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第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(2)

 蜂蜜が回った皿を最初に残した男は、怒った顔をしなかった。

 むしろ、ロナが謝る前に、皿をロナの方へ少し寄せた。


「林檎なら、合うんだろうな」


 男は茸を避け、林檎煮だけを口へ運ぶ。

 そこで、小さくうなずいた。


「林檎には合う。けど、茸には甘すぎる」


 小椀の縁には蜂蜜の艶が残った。

 皿の真ん中では、茸だけが甘い膜をかぶったまま冷めていく。


 ロナは下げた皿を洗い場へ運んだ。

 水桶の横に置いても、皿には甘い匂いが残った。

 冷めた茸をつまむと、焦げ目より先に蜂蜜が指についた。


 祭りの甘菓子なら、人を笑わせる匂いだ。

 だが、峠を越えた客が最初に欲しがる焼き茸ではなかった。


 洗い場の娘が、小声で言った。


「捨てますか」


 ロナは皿の縁を親指で押さえた。

 食べられる。

 けれど、皿からはまだ、蜂蜜ばかりが匂った。


「……まかないに回す」


 ロナがそう言ったところで、火口の奥で、乾いた石音が一つした。

 ロナは皿の端に残った蜂蜜の艶を布で拭った。甘い匂いは布にも移った。


 食堂では、次の客がもう席に着いている。

 宿の前では、別の客が椀をのぞき込んでいた。


 蜂蜜屋の女は、ロナが子どもの頃からこの宿へ壺を運んでいた。

 ロナが皿を洗っていた時分、女はよく厨房の外から林檎の芯を渡してくれた。

 捨てるには惜しいから、噛んでおきな、と笑っていた。


 女の壺は、まだ小鍋のそばへ寄っていなかった。

 茸には入れない。

 そう言う前に、ロナは林檎煮の小椀を皿の端へ寄せた。


 口を開けば、女の壺を押し返す声になる。

 蜂蜜はありがたい。

 壺も、手も、心配も、ありがたい。


 それでも客席にはまだ、蜂蜜が回った皿が残っていた。


 客席の男がもう一度、茸をつついた。

 匙の先で、蜂蜜が細く尾を引く。

 男は笑いかけて、口を閉じた。

 蜂蜜の匂いは皿からよく立っていた。

 けれど、茸の焦げた匂いは弱かった。


「悪くはないよ」


 男は、皿ではなくロナの方を見て言った。

 ロナは盆の縁を持ち直した。


「祭りの膳だしな」


 別の客も笑った。

 でも、男は匙を置いた。子どもも、もう焼き茸には手を伸ばさなかった。


 皿を下げる時、焼き茸は二切れだけ皿の端で冷めていた。

 ロナはその皿を持ったまま、かまどの前へ戻った。

 蜂蜜の匂いが立ち、山鳥の脂が皿の縁で光っていた。栗粉パンの焦げ目も黒い。

 茸の焦げた匂いは、皿の中でいちばん弱かった。


 皿洗いの少年が、下げた皿を受け取りかけた。


「下げますか」


 ロナは首を振った。


「まだ。端に置いて」


 少年は困った顔で、皿を作業台の隅へ置いた。

 茸から湯気は消えているのに、蜂蜜の匂いだけはまだ強い。

 食堂では、男が隣の客に笑っていた。


「いや、悪くはないんだ。祭りの日だしな」


 男は小さく笑った。匙が皿に触れる音の方が目立った。


 悪くない。

 けれど、もう一口はいらない。


 皿は、かまどの横で冷めていく。

 ロナが新しい椀を盆へ置くと、食堂係がそれを持って食堂へ戻った。


 火口の奥で、また石音がした。

 食堂側の煤が、かすかに剥がれて落ちた。


 香草売りの男が、外から食堂をのぞいた。

 その足は、かまどの前へまっすぐ来た。

 手には、小さな香草の束を持っている。


 売れ残りではない。

 葉の先まで張りがあり、指で少し揉むだけで、青い匂いが立つ束だった。


「今年の茸は、香りが薄いな」


 男は悪びれずに言った。


「これを少し揉んで、塩に混ぜな。皿の端に置けば、山の匂いが戻る」


 ロナは、男の手元を見た。

 塩皿へ落とすなら、茸の焦げ目は隠れない。

 客が欲しければ、皿の端でつまめばいい。


 香草売りは束を引っ込めなかった。

 葉を揉む指が、塩皿の上で止まった。


 ロナは、また言った。


