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第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(3)

 リュカは、試しに女将の言葉を思い出した。

 まず膳。

 次に皿洗い。

 それで寝床。


 言われたことは覚えている。

 だが腹が鳴らないと、膳の前に座る気にも、皿を洗う気にもなれない。

 暖簾は見えている。女将の小言も耳に残っている。それでも足先は、橋へ向いてしまう。


「右へ曲がる、と言えばいいのか」


 リュカは声に出した。


 トマが真面目に頷いた。


 リュカは右へ足を向けた。

 一歩進む。

 そこで川風が首筋へ当たった。

 二歩目は橋だった。


 トマは深く息を吐いた。


「声に出すだけじゃ、足りません」


「言えば済む話じゃないか」


「口では右へ行くと言えます」


「でも、二歩目で橋を向いています」


 リュカはゆっくり橋へ歩いた。

 橋には、欄干の前で足を止めた客がいる。

 橋へ行けば、膳を残している客はすぐ見つかった。


 橋には、湯上がりの客が並んでいた。


 青い紐を首に掛けた男。

 薄い麦酒の杯を持った商人。

 濡れた髪の巡礼者。

 肩へ布を掛けた荷隊の若者。


 みんな宿へ戻る気はある。

 ただ、誰も今すぐ立とうとはしない。


 川風は涼しい。

 湯で軽くなった肩に、その風はよく当たった。


 橋のたもとの市は小さい。

 湯治町の夕方だけ開く市で、売り物は腹を満たすものより、湯上がりの口を甘やかすものが多かった。

 瓜売りが濡れ布をめくる。青い皮に水が光る。

 酢漬け売りの器から、林檎の酸っぱい匂いが立つ。

 麦酒売りは泡の薄い杯を並べ、湯上がりの客へ片手を上げて「一杯だけ」と言っている。


 どれも湯上がりにはよかった。

 よすぎた。


 こういう小さな売り台が橋の上に並ぶと、客は少しずつ食卓から離れる。

 瓜売りは悪くない。冷たい瓜は、本当にうまい。

 麦酒売りも悪くない。薄い麦酒は、湯上がりの喉にちょうどいい。

 酢漬け売りも悪くない。林檎の酸味は、魚の後に食べれば皿をきれいに終わらせる。


 誰も悪くないまま、浅瀬亭の魚だけが冷めていく。


 それが、この町の困ったところだった。


 リュカは浅瀬亭を振り返る。

 焦げた皮と香草の熱い匂いは、橋まで届いている。

 息を吸えば、唾は出そうになる。

 なのに、腹だけは鳴らない。


 橋の中央には、青い紐の父親がいた。

 荷を担ぐ者らしく、肩も腕も厚い。けれど今は、欄干へ肘を預け、川面を見ているだけだった。

 首の青い紐は、娘の旅包みと同じ色だった。

 結び目も同じだ。荷隊の者が使う固い結び方だった。


 父親の頬には、山道の日焼けの線があった。

 手の甲には古い擦り傷が多い。

 荷縄の跡も残っている。

 けれど今は、荷縄の跡が残る指で、欄干の木目をゆっくりなでているだけだった。


 娘はその手を見ていた。

 荷縄を締め、魚の骨を抜き、旅包みを結び直す手だ。

 その手が欄干の木目をなでるたび、娘の青い紐がぎゅっと細くなる。


 浅瀬亭の入口から、娘が出てきた。

 裸足だった。

 湯上がりだからではない。

 父親を追って、履物を忘れた足だった。


 女将が後ろで「石が熱いよ」と言ったが、娘は聞かない。

 魚皿は女将に預けている。

 かわりに、娘は青い紐の端を片手に握っていた。

 さっき父親の旅包みから外した短い紐だろう。


「お父さん、戻って」


「もう少しだけ涼んだら行く」


「もう少しって、何回言った」


 父親は振り返り、眉を少し下げて笑った。

 欄干へ預けた肘は、まだ動かない。

 娘に叱られても、返事の最後に笑いが混じる。


「風が気持ちいいんだ」


「魚だって熱いうちがいい」


「冷めても食えるだろう」


 娘の眉が上がり、すぐ下がった。

 握った青い紐が、腰の横でぴんと伸びた。


「尾は冷めたら鳴らない」


 父親は首をかしげた。


「尾が、音を立てるのか」


