第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(9)
女将は、ほかの客の魚を火から下ろした。
「尾だけで飯が終わるんじゃないよ。身も食べな」
「お父さんが遅いから」
「遅れてきた客には、まず熱い魚を食べさせるんだよ。小言で冷ましたら、魚に悪い」
父親は魚の身をほぐし、娘の皿へ少し置いた。
娘は自分の身を、同じくらい父親の皿へ戻した。
「それも分けるのか」
「お父さんも食べて」
「まだ怒ってるか」
「待った分は、ちょうだい」
父親は笑いかけた。
だが今度は、言葉より先に手が動いた。
父親は娘の皿へ身を少し寄せた。
娘は返事をせず、自分の魚を噛んだ。
リュカの膳も運ばれてきた。
女将が蓋を取る。
香草魚の湯気が立つ。
さっき蓋の下にこもっていた匂いを、今度は自分から吸い込んだ。
腹の虫が、今度ははっきり鳴る。
「やっと食べる気になったね」
「食う。今なら喉を通る」
「遅いよ。魚が待ちくたびれた」
「遅れた分まで食う」
「残したら皿洗いを増やすよ」
リュカは木匙を取った。
今度は迷わなかった。
魚の皮へ歯を入れる。
薄く焦げた皮が割れ、すぐ下の脂が熱い。
香草の青い匂いが鼻に抜ける。
身は白く、骨の近くに塩が少し強い。
そこへ冷たい瓜を挟む。
舌の熱が引き、瓜の青い甘さが残る。
黒パンを割る。
端は固いが、中は少し湿っている。
魚の汁を吸わせると、パンの焦げと香草が一緒になった。
「これは、うまいな」
女将が皿の端を見た。
「今度は、冷める前に食べたね」
「やっぱり、うまい」
リュカは林檎の酢漬けを噛んだ。
舌に残った脂が消え、すぐ次の一口が欲しくなる。
「これは魚の後だな」
入口の酢漬け売りが聞きつけた。
「そうさ! 魚のあとに二切れ! 口直しの酢漬けだよ!」
広間から笑いが起きた。
薄い麦酒は軽かった。
濃い酒と違う。
湯上がりの喉を、川風の代わりに少し冷やす酒だ。
泡は薄く、麦の甘さも控えめで、魚の塩を流してくれる。
広間のあちこちで、食べる音がまた聞こえた。
黒パンを割る音。
魚の骨を皿の端へ置く音。
瓜を噛む音。
酢漬けを食べて、誰かが小さく息を吸う音。
さっきまで橋で横並びに欄干へ肘を預けていた客たちが、今はそれぞれ違う速さで食べている。
商人は麦酒を褒めながら魚を早く食べる。
巡礼者は一口ごとに短く礼を言う。
荷隊の若者は壁際の荷を見て、黒パンを二切れ包んでもらえないか女将へ頼んでいる。
女将は断るふりをして、包む布を出した。
「先に食いな。持ち出しの勘定は後」
「後で払います。逃げたりしません」
「払うのは朝だよ。出る前にしな」
広間にまた笑いが起きた。
広間の客は、今度は笑いながら自分の皿を見た。
「薄い。けど、今はいい」
リュカが言うと、女将が横目で見た。
「湯上がりには、その薄さが値打ちなんだよ」
「ちょうどいい薄さだ」
「やっと食べる客に戻ったね」
女将はそう言いながら、リュカの皿へ魚をもう一切れ置いた。
「働く分の前払いだよ」
「ずいぶん多いな、これ」
「多いと思うなら、きれいに洗いな」
橋の老人が入口の外から言った。
「食べたら戻れ。川風は逃げん」
女将が返す。
「客を冷やしすぎるんじゃないよ」
「冷やすのは風だ。ふやかすのは湯だ」
「どっちもほどほどにしな」
老人は何も言わず、小椅子の脚を二度鳴らした。
リュカは皿の最後の酢漬けを食べた。
口の中がさっぱりして、皿に残った魚の脂が少し惜しくなった。
その夜更け、リュカは台所の桶の前で袖をまくった。
魚の脂が浮いた水は、まだ少し温かい。香草の切れ端が桶の縁に貼りつき、皿は山になっている。
「これが今夜の寝床代か」
「魚を余分に食べた客の分だよ」
女将は布巾を投げた。
「なかなか減らないな」
