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第二話 夏の膳 腹の虫まで黙る名湯(10)

 トマは少し迷った。

 それから、履物棚の扉を閉める音に合わせて言った。


「疲れは、流せましたか。右で黒パンを焼いています」


 商人が自分の腹を押さえると、きゅ、と小さく鳴った。

 男は笑い、浅瀬亭の方へ曲がった。


「本当だ。魚もあるな」


「黒パンも魚も、まだ温かいですよ」


「橋は飯のあとだな」


「魚は待つと固くなりますから」


 言ってから、トマは少しだけ眉を寄せた。


 マエルは桶を抱え直した。


「今ので、浅瀬亭へ曲がったな」


「つま先が少し、右を向いていました」


「それでいい。先に靴を返せ。小言はあとだ」


 浅瀬亭では、朝の支度が始まっていた。

 火は夜ほど強くない。

 けれど、黒パンを焼く匂いと、昨日の香草魚をほぐして温める匂いがある。

 瓜は朝の水で冷やされ、酢漬けの器は小さく出ている。


 リュカは広間の隅で、まだ半分寝ぼけたまま座っていた。

 よく眠ったのか、背中のこわばりは取れている。だが、皿洗いをした翌朝の指は少しふやけていた。


 女将が包みを持ってきた。

 黒パンに、昨夜の香草魚をほぐして挟んである。

 林檎の酢漬けも二切れ。

 冷えた瓜は薄い布に包まれていた。


「言われた分の皿は洗った」


「きれいに片づいてたね」


「山ほど洗った。指に、まだ魚の匂いが残ってる」


「それだけ、みんなよく食べたってことだよ」


 女将はそう言いながら、黒パンをもう一切れ包みに足した。


 リュカは包みを見た。


「道で食べる分まであるのか」


「道で休んで食べな」


「払う銭は残ってない」


「皿を山ほど洗った客から、朝の包み代まで取らないよ」


「そういう宿には見えない」


「なら黙って持ちな」


 リュカは包みを受け取った。

 もう温かくはない。

 旅に持って出る包みは、手のひらでしっかり重かった。


 女将が聞いた。


「寝床はどうだった」


「寝た。固さは覚えていない」


「うちは安宿じゃないからね」


「銭は足りなかった」


「昨日の分なら、皿洗いで済んでるよ」


「また銭が足りなかったら」


「腹が鳴るうちに来な。銭袋が軽くても、きれいに食べる客は泊めるよ」


 リュカは少し笑った。


「変わった勘定だな」


「湯屋の隣で宿をやってりゃ、銭袋だけ見てられないんだよ」


 広間の隅では、旅包みを膝に置いた娘と父親が朝の瓜を食べている。

 父親の足元にも荷がある。荷隊の出発は近い。外では、荷馬が桶の水を飲む音がしていた。


「朝の瓜も、一緒に食べて」


 娘は瓜を見ながら言う。


「朝は瓜を半分こか」


「うん。朝も一緒がいい」


 父親は瓜を二つに割った。

 片方を娘へ渡し、片方を自分で食べる。

 昨日の尾ほど大きなことではない。

 それでも娘は、父親がかじるのを待ってから、自分の瓜へ歯を立てた。


「峠にも魚はある?」


「川があれば、たぶんな」


「尾、残してくれる?」


「あれば、残しておく」


「尾も一緒に折る?」


「帰ったら、一緒に折ろう」


 娘は父親の結び目を見た。

 昨日より、少し固く締められている。

 少し迷って、それから頷いた。


「帰った日も、あの音する?」


「もちろんだ。その日に焼いたやつをな」


「じゃあ、その日にする」


 父親は首の紐を結び直した。

 娘の旅包みにも、同じ色の短い紐が揺れている。

 父親が結び目を指で押さえると、娘も自分の結び目を押さえた。


 市では酢漬け売りが、もう赤い器を出していた。


「先に一切れ。続きは魚のあとだよ」


 女将が入口から睨む。


「先に売りすぎるんじゃないよ」


「分かってるよ。魚の前は、まだひと口だ」


「少しは加減を覚えたね」


「女将の魚の邪魔をすると、あとが怖いからね」


 橋の老人は小椅子を広げていた。

 昨夜より、小椅子の脚を鳴らす音が軽い。

 朝飯の後の客が橋へ来るたび、老人は小椅子を少し横へずらした。


「橋で涼むなら、包みはしまっておけ」


 老人がリュカへ言った。


