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第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(8)

「冷たくて、しょっぱい。ちょっと酸っぱい」


「ひと口が忙しいな」


「ひと口でいいから」


 父親は木串を受け取った。

 湯上がりの手はまだ温かく、瓜の冷たさで指先がぴくりと動いた。

 それだけで、父親は木串を握り直した。


 しゃく、と瓜が鳴った。


 水の冷たさ。

 塩。

 林檎酢の細い酸味。

 その後ろから、焼けた魚の脂の匂いが鼻先をかすめた。


 父親の目が川面から離れ、浅瀬亭の入口へ動いた。

 女将は何も言わず、皿の蓋を少しだけ開けた。

 湯気が細く上がる。


 台所で、魚の皮がぱりっと鳴った。


 父親の腹が、大きく鳴った。


 橋にいた客が笑う。

 父親は手首の紐を落とさないようにしながら、腹のあたりを押さえた。


「今の腹、父さんか」


 娘は返事をせず、紐の端をきゅっと握った。


「尾、まだぱりって鳴る」


 父親は娘の裸足を見た。


「その足で走るんじゃない」


「走らないから、運んでよ」


 父親は短く息を吐き、娘を片腕で抱え上げた。


 父親は笑い、今度こそ浅瀬亭へ向かった。

 湯屋の角を曲がる時も、足は止まらなかった。


 止まらないのを見て、橋の老人が小椅子を置き直した。


「これで、こっちにも風が通る」


「よかったですね」


 トマが小声で言う。


「あの子にも、こっちにもな」


 老人はそう返した。

 トマは、それ以上言わなかった。


 巡礼者も商人も、浅瀬亭へ動き出す。

 麦酒売りは杯を片づけず、食後の客が手に取りやすい側へ置き直した。

 酢漬け売りは赤い器を両手で持ち、浅瀬亭の入口に近い場所へ移る。


「魚のあとに二切れ! 口直しの酢漬けだよ!」


 女将が入口から睨んだ。


「先に売りすぎるんじゃないよ」


「ひと口だけだよ。魚の前に腹はふくらまさない」


 リュカは木盆の上を見た。

 残っているのは、瓜が三枚と塩の小包みだけだ。

 明日の朝になれば、瓜と塩をのせた小さな木盆でしかない。


 トマは木盆の横に、古い案内板を立てかけようとした。

 マエルが杖の先で、その板を奥へ押した。


「板は後ろへ置いておけ」


 トマは板を抱えたまま、木盆の瓜を見た。


「読ませないんですか」


「字より先に、瓜が目に入る」


 冷たい水滴が、瓜の端から木盆へ落ちた。

 塩の小包みは、湿った指先に少し白くつく。

 そこへ浅瀬亭から、魚の皮が鳴る音が来た。


 浅瀬亭の入口では、娘が青い紐の端を握っている。

 女将が火を強め、蓋の下から湯気が細く上がる。

 さっき噛んだ酢漬けの酸味が、口の端に少し残っている。


 リュカの腹が、小さく鳴った。


 リュカは、旅の荷の底に残した塩の包みを思い出した。

 水だけでは喉を通らない朝、指先の塩をなめて、ようやく黒パンを噛めたことがある。

 宿の女将が握らせた黒パンで、次の町まで歩いた日もある。

 湯ざましも、その一口でよかった。


 トマが、木盆を見下ろした。


 マエルは瓜を一枚、木盆の端へ寄せた。


「多すぎると、ここで満足する」


 トマは木盆から橋へ目を上げた。


 リュカは浅瀬亭の方を見た。

 父親は娘を片腕に抱えたまま、空いた手で青い紐を握っている。

 娘は肩越しに浅瀬亭の入口を見ていた。

 入口では、女将が皿の蓋を開けたまま待っていた。

 皮の端が、もう一度ぱりっと鳴る。


 トマは木盆を見て、次に父親の足音を聞いた。

 娘を揺らさないよう膝を曲げているのに、歩幅は大きい。

 木盆の瓜は、まだ三枚残っている。


 マエルは空桶を伏せ、木盆の端を一度だけ押さえた。


「今夜は、これで足りた」


「明日も、瓜を少し取っておきますか」


「腹が鳴らん客の分だけな」


 マエルは白い石段の方を見た。

 白い石には、橋へ向かう濡れ跡がまだ残っている。


「明日の夕方も、あそこは狭くなる」


