第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(1)
結論から言う。
その宿では、持ち寄りを一匙受け取るたび、鍋の味が変わった。
最初に甘くなったのは、林檎煮ではなく、焼き茸だった。
秋市の夕方、白嶺街道の峠宿の前まで、人があふれていた。
道には茸籠が並んでいる。
傘の厚いもの、細く白いもの、薪の匂いを吸ったように黒ずんだもの。
栗粉の袋は壁際へ積まれ、赤い林檎を布で磨く女たちが、峠を越えてきた客を呼び止めていた。
道の向こうでは、荷馬の鼻息が白い。
山の方はもう夕方の色を帯びていて、紅葉した枝の先だけが火の照り返しのように明るかった。
宿の奥から、焼き茸の匂いが外へ流れてくる。
水気を含んだ茸が火にあたり、縁だけが少し焦げる。
そこへ山鳥の脂が一滴落ちる。
栗粉パンの表面が割れ、林檎煮の甘い湯気がその後ろで立つ。
腹を空かせた者には、たまらない匂いだった。
通り過ぎるには、あまりに強い。
白嶺街道の秋市は、年に一度、山の品と谷の品が同じ道に並ぶ日だった。
山からは茸と山鳥、乾いた香草、木の実が来る。
谷からは栗粉、林檎、蜂蜜、塩漬け肉が上がってくる。
旅人たちはその間を歩き、宿を決める前から焼けた脂と林檎の甘さを探した。
この宿は、その道の曲がり角にあった。
曲がり角には、昼から人が溜まる。
道の脇からは、壊れた観測塔へ上がる細い坂も分かれていた。
今では誰も、あの塔で何を見ていたのか知らない。上の手すりは欠け、石段も半分は苔に埋もれている。
それでも秋になると、残った踊り場から紅葉の尾根がよく見えた。
塔帰りの客は、冷えた指をこすりながら、湯気の立つこの宿へ降りてくる。
山へ向かう者は、ここで杖の紐を締め直す。
谷へ下りる者は、荷の重さを量る。
子どもは林檎の籠をのぞき、商人は次の坂までに食べられるものを探す。
扉のそばには、昼のうちから空の椀が重ねてあった。
宿の主人は外の人だかりを見るたび、薪の残りと井戸桶の数を数えた。
客が湯を飲み、別の客が汁をすすり、親が子どもの分だけ小さくよそってもらう。
秋市の宿では、椀の減り方で、夜の火の強さが決まる。
椀が戻るたび、洗い桶の水が濁った。
井戸へ走る子どもの息が、扉のそばで白くなる。
薪番は棚の下へ身をかがめ、食堂係は空いた席を探して背伸びをする。
皿洗いが一人止まると、濡れた椀が台に積まれた。
積まれた椀はすぐにかまどの前まで増え、火の前に立つ者の肘のそばまで迫る。
皿が残るたび、空くはずの席が埋まり、井戸へ走る子どもも足を遅らせた。
湯を借りる客、火だけ借りる客、馬に水を飲ませる客。秋市の日は、泊まらない客まで宿の中をのぞく。
客の目は、宿帳より先に台所へ向く。
焼き茸の匂いが弱ければ、手綱を握ったまま通り過ぎる。
湯気が濃ければ、客は宿の前で荷を肩から下ろす。
曲がり角を過ぎると、次の宿までは山道が長い。
夕方の風が冷える頃、火の前から何が匂うかで、客は泊まるかどうかを決める。
泊まる客が増えれば、明朝の包み飯も売れる。
荷馬を預ける者も出る。火の前で一晩を越せる者が増える。
献立板を見る前に、客は湯気の前で足を止めた。
荷紐がほどかれ、馬の手綱が柱へ回る。
風に乗って、焼き茸と山鳥の脂が来る。
栗粉パンの焦げた縁。
峠を越えた者は、その匂いを嗅いだだけで、荷を下ろす場所を探した。
宿の前では、宿の主人が客の荷を見ていた。
泊まる者、湯だけ借りる者、明朝の包み飯を頼む者。
秋市の日は、食堂の席だけでなく、馬小屋の藁も、井戸の順番も、火の近くの腰掛けも足りなくなる。
それでも、この宿は毎年まわってきた。
