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第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(3)

 バルトは声を張らなかった。

 それでも、かまどの前ではよく聞こえた。

 太い指の節には、古い刃傷が白く走っている。

 小皿の縁を親指でぬぐい、白く固まりかけた脂を火へかざした。

 バルトの眉が、少しだけ動いた。


 脂を茸の裂け目へ少し落とせば、焦げ目は立つ。

 小皿ごと回せば、今年の茸は隠れる。

 栗粉パンは重くなる。

 林檎煮の甘さまで鈍る。


 ロナは「少しだけ」と言いかけて、口を閉じた。


 バルトの小皿の縁には、山道の灰がついていた。

 袖口にも、抜けきらない羽毛が一筋残っている。


 ロナは、その手と小皿へ礼を言った。

 脂の量は、まだ言えていなかった。

 その前に、火口の奥でまた石が鳴った。

 小皿に残っていた脂がふちを越え、鍋の中へ滑り落ちた。

 食堂側の煤が、低く震えた。


 ロナは、かまどの横の作業台へ下がった。

 外では、まだ客が水を頼んでいる。

 手前の男が皿を少し遠ざけ、隣の客が小さく笑った。

 祭りの日の宿らしい音だった。

 けれど、ロナの手元の皿には、冷めた焼き茸が二切れ残っている。


 ロナは、それを見ないようにして、茸籠へ手を伸ばした。

 今年の茸は、水を抱えている。

 手に持つと重い。香りはあるが、火に近づける前から少し湿っている。

 厚く切れば、火の上で汁を吐く。

 そのまま焼けば、焦げ目より先に水気が出る。

 だから、裂く。


 ロナは茸を一つ取り、指で縦に裂いた。

 中から、薄い水気がにじむ。

 火の縁へ置く。

 火口の強い赤から少し離すと、裂け目の水気が細く消えた。

 茸の縁に、ようやく焦げ目が残る。


 火の縁には、裂いた茸が二つ並んだ。

 ロナの指は、脂の小皿へ伸びなかった。


 山鳥の脂も同じだ。

 皿に落とすと、薄く広がる。

 去年のように脂をたっぷり回せば、皿はつややかに見える。

 けれど、今年の茸には重すぎる。

 裂け目に、ほんの少しだけ吸わせる。それでいい。


 栗粉パンは、大きく添えない。

 今年の粉は少しぼそつく。

 大きく切ると、口の中で粉っぽさが先に来る。

 小さく割って、火の縁で焦げ目を増やす。

 皿の端に残った脂をぬぐえるくらいでいい。


 林檎煮は甘い。

 蜂蜜は一滴で足りる。多ければ、皿全部が菓子になる。


 香草は鍋に入れない。

 細かく刻んで塩に混ぜる。ほしい客が、少しだけつければいい。


 干し茸は、今夜ではない。

 今夜の茸の香りが淡いからといって、干し茸で上から塗りつぶせば、今年の茸の味は干し茸の匂いに埋もれる。

 干し茸は明朝の汁に回す。

 寒い朝、峠へ出る客の椀なら、深い匂いが先に立ってもいい。


 皿の端には、香草塩を置ける。

 林檎は小椀に分けられる。

 干し茸は棚へ残せる。

 けれど、火の前に戻ると、町の者の声が必ずかかる。


「先代は、もっと脂を使っていたよ」


「干し茸を砕けば、味が太くなる」


「蜂蜜は惜しまない方がいい」


「香草は早く入れないと、匂いが立たない」


「客は去年の膳を覚えているんだ」


 どれも、余り物ではなかった。

 蜂蜜屋は、今朝の山道を越えて壺を運んできた。

 香草売りの束は、葉の先まで張っている。

 バルトの脂皿には、白い艶が残っている。

 老婆の干し茸は、布越しにも深く匂った。

 だからロナは、礼を言わずに押し返せなかった。


 ロナが礼を言うたび、壺や皿や包みが火のそばへ一つ増えた。

 ロナの手元にあった皿は、火の前へ戻るたび、町の持ち寄りでいっぱいになっていく。

 皿の白い底が、少しずつ見えなくなる。


 ロナは、まだ火にかけていない茸をもう一つ裂いた。

 裂け目から、水気が少しにじむ。


