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第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(8)

 夜、白匙亭は入口脇だけが明るかった。


 客は眠っている。

 寝ていない客も、眠っているふりをしている。

 春市の前夜は、荷も売値も頭の中でまだ起きている。


 ネリは宿帳を置いた台を一度空にした。

 朝に探し回ると困るものだけを戻した。


 水桶を運んだ分と、ミカの宿代を書いた木片。

 それから、ペルの椀。

 それから、魚屋へ払う銅貨を忘れないための木片。

 最後に、何も書いていない切れ端を三つ。

 炭の字は曲がっている。

 それでも、朝に銅貨をどこへ置くか、椀をどこへ戻すかは見える。


 魚屋の木片だけ、ネリはほかの木片の陰へ半分滑らせかけた。

 リュカは何も言わず、それを元の場所へ戻した。


「魚屋への支払いは、隠すな」


「隠してない。端に寄せただけ」


「朝になったら、端は見えない」


 ネリは口を曲げ、木片を台の真ん中へ戻した。


「朝いちばんに払う。ここなら忘れようがないでしょ」


「台の真ん中なら朝に見える」


 リュカは切れ端の角を少し削った。

 忙しい朝に手を切らないためだ。

 ネリは指先の削り屑を払い、別の切れ端も差し出した。


 削り屑が宿帳の方へ飛んだ。

 余白が、ほんの少し白くなる。


「それはごみ」


 ネリが先に言うと、白さはすぐ引いた。


「ごみって言えば止まるんだ」


「止まってもらわないと困る」


 台の上には、数は少ないのに、朝には多すぎる木片が並んでいた。


「こんなに置いたら、朝の私が怒りそう」


「怒っても、目には入る」


「それが悔しい」


 ネリはそう言いながら、魚屋の木片をまた見た。


 隠したいものほど、見える場所に置く。

 それだけで、置くまでに少し迷う。


 リュカは宿帳の背を見ていた。

 革表紙の綴じ目に、細い裂け目がある。

 古い修繕糸が切れ、その隙間から白い紙の端が見えていた。


 裂け目は、名を書く場所から余白へ向かっている。

 裂け目なら閉じられる。

 だが今閉じれば、ただ宿帳を黙らせるだけになる。


「あんたの術で、どうにかできないの」


 ネリは裂け目ではなく、リュカが宿帳に触るかどうかを見ていた。


「できる。だが今じゃない」


 だからこそ、リュカは宿帳に触れずにいた。

 鞄の口は閉じたままだった。

 銀の糸を出せば、宿帳だけはすぐ黙る。


「なら、今やって。朝まで待ったら、また誰かが止まる」


「今は閉じない」


「どうして今じゃだめなの」


「今閉じると、宿帳だけは黙る。お前はまだ、自分の口で客を送り出していない」


「私が言わないと、宿帳が代わりに書く。そこまでは分かる」


 ネリは悔しそうに言った。

 分かってしまった分だけ、余計に悔しそうだった。


 奥からガルが杖をついて出てきた。

 宿帳の前まで数歩だけで息が荒い。


「父さん、寝てて」


「寝てたら宿が聖堂になる」


「もうかなりなってる」


「なら、今夜のうちに宿へ戻す」


 ガルは台の前に座り、黒く古びた定規を一本出した。

 端に白い筋が残っている。


「これで名の終わりに横棒を引いていた」


 ネリはすぐには受け取らなかった。

 それを持つと、入口の台が本当に自分の仕事になる。


「私が使っていいの」


「お前が使わなきゃ、誰が使う」


「宿帳が勝手に使うかも」


「宿帳に手はない」


 ガルはそう言って、定規を台に置いた。

 ぱり、と宿帳が鳴る。

 三人ともそちらを見る。


 余白に、薄く字が浮かびかけていた。聖なる定規。

 ネリが反射的に定規を掴んだ。


「違う。これは宿の道具」


 ネリは低く言った。


「これは宿の道具」


 字は少し薄れた。


 リュカはうなずいた。


「今のを明日の朝にやる」


「今ので効いたの?」


「少しは効いた」


 ネリは定規を台の上へ置いた。

 今度は、宿帳の上ではなく、自分の手元に。


 それから、呼び方の練習を始めた。

 ネリが小さく言うたび、宿帳の余白がすぐ白くなる。


 聖なる小声。


「小声まで褒めなくていい」


 ネリが止めると、ガルが咳払いをした。


「それでは橋まで聞こえん」


「父さんには聞こえたでしょ」


「橋の向こうには聞こえん」


「橋まで言わない」


「朝は橋まで詰まる」


 ネリは嫌そうに息を吸い、もう一度声を出した。


「ボラン。水桶は運んだ。朝の膳を食べたら、橋の下の焚き火へ行く」


「ボランなら分かる」


「雑じゃない? 本人、忘れない?」


「荷が橋の下にあれば、そっちへ行く」


 ネリは次の名を見る。


「ミカ。宿代は半分払う。残りは半日、荷を運んでもらう」


「靴紐まで言わなくていいのか」


