第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(7)
聖なる卓は、拭けばただの卓に戻った。
濡れ布で拭いた指には、もう油のべたつきしか残らない。
巡礼団はまだ、拭かれた卓をありがたそうに見ていた。
ネリはそれを無視して、濡れ布を桶へ投げた。
「次の人、入口で名を書いて」
ネリは客を呼ぶ声なら出せる。
だが、「帰って」と言おうとすると、一拍遅れる。
夕方になると、谷は急に冷えた。
春市の客は増え続ける。
白匙亭の前にも、泊まりたい客が並んだ。
灯りが入ると、宿は昼とは別の場所になる。
夜は顔より、足音と荷の重さが先に来る。
疲れた人間ほど、入口で少しだけ黙る。
ネリはその黙りすべてに返事をしようとしていた。
返事が遅れると、宿帳が先に余白を白くする。
白くなった余白は、すぐほめ言葉になる。
ネリの指先には、昼から書き続けた炭が黒く残っていた。
宿代を払える商人、足を痛めた巡礼者、魚桶を預けたい男。
母親とはぐれた子ども。
ネリは客の名の横に、短く書いていった。
宿代、手伝い、施し、預かり。
用件を書けば、次に誰へ声をかけるか少し決めやすくなる。
それでも、「帰って」と言う時の気まずさまでは消えない。
最後に来たのは、年寄りの巡礼者だった。
背負い袋は軽い。
靴は濡れている。
右手には、折れた杖を持っていた。
「一晩だけ、床の隅でいい」
老人は言った。
ネリは客室札を見た。
札はもうなく、長椅子も埋まっている。
床の隅には、リュカの寝る場所として古い布が一枚置かれている。
握った札の角が、ネリの指の腹へ食い込んでいた。
「修道院の施し部屋なら、空いているはずだ」
「坂を上るのがつらい」
老人は、痛い時の下手な笑い方をした。
ネリは客室札を握ったまま、すぐには返事をしなかった。
入口の外で、魚屋の桶が揺れた。
銀色の背が、浅い水の中で細く光る。
「水だけ替えたい」
「少し待って」
ネリは老人から目を離せなかった。
一匹が腹を見せかけ、魚屋が息を詰めた。
「魚が待てない」
魚屋の声は小さいのに、入口の全員が聞いた。
水を替えなければ魚が傷み、老人を歩かせれば足がひどくなる。
どちらも、見なかったことにはできない。
リュカは横から口を出さなかった。
ここで口を出せば、楽になる。
楽になると、またネリ自身が決めたことではなくなる。
細い棒を握った指だけが一度動き、すぐ外套の陰へ戻った。
ネリは宿帳を見た。
宿帳は白い。
泊める枠はもうない。
だが、ページの下にはまだ余白がある。
客が困るたび、その白いところが光る。
寝床も荷置き場も決めないまま、余白にありがたい名前だけを足していく。
「……奥の床なら、一晩だけ空けられる」
ネリが言った。
言ったあとで、ネリは自分の足元を見た。
そこにはもう、誰かを寝かせられる乾いた場所はなかった。
「ネリ、少し待て」
奥からガルが声をかけたが、ネリは振り向かない。
「一晩だけだから。朝には上へ送る」
「お前が寝る場所は?」
「厨房で寝る」
「厨房は火番がいる」
「じゃあ入口のそば」
「入口のそばで寝たら朝に倒れる」
「朝までは立っていられる」
昼にリュカが言った「まだ倒れない」と似ていた。
ただし、ネリは本当に倒れそうだった。
老人は困ったように杖を握った。
「無理なら、外で待つ」
「無理じゃない」
ネリは言い切った。
その瞬間、宿帳がぱりと鳴った。
白い余白に、太い文字がにじむ。
聖ネリ、休みを後回しにした宿番。
宿の中が静かになった。
誰かが、ほう、と息を漏らす。
やめろ、とリュカは思った。
そういう息が、いちばん宿の仕事を止める。
ネリは宿帳を見た。
自分の名が、名を書く場所ではなく余白にある。
客ではない。
宿番でもない。
聖人にされている。
「……これでいいじゃない」
ネリは小さく言った。
「よくない。宿帳にお前まで飾られる」
リュカは答えた。
「一晩くらい」
リュカは答えず、入口の床を見た。
魚桶から落ちた水が、老人の靴先へ伸びていた。
老人は水を避けようとして、痛めた足へ重さをかける。
ネリも見た。
客室札はない。
床もない。
けれど、水場への道と橋の下の焚き火は空いている。
肩を貸してくれる人なら、まだ見つかる。
ネリは唇を噛み、宿帳から顔を上げた。
「泊まりじゃない」
老人は杖を握り直した。
魚桶の水が、入口の溝を細く流れていく。
