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第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(6)

 リュカは橋へ向かった。

 腹の虫はまだ黙っている。

 背後で、浅瀬亭の魚の皮が一度はぜた。

 橋の風に当たる前に、歩幅が少し大きくなった。


 酢漬け売りは、リュカを見るなり台に置いた赤い器を手元へ引いた。


「先に言っとくよ。魚のあとだ」


「まだ頼んでいない」


「橋から戻ってきたなら、酸っぱいのが要るね」


「一切れ欲しい」


「魚のあとなら売る」


「魚の前に要る」


 酢漬け売りは口を尖らせた。

 赤い器の中で、薄く切った林檎が酢に浸かっている。

 皮の赤がところどころ残り、実は透き通る手前の白さだ。

 上には小さな香草が浮いていた。


「邪道だね」


「今年の湯が先に順番を変えた」


「湯のせいにする客は多い」


「腹のせいにする客よりましだ」


「あんた、腹の虫が黙ってるんだろ」


「今は鳴らない」


 酢漬け売りは、リュカの視線が器の上で止まらないのを見た。

 それから、赤い器を少し引き寄せた。


「本当に黙ってるね」


「見ただけで分かるか」


「値書きも量も見ない」


「止まるのか」


「腹の虫が起きてる客はね、値書きか量か、一番うまそうなところをじっと見る」


 リュカは器を見た。

 林檎が酢の中で揺れている。

 林檎の赤はきれいだ。

 酸っぱい匂いも立つ。

 だが、手は伸びない。


「戻ったら二切れ分払うんだよ」


「戻らなかったら」


「女将から取る」


「損はしないんだな」


「商いだよ」


 酢漬け売りは林檎の酢漬けを一切れ、木串に刺した。

 薄い赤。

 酢が光っている。


「噛みな。なめるんじゃないよ」


 リュカは言われた通りに噛んだ。


 酸っぱさで、頬の内側がきゅっと縮んだ。

 奥歯の付け根がきゅっと痛む。

 舌の端までしびれる。

 まぶたの奥まで、つんとした。


 湯でゆるんでいた背筋が、一瞬で伸びた。


 その次に、腹が鳴った。


 小さな音だった。

 だが、さっきまで黙っていた自分の腹だった。


「鳴った」


「一切れで起きるなら楽な腹だね」


「まだ半分」


「半分なら、もう一切れ」


 リュカはもう一切れを噛んだ。

 今度は、酸味が来ると知っていた。

 それでも頬の内側がきゅっと縮む。舌が縮み、目が細くなる。


 そのあとで、鼻の奥に香草魚の匂いがはっきり来た。

 橋に立ったままでも、浅瀬亭の焼き台から魚の脂と香草の匂いが鼻先まで来た。


 腹が、はっきり鳴った。


 酢漬け売りが赤い器の縁を軽く叩いた。


「ほら、いま浅瀬亭を探したね」


「探した」


「戻り始めたよ」


「腹の虫が起きたな」


「まだ起きたばかりだよ」


「魚の匂いを追い始めたら、橋には長くいられない」


「なら次は、あの人だね」


 酢漬け売りは、もう一切れを木串へ刺し、器の縁へ置いた。

 そして橋の父親を顎で示した。


「あの人は三切れ要るかもね」


 青い紐の父親は、まだ欄干にもたれていた。

 父親は、娘が呼べば振り返る距離にいる。浅瀬亭の煙も、橋の上まで流れていた。

 それでも父親の手は欄干から離れない。

 リュカは、さっき自分の指も欄干へ戻りかけたのを思い出した。


 酢漬け売りは、近くにいた商人へ木串を向けた。


「あんたも食うかい」


「私は魚の後にします」


「魚を食っていない」


「だから、今はいりません」


 商人は自分で言って、杯の縁を親指でこすった。

 杯から指が離れかけた。


 酢漬け売りがすかさず一切れを差し出す。


「商人さんには半分だけ。半分の値段はないよ」


「高いな」


「舌を起こす代だよ」


 商人は食べ、すぐに頬を押さえた。


「これは、目が覚める」


「腹の虫も起きたかい」