「折る時、ぱりって鳴る」


「そうだった。約束したな」


「半分こするって言った」


 父親は笑ったまま、欄干から肘を離さない。


「おまえに尾をやるよ」


「やるんじゃない!」


 橋にいた客の笑いが止まった。

 父親も、少しだけ顎を引いた。


「一緒に食べるって言った!」


 父親は首を傾けた。

 娘の握った青い紐を見て、口を開きかける。だが、言葉は出ない。川音だけが聞こえた。


「明日の朝でも分けられる」


「明日の朝は荷隊と出るでしょ」


「朝飯なら一緒に食える」


「尾は今夜のがいい」


「尾なら、また焼いてもらえば」


「同じ尾じゃない!」


 娘は青い紐を握りしめた。


「この町の魚は今夜だけ」


 紐の端が、掌の中でさらに細くなった。


「お父さんは明日の朝、峠へ行くんでしょ。わたしは女将さんのところで二晩」


 青い紐を両手で握り、父親の方へ一歩出た。


「半分こ、今日がいい」


 小さな声だった。

 最後の「今日」だけ、歯を食いしばって言った。

 橋の上の大人たちは、もう笑わなかった。


 娘は、父親の指を見ていた。

 山道の宿で魚が出るたび、父親は尾を皿の端へ寄せた。

 焦げたところを娘へやるためではない。

 二人で折るためだ。


 娘が小さすぎた頃は、父親が骨を抜いてやった。

 少し大きくなると、骨ごと噛めるところだけを半分にした。

 今回は、娘が自分で折る番だった。


 娘が自分で尾を折る最初の晩に、父親は欄干へ肘を預けている。


 娘の旅包みは、浅瀬亭の入口で小さく膨らんでいた。

 中身は多くない。替えの布と、父親が峠で拾った平たい石と、女将にもらった干した瓜の皮。

 二晩を過ごすには足りる。

 けれど、父親と食べる一回の代わりにはならない。


 リュカは、掌に出した小銭四枚を思い出した。

 小銭四枚では、飯と寝床の両方には足りない。


 娘の手には青い紐。

 皿の端には魚の尾。

 どちらも、片手で隠れるくらい小さい。

 けれど宿を出たあと、指先に残るのは、たいていそういう小さなものだった。


 橋の商人が麦酒の杯を口元から下ろした。

 巡礼者は祈り紐を探しかけ、何も握っていない指を見て、袖を下ろした。

 浅瀬亭の席には、商人の閉じかけた帳面が残っている。

 荷隊の若者は首の後ろをかいた。宿の壁際には、明日の荷が立ててある。

 巡礼者の祈り紐も、まだ卓の端にある。

 けれど次の風が橋を抜けると、みんなまた欄干へ肘を置いた。


 父親は欄干から体を離した。

 一歩、宿の方へ向く。


 娘は青い紐を握り直した。


 その時、橋の下から風が上がった。

 湯屋の湯気を含んだ、柔らかい風だった。


 父親の肩から力が抜ける。

 口の端がまた上がる。


「怒ると、疲れるぞ」


 娘の手の中で、青い紐が少し下がった。


「怒ってるのは、お父さんのせい」


「だから、あとでゆっくり話そう」


 あとで。


 リュカの腹は鳴らない。

 だが、その一言のあと、父親の指が欄干を握り直した。


 橋のたもとで、酢漬け売りが林檎の酢漬けを器の中で返した。

 薄い林檎が器に当たり、しゃく、と小さく鳴った。


「今年は湯がよく効くねえ」


 酢漬け売りは言った。

 赤い器の縁が、かち、と鳴った。


「魚のあとに酸っぱいものを食べる客は、いい客だよ」


 酢漬け売りは、橋に並ぶ客たちを見た。


「魚を食べる前に涼みきる客は、何も買わない」


「魚のあとに食うものか」


 リュカが聞く。


「そりゃそうさ。焼いた魚のあとで噛むと、黒パンまでうまくなるんだよ」


 酢漬け売りは赤い器の縁を指で叩いた。


「ただ今年は、先に一切れ噛ませないと、みんな橋で冷えきっちまう」


 麦酒売りが杯を掲げた。


「うちの麦酒は魚の前でも後でもいける」


「いけるから困るんだよ」


 酢漬け売りが言い返す。


「薄い麦酒と川風が相手じゃ、こっちは分が悪い」


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