ出ていくんです」
「橋へ行く時だけか」
「膳が冷めても、誰も席へ戻りません」
トマは青い紐の男の革靴を見た。
「あの人も、娘さんの膳を見て、うまそうだって言ってました」
「それで、急がず橋へ出たのか」
「急ぐ客の歩き方じゃありませんでした」
リュカは自分の腹に手を当てた。
鳴らない。
魚をうまそうだと言えるのに、食べに戻らない。
娘を待たせているのに、足取りだけがのんびりしている。
忘れ物なら呼べば戻る。だが、父親は欄干に肘を預け、川面を見たままだった。
トマは下足棚の中を見た。
「戻る客なら、ここで紐を締め直します」
「青い紐の男は、締め直していない」
「ほどいたままです」
トマは棚の靴を見た。
棚にある靴は、どれも紐がゆるんでいた。
「それなのに戻らない」
トマは返事の代わりに、青い紐の父親の革靴を見た。
「あの人の靴も、紐をほどいたままです」
靴紐はほどけたままだ。
戻る気はある。
おかしくなるのは、湯屋を出たあとの二歩目だった。
トマは下足棚を閉めた。
「右へ一歩だけ、出てみますか」
「宿へ戻る気で歩いてみる」
リュカは一歩、右へ踏み出した。
今度こそ宿へ戻る。そう決めていた。
だが二歩目で、足先が橋の明るい方へ向いた。
考えるより先だった。
トマは止めなかった。
棚の前で、濡れた布を握ったままリュカの足先を見ている。
客たちは道を間違えているのではない。
食卓へ戻る前に、足先が川風の方へ出てしまう。
リュカは橋を見た。
川風が涼しい。
浅瀬亭の方から、魚の脂と香草が川風に混じる。
右へ向けたつま先が、川風の方へ戻る。
魚の匂いはするのに、膳へ戻る気にならない。
いい湯だった。
旅の汗が抜け、肩の奥のこわばりがゆるみ、腰に残っていた鈍い痛みまで消えている。
湯気でまぶたが重くなり、湯屋の窓の向こうに橋の欄干がぼんやり見えた。
袖が触れる腕の肌も、湯を浴びたあとのぬるさを残している。
窓から入る川風も涼しくて、もう一度肩まで沈みたくなる。
だから厄介だった。