女将は桶を顎で示した。
「魚の脂は冷めるとしつこいんだよ。口より手を動かしな」
リュカは皿を洗った。
脂をぬぐい、湯で流し、布で拭く。
さっき自分が魚を食べた皿だ。
娘が尾を半分置いた皿だ。
父親が謝りながら身をほぐした皿だ。
皿を洗うたび、さっき誰がどこに座っていたか、汚れ方で見当がついた。
娘の皿は小さい。端に尾の細い骨が残っていた。
父親の皿は魚の身がきれいに取られている。荷を担ぐ者の食べ方で、身に無駄がない。
巡礼者の皿には、酢漬けの赤い汁が少し残っている。祈りを挟むぶん、酢漬けの減りは遅かった。
リュカの皿は、香草の切れ端までなくなっていた。
女将は、洗い桶へ入れる前にリュカの皿を持ち上げ、鼻を鳴らした。
「銭袋は軽いのに、皿はきれいに空けるんだね」
「うまかった。皿が多いわけだ」
「今夜はね。明日の朝まで続くとは言ってないよ」
台所の奥では、娘が父親の旅包みを結び直していた。
青い紐をほどき、もう一度結ぶ。結び目が斜めになり、父親が手を出しかける。
「自分で結べるから」
娘が言うと、父親は手を引っ込めた。
「結び目が斜めだぞ」
「目印だからいいの」
「朝、ほどけても知らないぞ」
「ほどけたら、もう一回結ぶ」
「じゃあ、その紐は任せる」
皿を洗う音の向こうで、親子は明日の荷と青い紐のことを一つずつ決めていた。
湯屋の裏では、小さな桶の水が湯気の中で冷えている。
湯屋の裏口で、トマが戸口に立った。
「まだ皿洗いですか」
「寝床まで歩けるか怪しい」
「皿は数えない方がいいです」
「数えたら眠れなくなる」
トマは少しだけ笑った。
すぐに唇を結ぶ。
「湯ざまし、減ってきました」
「湯上がりの客はどうだ」
「腹を押さえて出てきます」
「それなら、橋へは行かないな」
「困ります。靴を預かっているだけなのに、浅瀬亭の案内までしてます」
女将が台所から返す。
「いいことだよ。皿洗いがいる」
リュカは桶の中の皿を見た。
まだ山は低くならない。
腹はすっかり満ちていた。
香草の匂いが指に残る。
そのまま寝床へ入れば、すぐ眠れそうだった。
翌朝、湯屋の裏口で、トマが小さな桶を洗っていた。
疲れだけ、湯で流していけ。
その下には、小さな木盆が戻されている。
冷えた瓜が数枚、薄い塩をまとって並んでいた。
字より先に、その青さが目に入る。
湯気は板の前で白く揺れ、瓜の水滴だけが冷たく光っていた。
朝の湯屋は、夜より静かだった。
桶の音も少ない。
白い湯気が、まだ朝の静かな町の屋根へゆっくり上がる。
石畳には夜の冷たさが残り、橋の方から来る風も、昨日ほど客の足を止めなかった。
マエルが桶を持って通りかかった。
「塩は入れすぎるな」
「ほんの少しにします」
マエルは桶の水を指で弾いた。
水滴が瓜の皮へ落ちる。
トマはその音で、板ではなく瓜を見た。
トマは眉間を狭めた。
「下足棚より、マエルさんの方が面倒です」
「下足棚は怒らんだけ楽だ」
「倒れる棚は、怒る客より厄介です」
「それはおまえが詰めすぎる」
「客が多いと、棚は詰まります」
「昨夜はよく戻ったからな」
トマは小桶の下をもう一度拭いた。
冷えた瓜には触らない。
桶の底についた水滴だけを、布の端でそっと拭う。
板は拭く。
桶は残す。
下足場には、朝の履物が並んでいる。
昨夜より乱れていない。
客は湯から出ると、朝飯の匂いに気づいて浅瀬亭へ曲がる。
橋へまっすぐ伸びる濡れた足跡は、昨夜より少ない。
浅瀬亭へ曲がる足跡は、まだ水を含んで光っている。
トマは足跡を見て、背筋を伸ばしかけた。
けれど、すぐに履物棚へ手を戻した。
客は、もう右へ曲がっていた。
湯上がりの客が一人、裏口から出てきた。
朝湯を浴びた商人だ。昨夜、橋で薄い麦酒を持っていた男だった。
商人は履物を受け取り、橋へ向かいかけた。