 酢漬け売りが聞くと、商人の腹が小さく鳴った。

 橋に笑いが起きる。


「商売の話は、飯の後だな」


「いい客だ」


 酢漬け売りは言い、商人の小銭を器の横へ滑らせた。

 それから、赤い器を娘の方へ寄せ直した。

 その横で、巡礼者もそっと一切れを買った。

 口へ入れて、すぐに目を閉じる。


「祈る前に来ますね」


「酸っぱいものは、一口目から来るからね」


 酢漬け売りは林檎の酢漬けをかき混ぜる。


「いいかい、これは飯じゃないよ。飯の前に口へ入れる一切れだ。酸っぱさが来たら、自分の膳へ行きな」


「一切れにしては高い」


 商人が言う。


「食べそこねる飯より安いよ」


 酢漬け売りがそう言うと、橋の客たちの笑いが少し小さくなった。

 赤い器の縁に乗った一切れを前にして、何人かが浅瀬亭の暖簾を見た。


 娘は橋の端で、青い紐を握ったまま立っていた。

 一歩だけ父親の方へ出て、そこで止まる。

 青い紐を握る指が白くなり、唇を少し噛んだ。


 酢漬け売りは器の縁の木串を取り、娘へ差し出した。


「持っていくかい」


 娘は串の先と酢漬け売りを交互に見た。


「お父さん、酸っぱいの嫌い」


「嫌いな味なら、ぼんやりしてられない」


「戻らなかったら」


「もう一切れ。代は父親につける」


「お父さん、怒る」


「怒れるなら上等だよ」


 娘は少しだけ考えた。

 考えて、酢漬けを握った。


「持っていく」


「走るんじゃないよ。串がある」


「走らない」


 娘は、走らないつもりの速さで橋へ向かった。

 女将が浅瀬亭の入口から怒鳴る。


「裸足で石畳へ出るんじゃない!」


「熱くない!」


「熱いと思った時には遅いんだよ!」


 橋にいた客が笑った。

 娘は笑わない。

 青い紐の父親の前へ立ち、酢漬けを突き出した。


「食べて」


「おまえが食べなさい」


「違う」


「父さんはあとでいい」


「あとじゃない。今食べて」


 父親は眉を下げて笑う。


「酸っぱいのは苦手だ」


「知ってる」


「だから持ってきた」


「だから食べて」


 父親は笑いかけて、口を結んだ。

 眉間にしわが寄った。


「昔、山道で食べて、顔をしかめてた」


 娘がそう言うと、父親はまばたきした。


「覚えているのか」


「覚えてる。お父さん、水を三回飲んだ」


「あれは、酢が強すぎた」


「今のも強い」


「だろうな」


「だから、顔しかめていいから食べて」


 父親の手は、木串に触れる手前で止まった。

 湯気混じりの風が、またやわらかく肩に当たる。

 父親はまた川へ首を向けかける。


 娘はその前に、青い紐を父親の手首へ巻きつけた。

 結び目は作らない。

 ほどこうと思えば、父親の手首からすぐ外れる。

 娘は自分の手首の紐も、父親に見せた。


「半分こは、尾だけじゃないよ」


「何がだ」


「わたしだけ覚えてるの、やだ」


 父親は、そこで笑わなかった。

 口を開きかけて、閉じた。


 酢漬けの汁が、父親の指へ少し垂れた。

 父親はその指を見た。

 荷縄の跡が残る指だ。明日の朝には、その手で荷を担ぎ、山道へ戻る。

 今夜、入口の卓で娘が守っている尾を折る手でもある。


 父親は息を吸った。

 湯の匂いより先に、酢の匂いが入ってきた。


 父親は木串へ指を伸ばした。

 荷縄を締める太い指が、串の手前で一度止まる。親指だけが、ほんの少し曲がった。

 父親は欄干から肘を浮かせた。


 娘は酢漬けをさらに前へ出す。


「尾、あげるんじゃないの」


 父親は娘の手元を見た。


「一緒に食べるって言ったでしょ」


 橋で笑っていた客たちが、そこで口を閉じた。

 リュカの腹が、もう一度小さく鳴る。


 父親は眉を寄せた。

 浅瀬亭の入口を見る。橋を見る。もう一度、女将が持ち上げた魚皿の蓋を見る。

 足先が、浅瀬亭の方を向いた。


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