 トマの手が、木盆の縁で止まった。

 トマは反射で下足棚を見た。

 棚には靴しかない。

 靴は戻せる。客の腹までは戻せない。


 トマは木盆から、いちばん薄い瓜を選んだ。


「薄い方がいい。厚いと、魚の前に満足する」


 トマは選んだ瓜を見た。

 それから、娘を抱えて浅瀬亭へ急ぐ父親を見た。


「残りは、魚のあとにします」


「浅瀬亭へ向いた客には、すぐ靴を出せ」


 トマは唇を結んだ。

 だが、木盆から目をそらさなかった。

 その時、浅瀬亭の方から娘の声がした。


「落とさないでね。尾も」


「どっちも落とさない」


 父親の笑い声が続いた。

 今度は語尾が伸びない。

 息が切れて、途中で少し跳ねる。

 娘を抱えた父親の足音が近づいてきた。


 父親の弾む息が近づくと、トマは下足場の方へ半歩戻った。


「父親が戻ってきました」


「やっと宿へ向いたか」


「今度は、まっすぐです」


 そう言って、トマは下足場へ戻った。

 歩き方が、さっきより少し早かった。


 父親が浅瀬亭へ入ると、女将が預かっていた魚の皿を膳の前へ戻した。

 娘は父親より先に膳の前へ座った。

 眉は吊り上がっている。

 けれど、木匙を持つ指は小さく震えていた。


「明日にしようって言った」


「言った。あの時は、まだ湯でぼんやりしてた」


「明日は朝からいない」


「覚えてる。だから、尾は今日のうちに食べるの」


「今日だ。今、食べる」


 父親は席に座り、木匙を取った。

 娘は魚の皿を膳の真ん中へ寄せた。勢いが強く、皿が少し傾き、女将が横から手を出した。


「皿に当たらない。皿は悪くない」


「お父さんが悪いんだよ」


「それはあとで本人へ言いな」


 父親は素直に頭を下げた。


「悪かった。待たせた」


「湯が気持ちよかった?」


「気持ちよかった。気持ちよすぎた」


「魚より気持ちよかったの?」


 父親はすぐに答えなかった。

 娘は木匙を握り直した。


「今は、ここにいる」


「今だけじゃだめ。食べるまでいて」


「分かってる。尾も食べる」


 木匙を握る娘の指から、少し力が抜けた。

 娘は尾を皿の真ん中へ寄せた。焦げた先はまだ固く、木匙で押すと細く鳴りそうだった。


「こっちがわたしの半分」


「そっちが父さんの半分」


 父親が尾の片側を押さえる。

 娘が反対側を持つ。

 二人で折る。


 ぱり、と音がした。


 小さい音だった。

 けれど、広間にいた客たちが一斉にこちらを見た。


 娘は尾の半分を父親の前へ置き、半分を自分の前へ置いた。

 すぐには食べない。まず、父親が口へ入れるのを見る。


 父親は尾を噛んだ。

 骨ごと砕ける音がする。焦げた皮の香ばしい匂いが、隣の席にも漂った。


「まだ熱いな。うまい」


「だから今日がよかったの」


 娘も尾を噛んだ。

 眉はまだ寄っているのに、口元だけ少しゆるんだ。


 父親は娘の皿を見た。

 まだ手つかずの身が、湯気を細く上げている。

 娘は尾だけを守っていたのではない。

 父親が戻るまで、膳そのものを始めずに待っていた。


「先に食べてもよかったんだぞ」


「半分こするって言った」


「尾のことだと思ってた」


「ごはんも、一緒がいい」


 父親は木匙を持ち直した。

 荷縄を締める時より、少しだけ慎重な手つきだった。

 皿の上で身を分ける。大きい方を娘の皿へ寄せようとして、娘に睨まれた。


「同じくらいにして」


「同じくらいか。きびしいな」


「待ったんだから」


「それは待たせたな」


 父親は身の大きさを見直し、小さい方を少し足した。

 娘はそれを見て、ようやく木匙を動かした。


 二人が尾を噛むのを見て、客たちは自分の皿へ木匙を戻した。


 橋にいた商人も、巡礼者も、濡れた髪の若者も、席に座っている。

 みんな一度、皿の端で迷い、それから魚へ戻った。

 腹だけは、遠慮なく鳴っていた。

 湯はまだ体に残っているのに、木匙は止まらなかった。


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