第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(7)
父親は、娘の手首に残った紐を見た。
自分の首にも同じ色がある。
父親は首の紐を指でつまみ、娘の手首の紐と見比べた。
「一緒に食べる約束だったな」
父親が言うと、娘は頷かなかった。
娘は酢漬けを引っ込めなかった。
「食べたら、ちゃんと思い出して」
父親は酢漬けを見て、少し眉を寄せた。
娘の手首の紐から目を離さないまま、木串を受け取った。
まだ急ぐ力は入っていない。
けれど娘が睨んだままなので、父親は小さく息を吐き、口へ入れた。
すぐ、顔をしかめた。
「やっぱり酸っぱい」
「じゃあ、忘れないでしょ」
娘が言うと、橋にいた客が笑った。
酢漬け売りは赤い器を胸の前で抱え直した。
「いま口をすぼめた。川よりこっちを見たね」
父親は片目をつぶり、肩をすくめた。
頬の内側を舌で押している。
麦酒売りの杯へ目が行きかけたが、手は下ろしたままだった。
手首には、娘が掛けた紐がある。
腹は鳴らなかった。
だが、父親の喉が一度動いた。
父親は口をすぼめたまま、浅瀬亭の方を見た。
「魚もまだ待ってる」
娘がすぐ言う。
「尾も、まだぱりってする」
娘は一つ言うたび、紐の端をきゅっと握った。
父親は橋の欄干から手を離した。
足元を見る。
湯屋の石、橋の板、浅瀬亭へ続く道。
どれも、さっきから足元にあった。
「魚の匂いがするな」
「ずっとしてたよ!」
「そこまで匂ってたか」
「だから帰ろうよ!」
浅瀬亭から、女将が怒鳴った。
「尾は今だよ。待てる尾なんか焼いてない」
台所で魚の皮が大きくはぜた。
女将が焼き台の炭を火掻き棒で寄せた。炭が赤くなり、魚の脂が落ち、焦げる手前の香ばしさが橋まで来た。
ぱり、と鳴って、薄い麦酒の商人が自分の杯を見た。
「魚のあとなら、これもうまいな」
「先に魚を食べなよ」
酢漬け売りが言う。
「魚の前は一切れ。ここで終わり」
「一切れで止めるのか」
麦酒売りが聞く。
「魚を食べない客に二切れ売っても、口をすぼめるだけだろ」
「口をすぼめるだけか」
「二切れ目は、魚のあとでいいんだよ」
橋の老人が小椅子を抱え直した。
客たちが欄干に並びすぎて、自分の座る向きが狭くなったのだ。
「食べてから来い。川風は逃げん」
父親は老人へ頭を下げた。
「飯のあとですぐ来る」
「戻らんでいい。飯のあとで来い」
「川風は、あとでいいか」
「逃げんと言っただろう」
老人は小椅子から立とうともせず、川へ向き直った。
橋の持ち主ではないだろう。
けれど欄干の陰には、老人の小椅子の脚の跡がついていた。
巡礼者も、濡れた髪を絞りながら浅瀬亭の方を見た。
「私の膳も、まだあるでしょうか」
女将が入口から返す。
「戻る客の膳はあるよ。戻らない客の分は知らないね」
「今度こそ戻ります」
「髪の水を絞ってから来な。広間を濡らしたら、食後に拭かせるよ」
巡礼者は慌てて布で髪を拭いた。
橋にいた客がまた笑う。
客が笑い、欄干へ預けていた肘が一つ、二つ離れた。
川風に、浅瀬亭の匂いが混じっていた。
腹の音や皿の音や、女将の小言まで、橋の上でも聞こえた。
父親は一歩、宿の方へ踏み出した。
娘は青い紐を握り直した。
リュカの口にも、さっきの酸っぱさが残っている。
魚の匂いだけは、さっきより近い。
腹の音につられて、商人も自分の腹を押さえた。
商人は慌てて杯を下ろす。
「これは麦酒の音じゃないな」
「腹の音だよ、商人さん」
酢漬け売りが言う。
「商人なら、自分の腹の虫くらい勘定に入れな」
巡礼者は祈り紐を握り、浅瀬亭へ向かって頭を下げた。
「では、祈る前にいただきますを言います」
「うちの膳の前で言いな。魚はまだ出してないよ」