先代の料理番がいた頃、蜂蜜屋が壺を出せば、「林檎の小鍋の横へ」と言った。
香草売りには「塩皿のそばへ」、山鳥の脂を持つ男には「火の端の小皿へ」と返した。
持ち寄りの者が迷う前に、先代の料理番の声がかまど越しに飛んだ。
今年、そのかまどの前に立つのはロナだった。
皿洗いから始め、パンを割る係を経て、ようやく火の前に立った。
ロナは手が速い。
材料もよく見ている。
だが、町の者が顔を出すたび、ロナの手は去年の場所を探した。
蜂蜜屋の女は、壺を林檎の小鍋へ寄せる。
香草売りは束を鍋の湯気へ近づける。
山鳥の脂を持ち込む男は小皿を、火口の脇へ置く。
ロナだけは、今年のかまどの前で、「壺は林檎へ、束は塩へ」とまだ言えずにいた。
今年も、宿の前に立つだけで焼き茸の匂いが分かった。
客は匂いをかぎ、宿へ入る。席に着く頃には、椀を受け取る前から去年の秋を思い出している。
思っていた味と違っても、客は怒鳴らない。
笑ったまま匙を置き、宿帳の台へ向かいかけて、やめる。
「一皿、まだあるか」
「あります。すぐ出します」
かまどの前で、ロナは返事をした。
袖を肘までまくり、汗を拭く暇もなく皿を並べている。
外の風は冷えはじめているのに、火の前だけは夏の熱だった。
ロナは茸を皿へ移した。
厚く切らず、手で裂いた茸だ。
火の縁で少し水気を逃がしてから、焼き目をつけてある。
山鳥の脂は多くない。
裂け目に少しだけ吸わせ、栗粉パンを横に添えた。
林檎煮は小さな椀に入れる。
汁は皿の縁へこぼれていない。
パンの焦げた面も、客の方を向いている。
その背後から、蜂蜜屋の女が顔を出した。
「ロナ、林檎煮の甘みが足りないんだろう。ほんの一匙、足しておやり」
女は小さな壺を差し出した。
濃い蜂蜜が、壺の縁でゆっくり光っている。
「でも、これは林檎煮にだけ――」
「分かってるよ。一匙だけ。客は甘いものがあると喜ぶから」
ロナは皿の中身を見た。
焼き茸と栗粉パンと林檎煮が並び、山鳥の脂が茸の縁で光っている。
蜂蜜は、林檎煮に一滴でいい。
茸には要らない。パンにも要らない。
木匙の先が、茸の上で止まった。
蜂蜜屋の女は壺を引っ込めなかった。
今年の林檎は甘いが、酸味が薄い。
秋市の客は去年の膳を覚えている。
壺の口は、火の方を向いたままだった。
ロナは、息を吸った。
「ありがとうございます」
ロナが礼を言った途端、火口の奥で重い音がした。
ぱちり、ではない。
湿った石を内側から叩いたような、腹に残る音だった。
ロナが匙を取る前に、火の上で甘い湯気が立った。
壺の縁から金色の滴が細く垂れ、火の上を越えて皿へ落ちた。
林檎煮だけではなかった。
焼き茸の裂け目にも、栗粉パンの焦げ目にも、山鳥の脂にも、蜂蜜の甘さがついた。
ロナは目を見開いた。
「待って、まだ――」
ロナは皿へ手を伸ばした。
食堂係は盆の縁をつかみ、ロナの指先が届く前に盆ごと持ち上げた。
ロナが一歩出る前に、食堂係は人の肩の間を抜け、手前の男の前へ皿を置いた。
客は嬉しそうに匙を取った。秋の茸と蜂蜜と山鳥の脂が、皿の湯気に混じっている。
男は焼き茸を一口食べた。
噛んだところで、首を傾げる。
「……甘いな、これ」
近くの匙が、いくつか止まった。
男はもう一度、皿を見る。
「林檎じゃなくて、茸が甘い」
隣にいた子どもが、匙を置いた。
「これ、茸の味がしない」
子どもの匙が皿に戻る前に、ロナの木匙が止まった。
蜂蜜屋の女が、壺を抱え直した。
「林檎にだけのつもりだったんだよ。茸まで甘くする気はなかった」
ロナは口を開きかけた。
けれど、女は壺の口を見下ろしたまま、何も言えずにいた。
壺の縁には、拭き残した蜂蜜が光っている。
ロナは唇を閉じた。




