第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(5)
リュカは頷いた。
娘は皿の尾を見た。
「まだ、ぱりって鳴る?」
「急げば、間に合うかもしれない」
リュカは入口へ向かった。
橋の風は、まだ涼しい。
湯上がりの足は、橋の方へ出そうになった。
皿の端では、魚の尾がまだ細く反っている。
尾がしんなりするまで待ってはいられない。
入口を出る前に、女将が声を落とした。
「リュカ、ちょっと待ちな」
「何だ、女将。急ぐぞ」
「あの子の前で、できると言い切るんじゃないよ」
「そこまでは言っていない」
「だから言ったんだよ」
女将は橋の方を見た。
口元はきつく結んでいる。魚皿の蓋を押さえる指にも力が入っていた。
蓋の下では、娘が待っている尾の湯気が細くなっていた。
「大人の『もう少し』は、子どもには長いんだよ」
リュカは頷いた。
腹の虫はまだ黙っている。
けれど、リュカを急がせたのは、腹の虫だけではなかった。
湯屋の裏で、トマが履物を拭いていた。
「また橋へ行くんですか」
トマは布から目を上げた。
「その前に、腹の虫を起こしてこいと言われた」
リュカは自分の腹に手を当てる。
体は軽いのに、腹だけが寝たままだった。
「腹の虫は、棚にはいません」
「靴と一緒なら助かった」
トマは布を絞る手を止めた。
少し考えてから、裏手の石壁を指す。
「……もしかすると、マエルさんなら何か知っているかも。前の下足番です」
石壁の下で、古い男が伏せた桶に腰かけていた。
膝の上で、切れかけた靴紐を繕っている。
背は丸いが、指は早い。
足元には、小さな空桶が伏せてあった。
内側に、塩の白い跡が残っている。
マエルは靴紐を繕う手を止めずに言った。
「腹の虫が寝ているな」
リュカは、温まった腹を軽く押した。
「まだ起きてこない」
マエルは紐から指を離した。
「湯は悪くない。悪くないものは面倒だ」
そこでマエルは笑った。
塩の跡が、桶の内側で小さく光る。
「悪いものなら怒ればいい。親切なものは、まず礼を言わにゃならん」
「礼を言ってから叱るのか」
「叱るほど聞いちゃいない」
石壁の上には、古い板が掛かっている。
湯気と年月で黒ずみ、縁は少し反っていた。文字は薄れている。
疲れだけ、湯で流していけ。
それだけが、かろうじて読めた。
リュカは板の下を見た。
小さな棚を外した跡がある。
石壁には、丸い水染みが残っていた。
濡れた器を毎日ここへ戻せば、石に丸い跡が残る。
「この跡には何が置いてあった」
「小桶だ。湯上がりの客が手を伸ばす」
マエルは足元の空桶を指で叩いた。
乾いた音がした。
「ただの水ではないな」
「水だけなら、誰も手を伸ばさん」
マエルは桶をどけ、足元の古い石を叩いた。
石の表面には浅いくぼみが二つある。長いあいだ、濡れた足が同じ場所に乗り続けた跡だ。
「ここへ立ってみな」
リュカは古い石へ片足を乗せた。
湯屋の裏の湿った匂いより、浅瀬亭の火の匂いがはっきりした。
橋の風ではない。
台所の焦げた匂いだ。
腹の虫はまだ鳴らない。
それでも、足先が少しだけ浅瀬亭の方へ戻った。
浅瀬亭の入口から、娘の声がした。
「まだ、ぱりって鳴る?」
入口の方で、女将が答えた。
「急げば鳴るよ。待てば黙る」
マエルは、その声を聞いてから小桶を持ち上げた。
「昔は、湯から出た客がまずこれに手を伸ばした」
マエルは小桶の内側を見せた。
「冷えた瓜を一枚。塩をひと粒。酸い林檎を少しだ」
トマは空桶の内側を指でこすった。
指先に、塩の白い粉が少しついた。
「湯上がりの口直しか」
「名前は要らん。口が動けば、魚の匂いも入ってくる」
マエルは石壁の向こうを顎で示した。
魚の皮が、ちょうど一度はぜた。
