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第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(4)

 橋の老人が、小椅子に座ったまま言った。


「風はあとでも吹く。焼いた魚は待たん」


 老人は娘ではなく、自分の小椅子の幅を見ていた。

 小椅子の脚を欄干側へ寄せ、客の膝に当たらないだけの隙間を作った。


「戻らん客が橋へ並ぶと、風が通らん」


 リュカは橋の幅を見た。

 欄干へ肘を預けた客の後ろで、子どもが体を横にして通り抜けていく。


「風より先に、人の肘が当たる」


 老人は小椅子をもう少し橋の端へ寄せた。

 娘は青い紐を握ったまま、父親の前を動かない。

 紐の端が、汗で掌へ貼りついている。


「お父さん、聞いて」


「聞いてるよ。言ってごらん」


「半分こ、今日がいい」


 父親は欄干の向こうを見たままだった。


 リュカは腹へ手を当てたまま、父親の肘がまた欄干へ戻りかけるのを見た。


 リュカは浅瀬亭の広間へ戻った。

 戻ってはきた。

 腹の虫は起きなかった。


 広間へ入ると、焼き台の熱が頬に来た。

 炭火に魚の脂の匂いが混じり、蓋の下の皿まで熱を持っている。


 女将は魚皿の蓋を戻す手を止めた。

 それから、腹の前で止まったリュカの手を見た。


「腹の前で手を止めたままじゃ、魚は食えないよ」


 リュカは腹に手を当てた。


「腹の虫まで流したのか」


「腹を押さえても、鳴らないね」


「流した覚えはない」


「腹を押さえる客は、みんなそう言うんだよ」


 女将はリュカの前へ膳を一つ置いた。

 冷えた瓜。

 香草魚。

 林檎の酢漬け。

 黒パン。

 薄い麦酒。


 湯に入る前なら、膳を見ただけで腹が鳴った。

 今は、皿の上を眺めているだけだった。


 魚の皮は焦げ目をつけて薄く張っている。

 腹に詰めた香草は、熱で青い匂いを立てている。

 皿の端には塩がわずかに溶け、魚の脂が小さく光っていた。


 冷えた瓜には細かい水滴がついている。

 林檎の酢漬けは薄く赤く、皿の上で少し乾きかけていた。

 黒パンは端が固く焼け、手で割れば乾いた音がしそうだった。


 焦げた皮も、香草の匂いも、さっきと同じだ。

 なのに、指が皿へ伸びない。


 リュカは膳の前で手を止めた。


「うまそうなのに、手が出ない」


 女将の眉が上がった。


「匂いはするんだね」


「口の手前で止まる」


「それが今年の湯だよ」


 リュカは、無理にでも食べようとした。

 魚の身を少しだけ木匙でほぐす。

 白い身がほろりと割れ、湯気が細く上がった。

 香草が一枚、身の間から出てくる。

 木匙にのせる。

 口へ近づける。


 唇の手前で、手が止まった。


 嫌いなものではない。

 毒だと思ったわけでもない。

 ただ、木匙を口へ運ぼうとすると、手首から力が抜ける。


 リュカは木匙を戻した。

 魚の身が皿へ落ちる。

 リュカは皿の端へ木匙を置き、落ちた白い身から目をそらした。


 女将は蓋を持つ指を止めた。


「膳を試すんじゃないよ」


「すまない。試す気はなかった」


「なら、魚に謝っときな」


 娘が父親の席から振り返った。


「お兄さんも食べないの」


「食べたいのに、手が出ない」


「見てるだけじゃ、冷めちゃうよ」


 娘は自分の魚皿を見た。

 尾の先のぱちぱちが、細くなりかけている。


「お父さんも、食べたいって言う。でも来ない」


 娘の前の膳には、小さな木匙が皿の脇に置かれていた。

 身の柔らかいところは、まだ温かい。

 冷める前に食べた方がうまい。

 子どもなら先に食べてもおかしくない。

 それでも娘は尾を残している。


 父親と半分にしたいのだろう。

 だが、娘が待っているのは尾だけではなかった。

 父親が席に戻るまで、自分だけ先に膳を始めたくないのだ。


 リュカは魚より先に、娘の手元を見た。

 小さな木匙は皿の脇に置かれたまま、まだ少しも動いていない。


 リュカは木匙を持った。

 魚へ伸ばす。

 皮の手前で止まる。


 食べたらうまい。

 皮はまだ鳴りそうで、瓜には水滴が残っている。