「自分の足だ。自分で結ぶ」


 ネリは少し笑い、すぐ真顔に戻った。

 ほかの名を呼ぶたび、ネリは定規の握り方に慣れていく。

 途中で、ミトが濡れた手のまま鍋蓋を鳴らした。

 三人が同時に見る。


「朝はこれを三回鳴らす」


 ミトは鍋蓋を少し持ち上げた。

 食堂の端にいた客まで顔を上げる。


「椀が戻った時、洗い場が詰まった時、棚が空いた時」


 ミトは鍋蓋を下ろし、台の方を見た。

 ネリは固まった。


「厨房から見るの?」


「こっちで椀を洗うんだから、こっちから見えないと困る」


 ミトに言われて、ネリは厨房側へ回った。

 そこから見ると、ペルの椀だけが宿帳の影に隠れている。


「……厨房からだと見えない」


「明日の朝は、もっと隠れる」


 ミトは、もう一度鍋蓋を鳴らした。


「椀が三つ重なっても見える場所に置いて」


 ネリはペルの椀を、厨房から見える端へ動かした。

 その横に、炭で三つだけ書く。

 返す椀。

 洗う椀。

 棚へ戻す椀。


 ミトは満足そうにうなずいた。


「今までどうしてたの」


「怒鳴ってた」


「今まで見てなかった。ごめん」


「明日の朝、こっちから見えるならいい」


 ミトは責めず、ネリの冷えた椀を見た。


「あんたの椀は?」


「私の椀まで置くの?」


「また冷やすなら、こっちで食べる」


「勝手に食べられたら困る」


「なら置き場を作りな」


 ネリは言い返しかけ、口を閉じた。

 小さな切れ端に、炭で短く書く。


 ネリの椀。


「私の名前まで書くの」


「昨日も冷やしてた」


 ミトはそれだけ言って、厨房へ戻った。


 台の上には、不格好な木片が並んだ。

 どれも小さい。

 ネリが魚屋の木片を手前へ出すと、朝いちばんに払う銅貨の置き場が決まった。

 ネリの椀を厨房寄りへ置くと、ミトが無言でうなずいた。


「これ、朝に全部覚えられるかな」


 ネリの声には、少し不安が混じっていた。

 リュカは木片を少し寄せた。

 魚屋の木片を、客が出ていく側からも見える手前へ置く。


「覚えるんじゃなくて、見る」


 ネリは木片を一つずつ見た。


「覚えなくていいなら、少し楽かも」


「置いておけば、朝に迷わない」


 リュカはそこで、切れ端を一つ裏返した。


「でも、字に任せるな」


「木片だけで済むなら、ずっと楽だった」


「木片を置いても、客に『帰って』とは言ってくれない」


「私が言わなければ、宿帳が勝手に書く?」


「お前の代わりに、宿帳が書く」


 ネリは裏返された切れ端を見た。

 裏返した切れ端は、ただの木に戻った。


「決めるのは私」


「そうだ。決めるのはお前だ」


 夜明け前、宿帳の余白が白く光った。


 強い光ではない。

 昨夜、誰かが口にした褒め言葉が、宿帳の紙に残っていた。

 台の下の箱で、はがした紙がかさりと鳴る。


 白さの中に、いくつかの字が浮かびかけた。


 聖ボラン、橋の下へ荷を運んだ客。


 聖ミカ、靴紐をほどかなかった客。

 聖なる鍋蓋、夜に三度鳴った蓋。


 ミトが、鍋蓋を胸に抱えた。


「やめて。明日の朝、鳴らせなくなる」


 宿帳はなお光り、別の字を浮かべた。

 聖なるネリの椀、冷めても待った椀。


「待たせたのは私」


 ネリが言った。


 寝ているふりをしていた客が、奥で半分だけ起き上がる。

 手を合わせかけて、ガルに睨まれ、布団へ戻った。


 最後に、余白の下の方で大きな字が浮かびかけた。


 聖ネリ、客を送り出す宿番。


 ネリは定規を持ったまま、動けなくなった。

 褒め言葉に見える。

 その字を残せば、朝、客に「帰って」と言う前に、宿帳が客を送り出してくれる。

 宿帳が勝手に書いたと言えば、ネリは責められずに済む。


 ネリは一度、そのままで、と言いかけた。


 だが、それを残せば、また宿帳の前から動けなくなる。

 客はネリを拝み、椀は冷める。

 朝の客へ「帰って」とも言えなくなる。


 台の端では、ネリの椀と書いた木片が残っていた。

 誰も代わりに食べてくれない。


「その字は書くな」


 ネリは息を整えきれないまま言った。

 それでも、宿帳から目をそらさなかった。


 字はまだ消えなかった。

 リュカは何もしない。

 リュカが今消せば、朝にネリが引く横棒ではなくなる。


 ネリは定規を握った。


「明日の朝、この字に横棒を引く。私が自分で引く」


「ああ。横で待つ」


「怖くなって、やめそうになったら」


「俺が横で待つ。引けるまで待つ」


「それは命令なの?」


「違う。泊めてもらった分、明日の朝まで付き合うだけだ」


 ネリは小さく息を吐いた。

 ネリはリュカを見て、定規を少し下げた。


「じゃあ、逃げない」


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