第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(4)
夜の膳は、秋市の宿でいちばん客が集まる膳だ。
昼の市を回った者が戻ってくる。
峠を越えるのを諦めた旅人が荷を下ろす。
町の者も、仕事を終えて火のそばへ来る。
そこで出す皿が、その年の宿の秋を決める。
去年まで、その膳は先代のものだった。
厚く切った茸に焦げ目をつける。
山鳥の脂を強く回す。
栗粉パンを大きく割る。
林檎煮は甘く、干し茸の汁は濃かった。
客は腹を押さえて笑い、翌朝にもその味を話した。
今年、かまどの前に立つのはロナだ。
先代は別の谷へ移った。
宿の主人は宿帳の台と客の寝所で手が回らない。
火の前に立つ者がいなければ、秋市の宿は膳を出せない。
「火の前に立つ者が決められなければ、客に一皿を出せない」
宿の主人は、かまどの横に積まれた空の椀を見た。
「町の者に手伝ってもらえば、皿は並ぶ。だが、それは宿の膳か」
ロナは外を見た。
蜂蜜屋の壺、香草売りの束、バルトの脂皿、老婆の干し茸。
どれも火のそばへ来る。
ロナの手の中で、木匙はまだ動かない。
宿帳の端には、明朝の包み飯の欄がある。
馬小屋の預かり駒も、まだ宿の主人の手元に残っている。
空の椀が重なり、汁鍋の湯気が細く上がっていた。
木匙の柄が、ロナの手の中で少し重くなった。
作業台の端には、まだ裂いていない茸が並んでいた。
傘の裏に、細い水が光っている。
このまま強い火に置けば、水気が先に出る。
ロナの指は、茸籠の上で止まった。
宿の主人を呼び止めれば、まだ考える時間はもらえる。
けれどロナは、声を出せなかった。
火の縁では、置きっぱなしの茸の端が黒く縮んだ。
それでもロナの喉は開かなかった。
「今夜で決める」
宿の主人はそう言って、客の方へ戻った。
外では、次の客が椀の数を聞いている。
夜の膳は、待ってくれない。
皿洗いの少年が、洗い桶を半歩だけロナの方へ寄せた。
悪気はない。
火の前を降りるなら、そこがロナの戻る場所だった。
皿を拭いていた娘は布を握ったまま、ロナの手元を見ている。
井戸水を運んでいた少年も、桶を床へ置いた。
誰も何も言わない。
けれど、皆が「次は誰が木匙を持つのか」を待っていた。
ロナは洗い桶を見た。
今年の茸を裂いた指で、また皿のぬめりだけを落とすのか。
明朝の汁も、峠へ出る客の包み飯も、火の前に立つ者が決める。
そこから外れれば、ロナは今年の秋、最後まで火の前に立ち続けられない。
蜂蜜屋は、壺を抱え直した。
香草売りは、束を鍋の湯気へ近づけた。
バルトは脂の皿を火の端に置き、老婆は干し茸の包みを胸に抱えている。
みんな、ロナを助けようとしていた。
だからこそ、誰の手も押し返せなかった。
ロナは洗い桶から目を離し、火口へ向き直った。
火は、いつものように揺れている。古い石の口は黒く艶を持ち、秋市のたびに火を抱いてきた跡が重なっている。
蜂蜜や脂の焦げた跡が、黒い石に薄く残っている。
町の者は毎年、蜂蜜も、香草も、脂も、干し茸も、火の前へ置いた。
今夜も、ロナが決める前に、壺や束や小皿が火口へ寄ってしまう。
ロナは、古い木匙を見た。
かまどの横に掛けられている。柄は黒ずみ、先は少し欠けている。
先代は、この匙を迷わず取っていた。
ロナは手を伸ばしかけた。
けれど、触れる前に、外の客が呼んだ。
「ロナ、次の皿はまだかい」
ロナは手を下ろした。
「すぐ出します」
ロナは客席へ向いたまま、木匙ではなく空いた皿を取っていた。
客には「すぐ」と返せる。
だが、壺や束を差し出す町の人たちには、「今は使わない」とまだ言えない。