「風に当ててると、魚の脂が固まるぞ」


「ひと口だけ食べた」


「なら歩け。腹が鳴ったら、道で開けろ」


 リュカは包みを小脇に抱え、浅瀬亭を出た。

 石畳はまだ朝の冷たさを残している。

 湯の匂いは、昨日より軽い。

 下足場から、トマの声がした。


「湯屋へ寄るなら、その包みを棚に置いてください」


「今はいい。町を出る」


 トマはリュカの小脇の包みを見た。


「道で食べる分ですね」


「女将が持たせた。重い」


 トマは少し背を伸ばした。


「道中、気をつけてください」


 リュカは包みを抱え直した。


「世話になった」


 トマは耳の下を指でこすり、下足棚へ向き直った。


「板も、書き直しますか」


「今日は直さなくていい」


「このままで、いいんですか」


「迷う客がいたら、おまえが声をかければいい」


 トマは返事をしなかった。

 だが、次の湯上がり客へ履物を渡す時、板の方をちらりと見た。


 疲れだけ、湯で流していけ。

 その下に、小桶が一つ。


 古い板の字は、もうほとんど読めない。

 それでも、客は朝飯の匂いの方へ曲がっていく。


 女将は浅瀬亭の入口へ小さな桶を置いた。

 中には薄く切った瓜が数枚、水に沈んでいる。


「朝湯の客へ売るのか」


 リュカが聞く。


「売り物じゃないよ」


「ただで置いていいのか」


「一枚くらい、ただでいいよ」


 女将は桶の中の瓜を、指で一枚沈め直した。

 瓜の横には、小さな薄板が立ててある。


 先に一枚。おなか、わすれちゃだめ。


 字は女将の字ではない。トマの固い字でもない。娘の字だろう。線が少し曲がっている。


「小さな板まで立てたな」


「あの子が、置いてくれって言った」


「その字で客が足を止めるか」


「あの子の字なら、まず笑うよ」


 女将は桶の水を指で弾いた。


「笑ったら、一枚つまむもんだよ」


 朝湯を出たばかりの若い荷担ぎが、その薄板を読んで口元をゆるめた。

 そのまま桶の前で止まり、瓜を一枚つまむ。

 水が指から落ち、石畳に小さな丸を作った。


「腹を忘れるな、か」


「忘れたら、うちの魚が怒るよ」


 女将が言うと、荷担ぎは浅瀬亭の中を覗いた。

 黒パンの匂いが出ている。

 湯屋の方からは、まだ柔らかい湯気が流れてくる。

 荷担ぎは一度だけ橋へ体を向け、それから朝飯の匂いの方へ曲がった。


 トマはそれを見て、下足棚の端を一度だけ拭いた。

 余計な声はかけなかった。

 今朝は、トマが声をかける前に、濡れた靴先が右へ向いた。


 リュカは町の外れで包みを少し開けた。

 黒パンの間から、香草魚の匂いが立った。林檎の酢漬けの酸味も混じっている。

 一口だけ食べた。

 冷めても、昨夜の魚はうまかった。

 ただ、尾の皮が割れた小さな音だけは、包みには入らない。


 包みを閉じると、布越しに魚の脂が少し指へ移った。

 旅の食べ物は、たいてい冷めている。

 冷めた黒パンは、歩きながら噛むと少し甘い。

 あの音は、昨夜の卓にしかなかった。

 熱い皿の前で、父親と娘が尾を半分に折った時だけ鳴った。


 リュカは包みを抱え直した。

 黒パンの角が、布越しに掌へ当たる。

 皿洗いでふやけた指には、香草魚の匂いがまだ少し残っていた。

 布の皺が、指の下で細く寄った。


 背後で、荷隊の鈴が鳴った。

 父親が、荷馬の横を歩いていく。

 娘は浅瀬亭の入口で手を振っていた。泣いてはいない。旅包みの端を片手で押さえ、もう片方の手で大きく振っている。


 父親も振り返り、首の結び目を指で押さえた。

 昨日の橋で見せた、湯上がりのぼんやりした笑いはない。

 父親は浅瀬亭の煙突を一度見て、もう一度だけ娘へ向き直った。


 娘は何か叫び、昨夜の尾を分けた幅だけ両手を開いて見せた。

 川音にまぎれて、言葉は分からない。

 父親は頷き、首の紐の端を指で二度つまんだ。


 湯屋の屋根から、朝の湯気が細く上がっていた。

 リュカの腹が、小さく鳴った。

 リュカは包みを小脇に収め、次の道へ歩き出した。


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