「強い火には置かない。端で水気だけ逃がす」


 その小さなつぶやきは、火口の奥の低い音に隠れた。

 薪はまだ崩れていない。

 それなのに、黒い口の奥で、食堂側の煤だけが赤く明滅した。


 その音を聞きながら、ロナは棚の下に置いた薪束を見た。

 太い薪は少ない。秋市の日は、昼から火を落とせない。細い薪で火を保ち、太い薪は夜の膳まで残す。


 棚の下では、細い薪が崩れかけている。

 太い薪を取れば、夜の膳の火が足りなくなる。

 ロナは火口と食堂へ顔を向けた。

 棚の下の薪に手を伸ばす余裕は、まだない。


 ロナは先代の背中を思い出した。


 皿洗いだった頃、火の前は遠かった。

 湯気と人の肩越しに、先代の手だけが見えた。

 木匙で鍋をかく手、火の縁へ皿をずらす手、持ち込まれたものを受け取って、別の場所へ置く手。


 蜂蜜屋には、壺の口を林檎の小鍋へ向けてから礼を言った。

 香草売りには、塩皿を手前へ引いてから束を受けた。

 バルトの脂は、火の端の石皿へ移した。

 老婆の包みには、朝の鍋の蓋を少し叩いた。


 壺も束も小皿も、火の前から消えない。

 けれど、鍋へ入れるものは少なかった。


 先代の手が動くたび、ロナは皿を洗いながら顔を上げていた。

 けれど、先代が言う前にどこを見ていたかまでは追っていなかった。

 壺か、鍋か、客の席か。

 そこまでは聞かなかった。


 火の前に立つ日を、ロナは皿洗いの水桶の横で何度も数えていた。

 だが今、壺や束や小皿の向こうに、町の者たちが並んでいる。


 町の人たちは、品を置いて帰るだけではない。

 ロナの返事を待ち、自分が差し出した壺や束や小皿の行き先を目で追う。


 ロナの手の甲が、じっとりと湿った。


 壺を受け取ると、蜂蜜屋の肩が少し下がる。

 使わずに返せば、その手は空のまま宙に残る。


 ロナは受け取る。

 けれど、受け取った壺や束を前に、ロナの手は火のそばで止まる。


 皿洗いの頃は、失敗した皿を水へ沈めればよかった。

 今は、皿が客席へ出る前に木匙を止める番だった。


 ロナは木匙を見た。

 あの匙を持つと、皆が匙の先を見る。

 皆は、鍋へ入るかどうかより先に、壺や束や小皿の置き場へ目をやる。


 作業台の端には、小さな傷がいくつもあった。

 皿を置いた跡。

 重い鍋を引きずった跡。

 包丁を急いで置いた跡。


 先代の料理番がいた頃、ロナはその傷の横で皿を洗っていた。

 先代は、声の大きな人だった。


 蜂蜜屋が顔を出せば、林檎の横だ、とすぐ言った。

 香草売りが束を掲げれば、塩へ回せ、と手を振った。

 バルトが脂の皿を置けば、火の端で待て、と言った。


 その時のロナは、肩をすくめて皿を洗っていた。

 けれど今、同じ場所には、蜂蜜屋の女が壺を抱えている。

 女は、林檎の横へ壺を置けず、火口の方へ抱え直した。

 香草売りも、塩皿へ回せと言われないまま、束を鍋の湯気へ近づけている。

 ロナの木匙は、置き場を示せずに止まっている。

 黒い火口の奥では、去年と同じ赤が明滅している。


 宿の主人は、かまどの脇に立っていた。

 ロナが気づいた時には、宿の主人の影がかまどの石にかかっていた。

 宿の主人は、空の椀を一つだけ脇へずらした。

 椀の底が木の台を擦る音がした。

 ロナは、その音の間に顔を上げられなかった。


「夜の膳で決めよう」


 宿の主人がそう言うと、洗い桶へ手を入れていた少年が止まった。

 棚の上で椀を拭いていた娘も、布を握ったままロナを見た。

 ロナは、手にしていた茸を置いた。


「何を、決めるんですか」


「明日のかまど番だ」


 薪の芯で、小さく音がした。

 ロナは、木匙を握る指に力を入れた。


「私を、火の前から下ろすんですか」


 宿の主人は、ロナが握る木匙を見た。


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