その間にも、火は茸の端を黒くしていく。
けれど、火の前へ戻ると、木匙は鍋の縁で止まる。
壺の口が火へ向き、香草の束が湯気に近づく。
客席では皿が待ち、火の端では脂が白くゆるんでいた。
先代の木匙は、かまどの横で黒ずんで掛かっている。
ロナはまだ、それを自分の道具として持てずにいた。
宿の主人が客の方へ戻った後も、木匙の柄のくぼみが指先に残った。
客へ皿を出す手は止められない。
皿を出すたび、ロナの目は明朝の支度を並べた棚へ戻る。
干し茸の包み。
包み飯の紐。
馬小屋へ渡す栗粉パン。
脂の小皿。
蜂蜜屋が壺を出すと林檎の匂いが強くなり、香草売りが束を出すと汁が青くなる。
バルトが立てばパンまで脂を吸い、老婆が立てば夜の鍋に干し茸が入る。
それでもロナは皿を出す。
けれど、宿の膳はまた一つの味に傾く。
ロナが皿洗いだった頃、先代がかまど越しに短く言うだけで、持ち寄り主の手は止まった。
蜂蜜屋は壺を林檎へ寄せ、香草売りは束を塩皿へ置き、バルトは脂の小皿を火の端へ置いた。
今、同じ人たちが、今年も品を鍋のそばへ寄せている。
ロナが言わないだけで、壺も束も小皿も火へ近づく。
ロナは木匙へもう一度手を伸ばした。
今度は、指先が柄のくぼみに触れた。
熱はない。ただ、長い間握られてきた木の手触りだけがある。
だが、また客に呼ばれた。
「ロナ、林檎煮をもう一つ」
ロナは木匙から手を離した。
「はい。すぐ出します」
客席では、客が空いた椀を手前へ寄せていた。
指先には、木匙のくぼみがまだ残っていた。
ロナはその指を布で拭いた。
夜が近づくころ、最後の旅人が宿の前で足を止めた。
外套の裾に落ち葉がついている。
杖の先には、峠道の白い泥が乾いていた。
「泊まれるか」
ロナは宿帳の台を見た。
部屋はほとんど埋まっている。食堂も、秋市の客でいっぱいだった。
「広い部屋はありません」
「屋根があればいい。宿代は払う」
「名物膳は出せません」
「名物でなくていい。今ある飯でいい」
ロナは、下げた三皿を見た。
客へ出せなかった皿はある。
蜂蜜が回った茸。香草の強い汁。脂の重いパン。
けれど、それを旅人に出す気にはなれなかった。
旅人は作業台の皿を見なかった。
かまどの方へ顔を向けた。
「今から焼きます。少し待ってください」
旅人はうなずいた。
「小皿でよければ」
「それでいい」
リュカはそこから半歩も詰め寄らなかった。
外套の裾から落ち葉が一枚、床へ落ちる。
リュカは火と空いた椀を交互に見ていた。
ロナは、宿の主人の方を見た。
宿の主人は別の客の荷を預かっていて、こちらへは来られない。けれど、短くうなずいた。
宿の主人の顎が、かまどの方へ一度だけ動いた。
ロナの手が、空いた皿の縁へ戻った。
リュカの杖先には泥が残り、卓には空いた椀があった。
ロナの目は、椀の方で止まった。
秋市の客は、たいてい宿の献立板を見る。
焼き茸はあるか。山鳥はあるか。去年と同じ膳は出せるか。
そう聞いてから席へ座る。
リュカは献立板を見なかった。
杖の泥を床で落とし、空いた椀の方へ顔を向けている。
ロナは作業台に残った皿へ顔を向けた。
蜂蜜の乾いた縁。香草の沈んだ椀。脂の重いパン。
どれも新しい客へ出せず、ロナは皿を持ったまま立ち止まる。
ロナは火の前へ戻った。
戻る途中で、失敗した皿を一枚脇へ寄せた。
甘い茸の皿だ。縁に蜂蜜が乾きかけている。
その隣には、香草の汁椀がある。椀からは、冷めても青い匂いが立っていた。
匙はどちらにも入っていた。
けれど、匙の跡は、皿の底まで入っていない。
ロナは桶の水で手を洗った。
冷たい水だった。
火の前に戻る前に、指先だけが少し落ち着いた。