「追い返すんじゃない。今は足を冷やして、それから肩を借りて上がってもらう」
ネリは客室札ではなく、手伝いと書いたところを指で叩いた。
「荷だけ先に修道院の施し部屋へ。本人は水場で足を冷やす」
ネリは橋の下を指した。
「そのあと橋の下の焚き火で待つ。上がる時は、肩を借りる」
老人は少し迷い、靴を脱いだ。
足首は赤いが、歩けないほどではない。
寝台を空けなくても、上まで肩を貸せる人はいる。
ネリは水桶を運んでいたボランを見た。
「ボラン、こっちに来て」
ボランが水桶を落としかけた。
「俺が持つのか?」
「水桶を置いて。老人の荷を持って」
「俺、聖人なのに荷物持ちか?」
「深き眠りを守ったんでしょ。今度は足を守って」
宿の中で、少し笑いが起きた。
ありがたさではない。
ようやく動ける笑いだ。
ボランは嫌そうに老人の荷を持った。
「聖人扱いより重い」
「人間だからね」
入口の魚屋が、桶を少し持ち上げた。
水の中で、銀色の背が一つ横を向いている。
「一尾、だめかもしれない」
魚屋は怒鳴らなかった。
怒鳴らない声の方が、ネリにはきつかった。
「水替えを後回しにした。悪かった」
ネリが言った。
「水場は右。だめになった分は、白匙亭で買う。私が止めた」
「それで本当にいいのか」
「よくないから買うの」
魚屋は返事の代わりに眉を上げ、それから桶を抱えて水場へ向かった。
ネリはその背中を見送った。
寝床を一つ空けるたび、別の誰かが桶を抱えて入口で待つ。
ネリは宿帳の余白を見た。
聖ネリの文字は、まだ残っている。
ただ、さっきより少し薄い。
誰かが手を合わせかけた。
ネリはその客を見た。
魚屋は桶を抱えたまま止まり、老人も杖を握ったまま動かない。
床を空けようとしていた客まで、手を止めかけている。
「拝まないで。みんな動けなくなる」
その客は慌てて腕を下ろした。
「私、間違えた?」
「老人だけを見て、床を空けようとした」
「だめだった?」
「その間に魚屋を待たせた」
ネリは水の筋を見た。
「椀も戻らなくなる」
ネリは唇を噛んだ。
帰って。荷を受け取って。休んで。明日の朝に出て。
どれも客を送り出す言葉だった。
冷たい言葉ではなくても、口に出すには喉につかえた。
その夜、ネリは自分の飯を食べ損ねた。
鍋の底の粥は、椀へよそった時にはもう冷えていた。
リュカは何も言わず、ただ椀を火の近くへ寄せた。
ネリはそれを見た。
「余計なこと」
「火のそばに置いただけだ」
「火のそばに寄せたのは分かってる」
「知っているうちに食べろ。冷えきったら、また後回しにする」
「今はまだ、客が呼ぶ」
「無理を減らす話をしてる」
ネリは返事をせず、冷えた粥の椀を見た。
客の名だけでなく、ネリの名にも終わりの横棒がいる。
少しして、ガルが奥から声を出した。
「ネリ、その椀を持て」
「今度は何を言うの」
「その椀、俺が食うぞ」
「それはだめ」
「なら、ひと口だけでも食え」
「そう言われると、ずるい」
「宿番はずるくないと続かん」
ネリは椀を持った。
冷えた粥を一口だけ食べる。
眉を寄せた。
「冷えて、まずい」
「冷えたからな」
リュカが言う。
「冷えたのは知ってる」
その一口だけで、体がすぐ楽になるわけではない。
それでも、ネリが自分の椀から粥をすくっても、紙は増えなかった。
入口では、老人を送ったボランが戻ってきた。
肩に汗をかいている。
聖人というより、ただの疲れた男だった。
その後ろから、修道院の少年が小さな籠を持ってきた。
中には乾いた布と、石鹸と、少し欠けた木椀が入っている。
「施し部屋から」
少年は籠を差し出した。
「足りない分、こっちで回せって」
「それは助かる」
ネリが受け取ると、少年は少し身構えた。
「今の、書かれないよね」
「書かせない」
「よかった。僕まで聖なる使い走りになったら、兄弟子に笑われる」
ボランが噴き出した。
「施し部屋、空いてた」
「ありがとう」
ネリが言うと、ボランは目をそらした。
「礼だけで終わると、また余白に何か書かれそうで嫌だ」
「終わらせない。老人を送った分は、あんたの仕事として書く」
ネリは即答した。
その即答に、ボランは少しだけ笑った。
「じゃあ、水を飲んでいいか。普通のでいい」
「普通の水なら出せる」
「普通の水で助かる」
普通の水。
普通の礼。
普通の疲れ。
ネリは老人を送ったと書いた横へ、短い横棒を引いた。
ボランは水を飲み、長椅子へ戻らず入口へ向かった。