「ありがとうございます。塩皿へお願いします」


 そう言いながら、ロナは焼き茸の皿を食堂係の盆へ置いてしまった。


 火口の奥で、短く石が鳴った。

 今度は、さっきより少し早かった。

 香草売りの指が小さく跳ねた。

 揉んだ葉は塩皿を外れ、火の上で乾いた。


 ロナは盆の縁へ手を伸ばした。

 火に触れた葉から、青い匂いが一息遅れて立った。

 匂いだけが湯気を抜け、食堂係の盆に載った皿へ先に渡った。

 焼き茸の焦げ目より先に、林檎煮にも栗粉パンにも、青さがかぶさった。

 ロナが載せた皿は、もう卓の間へ入っていた。

 ロナが皿へ追いつく前に、客が匙を取り、一口食べて、水差しの方を見た。


「……薬草みたいだな」


 隣の客が水を頼んだ。

 香草売りの男は、困ったように首をひねった。


「うちの葉は、そこまで強くないんだがな」


 ロナは男の手に残る葉を見て、小さくうなずいた。

 香草の束は、まだ男の手に半分残っている。

 それでも皿からは、青い香りが先に立ち、茸の焦げ目を隠していた。


 山鳥の猟師バルトも、かまどへ来た。

 この宿の秋市を昔から知っている。

 ロナが皿洗いをしていた頃から、かまどの火の前に立っていた男だ。


 バルトは小さな皿を差し出した。

 山鳥の脂が、白く固まりかけている。


「茸が水っぽいなら、脂を吸わせろ」


 ロナは脂を見た。

 今年の山鳥は軽い。

 脂も、去年ほど重くない。

 裂いた茸に少し吸わせれば、焦げ目が立つ。だが、多く使えば、茸が消える。栗粉パンまで重くなる。


「茸の裂け目に、一滴だけ使います」


 ロナは小さく言った。

 バルトは眉を上げる。


「去年はもっと使った」


 去年。

 バルトがそう言った瞬間、かまどの奥が赤くふくらんだ。

 去年の茸。去年の山鳥。去年の膳。

 客も、町の人も、それを覚えている。


 ロナは小皿を受け取った。


「ありがとうございます」


 ロナは脂を一滴だけ、裂いた茸の端へ落とした。

 火口の奥で、低く石が鳴った。

 一滴の脂が裂け目を越え、皿の上へ薄く広がった。

 栗粉パンの割れ目にも、林檎煮の椀の縁にも、脂がにじんだ。


 食堂係が皿を置くと、客が栗粉パンを割った。

 ぱり、と音はした。

 けれど、指先に脂が残る。

 男が少しだけ眉を寄せた。


「パンが重いな」


 別の客が、皿の真ん中を匙で少しよけた。

 焼き茸はあった。けれど、脂の艶とパンの影に沈んでいた。


「焼き茸はどこだ」


 ロナは皿の真ん中を見た。

 蜂蜜屋は壺を抱え直し、香草売りは束を見下ろし、バルトは小皿を火の端へ戻した。

 三人とも、客の皿を見てから手元の品を見た。

 火口の奥で、湿った石を打つ音が一つ残った。


 声を荒らげる客はいなかった。

 匙を置く音だけが、皿の端で鳴った。


「悪くはないよ」


「祭りの膳だしな」


「去年とは違うが」


 そう言って、客は匙を置いた。

 水を飲んで、皿を横へ寄せる。

 皿の真ん中では、脂を吸ったパンと茸の端が冷めていた。


 蜂蜜の艶も香草の匂いも脂の輪も、冷めた茸のまわりに残った。

 けれど、誰の匙もそこへ戻らない。


 食堂係が皿を下げると、次に注文する客も小さく言った。


「林檎煮だけでいい」


「茸は、あとにする」


「包み飯は朝に考える」


 そう言われるたび、宿帳の台へ寄る客が減った。

 明朝の包み飯の欄は、なかなか埋まらない。

 馬小屋の預かり駒も増えない。

 汁鍋の前で待っていた旅人は、外の方を見た。


 ロナは皿を下げた。

 焼き茸が二切れ、皿の端で冷めている。蜂蜜の匂いに、香草の青い匂いまで移っていた。

 二切れの茸からは、焼いた香りがほとんどしなかった。


 バルトが、小皿に残った脂を見た。


「俺の脂を入れるだけなら、俺が焼いた方が早い」


 ロナは顔を上げた。

 バルトは、かまどの火を見てから、ロナを見た。


「おまえは、どう焼くんだ」


 ロナは木匙を握り直した。


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