 けれど湯上がりの指は、膝の上へ戻ってしまう。


 だが、そこで木匙を戻せば、また橋へ出るだけだった。

 うまいものは、今うまい。

 焼いた魚の皮は、音があるうちに食べるものだ。

 冷えた瓜は、水滴が残るうちに噛むものだ。

 酢漬けは、魚のあとで噛んでこそうまい。


 知っているのに、指だけが動かない。


 女将はリュカの手元を見ていた。

 急かさない。

 急かされないので、木匙を戻す言い訳もできない。


「無理に口へ運んだ客はいたか」


「一人だけ、無理に食べた客がいたよ」


「皿だけは空いたのか」


「魚を苦い薬みたいに噛んで、麦酒で流し込んで、皿の端へ酢漬けを残した」


「それは魚に悪い食い方だな」


「うちの膳をまずそうに食ったんだよ。もっと悪い」


 女将は膳の蓋をリュカの前へ置いた。

 まだかぶせない。蓋を持ったまま、木匙が動くか待った。


「その手つきに魚は出せないね。腹の虫を起こしてきな」


「食べてから皿洗いの約束だ」


「その手じゃ皿も危ないね。洗い場へ来るのは、食えてからにしな」


「割らずに洗うくらいはできる」


「割らなきゃいいってもんじゃない」


 娘が、少しだけ笑った。

 すぐに橋の方を見た。


 外では、橋にいる客たちがまだ涼んでいる。

 父親が何か言った。川音で言葉は聞き取れない。ただ、足音は近づいてこなかった。


 娘は魚皿の尾へ手を伸ばし、触らずに戻した。


「女将さん、尾って、冷めたらどうなるの」


「鳴るよ。けど、焼きたての音じゃない」


「温め直しても、同じ?」


「身は温まる。けど、焼きたての尾の焦げ目がぱりっと割れる音は戻らないよ」


 娘は黙った。

 広間の木匙の音が、いくつか止まった。


 リュカは木匙を置いた。

 腹が鳴らないぶん、食卓の音ばかり耳に入った。

 木匙が皿へ触れる音。

 台所の炭が崩れる音。

 娘は鼻をすすらないよう、唇を結んでいた。


 皿は目の前にあるのに、一口目を運べない。


 広間の隅で、戻ってきた巡礼者が一人、席へ座った。

 座っただけで、木匙を取らない。祈り紐を手にして、魚を見ている。


「その膳、食べないのかい」


 女将が聞く。


「食べる気はあります」


 巡礼者は答えた。

 だが、木匙は動かない。


「祈りが長すぎるね」


「祈りじゃありません。木匙に手が伸びないんです」


「うちの膳の湯気を冷ますんじゃないよ」


「湯でぼんやりしているのかもしれません」


 女将は舌打ちした。


「湯でぼんやりしたなら、橋へ出る前に目を覚ましてきな」


 女将は膳の蓋へ指をかけた。


「自分で食えそうになったら座りな」


 巡礼者は両手を膝に置き、頭を下げた。

 怒られているのに、指は祈り紐を撫でるばかりだった。


 巡礼者の手も、魚の前で止まっている。

 広間の空いた席が、一つでは済まなくなった。


「膳は預かる。腹が鳴ったら戻ってきな」


 女将は巡礼者の膳を引き、リュカの前の蓋もかぶせた。

 香草魚の匂いが蓋の下へこもる。

 それでも、香草の匂いは隙間から漏れてくる。

 息を吸えば香草の匂いはする。なのに、手は伸びない。


「俺の膳も下げるのか」


「魚の前で手を引っ込める客には出さないよ」


 リュカは椅子から立った。

 女将は入口の方へ顎をしゃくった。


「まず酸いものを噛んできな。橋に酢漬け売りがいる」


「飯の前に酸い林檎か」


「うちの魚を苦い薬みたいに噛まれるよりましだよ」


「浅瀬亭の名は出すんじゃないよ。あの売り子、すぐこっちへつけを回す」


 娘がリュカを見上げた。


「お父さんにも、効く?」


「まだ分からない。見てくる」


 女将が、皿の蓋を押さえ、娘の足元を見た。


「橋まで見てきな。一人で出したら、また裸足で走る」


「客に橋まで行かせるのか」


「皿を洗うって言った客を、橋で遊ばせておく気はないよ」


 娘はそれ以上言わなかった。

 皿の端の尾は、まだ細く反っている。娘の小さな木匙は、まだ皿の脇に置かれたままだ。

 娘は尾を見たまま、頷きだけを待っていた。父親は、まだ橋で風に当たっている。


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