小桶の内側には塩の白い跡が残っている。石壁の向こうで、香草魚の匂いがふっと濃くなった。
湯屋の裏でその一口を噛めば、橋へ出る前に浅瀬亭の暖簾が目に入る。
裏口が開き、髪を濡らした商人が出てきた。
男は新しい石の上で足を拭き、白い布を肩へ掛け、首の後ろを拭きながら息を吐いた。
宿の方から魚の皮のはじける音がしたが、商人は橋の方を向いた。
「少し涼んでからだな」
誰にともなく言い、男は橋の欄干へ歩き出した。
トマが口を開きかけ、閉じた。
「あの人、瓜を二つ頼んでます」
トマは少し早口になっていた。
マエルは、橋へ行く商人の背ではなく、宿の方を見た。
「冷えた瓜は、待たせるほど水が出る」
「それは分かっています」
トマは、新しい石段の方を見た。
白い石は明るく、濡れた足を置けばすぐ乾きそうだった。
「みんな、あそこで足を拭きます。楽ですから」
「滑らんのは大事だ」
トマは白い石の上で薄くなる足跡を見た。
「だが、足元だけさっぱりして、口はまだ水しか欲しがらん」
マエルは怒鳴らなかった。
それでもトマは、空桶の縁を握り直した。
「石を替えたのは、私じゃありません」
「分かっている。おまえは磨いた」
「磨かないと滑りますから」
「それも分かっている」
商人の濡れた足跡は、白い石の上ですぐ薄くなり、そのまま橋へ伸びていた。
石はすぐ乾く。布は水をよく吸う。直った湯口は、客の肩をよくほぐす。
浅瀬亭の入口から、娘の声がまたした。
「女将さん、火はまだ落とさないで。すぐ戻るからね」
「落とさないよ。けど、火だけで尾の音は戻らない」
魚の皮が、小さくはぜた。
トマの指が、空桶の縁で止まった。
「春に湯口を直した。詰まりを取ったと聞いた」
湯屋の奥で桶の音がした。
誰かが肩を回して笑っている。
「それから、湯がよく効く」
リュカは、自分の腹に手を当てた。
「効きすぎているのか」
「肩を回した客が笑う。腰を伸ばした客が笑う。そこまでは名湯だ」
マエルは橋に並ぶ客を見た。
「笑ったまま膳の前へ座って、食べ始めん。そこから先がいかん」
トマは空桶を持ち上げ、古い棚の跡の下へ当ててみた。
大きさは合った。
だが、空の桶からは何の匂いもしなかった。
トマはすぐに下ろした。
「空じゃ、匂いもしませんね」
「匂いも塩もなければ、手が伸びん」
トマは橋へ声を向けかけた。
マエルは先に橋を見た。
父親は娘へうなずき、すぐまた欄干の向こうへ首を向けている。
「聞こえてはいる。腹がまだ鳴っていない」
トマが下足棚を閉めた。
「返事だけは返ってきます」
トマは、閉めた棚の取っ手から手を離さなかった。
それから浅瀬亭の煙の方を見た。
「昨日の荷隊の若い人も、入口までは三度来ました」
「入口まで来て、また橋を見た」
棚の木が、こつんと鳴った。
トマの指に、力が入っていた。
「靴なら戻せます。でも、客までは戻せません」
リュカは、棚に並ぶ靴を見た。
「腹の虫まで棚で預かれたら楽だな」
トマは即座に首を振った。
「靴と一緒には置けません」
マエルが、小桶の縁を指で弾いた。
乾いた音を、トマは聞いた。
トマは少し考えた。
「ここでは、橋から見えませんね」
マエルは小桶を棚の下へ押しやった。
「出る前なら、ここで足が止まる」
それから橋を顎で示した。
「橋まで出た客は、川風で口が冷える。酸いものを噛ませろ」
リュカは小桶を見てから、橋の父親を見た。
川風の中では、魚の湯気はまだ届かない。
「まず、おまえの腹だ」
マエルはリュカを見た。
「自分の腹も鳴らせないままでは、あの子の父親は動かせん」
「酸い林檎を噛むのか」
「噛め。魚の皮が鳴っている間に戻れ。怒る役は、あの子に任せろ」
リュカは橋へ向かった。
腹の虫はまだ黙っている。
背後で、浅瀬亭の魚の皮が一度はぜた。
橋の風に当たる前に、歩幅が少し大きくなった。