女将が返す。
橋に並んでいた客たちの手が、それぞれ動き出した。
商人は杯を持ち直し、巡礼者は祈り紐を握り直した。
荷隊の若者は首の後ろをかき、宿の壁際に立てた荷縄の方へ目をやった。
橋にいた客たちは、一人ずつ浅瀬亭の方へ向き直った。
父親も、ようやく二歩目を踏んだ。
娘は何も言わず、青い紐を少しだけゆるめた。
そこで、湯屋の角を曲がる風が来た。
湯の匂いを含んだ、柔らかい風だった。
首筋に当たると、もう少し休みたくなる。
父親は止まらなかった。
けれど、つま先はまた橋の板へ向きかけた。
娘が青い紐を握り直した。
「今って言ったよ」
「言ったよ。今そっちへ行く」
父親はすぐ答えた。
けれど、言い終えたあとも、視線は川面から離れきらなかった。
浅瀬亭の入口で、女将が皿の蓋を少し持ち上げた。
湯気はまだある。
だが、最初より細い。
「尾は待ってる。けど、ずっとは待たないよ」
娘は振り返らず、首を横に振った。
「温めたいんじゃない」
娘は下を向いたまま言った。
けれど橋の上の客まで、黙って耳を向けた。
「ぱりって鳴るのは、今日なの」
父親の手が動いた。
酢漬け売りが赤い器を抱え直す。橋の老人も、小椅子の脚を揃えた。
娘は父親の手首に掛けた紐を、両手で持った。
手と手の間を、ほんの少し開く。
尾を二つに分ける幅だった。
リュカは入口の卓を見た。
魚の尾は、まだ細く反っている。
今なら、折れば鳴る。
湯は悪さをしていない。
肩の力を抜いただけだ。
けれど、冷たい瓜も、塩も、林檎酢のひとしずくも、父親の手元にはまだない。
リュカが湯屋の裏口を見ると、トマが出てきた。
手には、リュカの靴ではなく、小さな木盆がある。
マエルに言われたのだろう。
木盆には、薄く切った瓜を刺した木串、塩の小包み、林檎酢を少し入れた小皿がのっていた。
湯ざましの一口だった。
トマの後ろでは、マエルが空桶を抱えて立っている。
走らない。急がない。けれど、桶を持つ手を何度か持ち替え、橋と木盆を交互に見ていた。
「それ、お父さんに食べさせるの」
娘が言った。
娘は橋ではなく、木盆の上の瓜を見ていた。
酢漬け売りも、いつの間にか赤い器を抱えて湯屋の角まで来ている。
「尾が冷めちゃうよ」
リュカは頷いた。
腹の虫が起きかけている。
まだ足りない。
けれど酢と塩の匂いで、口の中だけは先に動いた。
トマが木盆を持ち直すと、リュカは橋を見た。
父親の視線が、また川面へ流れかけている。
「今だ。待たせると、また川を見てしまう」
木串の先で、薄い瓜が冷えて光っていた。
薄く切った瓜に、塩がほんの少し。
瓜の端に、林檎酢がひとしずく光っている。
冷たさのあとから酸味が来て、その向こうに浅瀬亭の魚の匂いが混じる。
娘は木串を両手で持った。
子どもの指には、少し持ちにくそうな細さだった。
けれど、尾が冷める前に橋まで運べる。
「お父さんにはひと口でいいよ」
酢漬け売りが言った。
「あれだけ川を見ていても、ひと口でいいのか」
リュカが聞く。
「頬がきゅっとするくらいでいいんだよ。腹までふくれたら、浅瀬亭に怒られる」
女将が浅瀬亭の入口で鼻を鳴らした。
「怒るのはこっちでやるよ」
「だから、一切れで止めるんだよ」
「二切れ目はいつだい」
「魚の皮が鳴ってから。今は邪魔しない」
娘はそのやり取りを聞かず、橋へ戻った。
父親はまだ橋の途中にいて、娘を見るたびに口元をゆるめる。
唇が「明日の朝」と動きかける。
「お父さん、お願い」
「どうした、まだ何かあるか」
「これ、ひと口だけ食べて」
娘は木串を差し出した。父親は眉を下げて笑った。
「さっき酸っぱいのを食べた」
「こっちは冷たいよ」
「さっきは酢で、今度は瓜か」




