第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(6)
昼前、白匙亭の入口で長椅子が床を鳴らした。
ネリは抱えていた椀をミトへ渡し、両手を空けた。
椀の底には、麦粥の白い膜が少し残っている。
ミトはそれを受け取ると、洗い場へ振り返りもせずに置いた。
次の椀が来る前に置き場を作らなければならない。
長椅子を壁際へ動かすだけで、三人が文句を言った。
座る場所が消え、荷袋が足に当たる。
ネリはその三人をまとめて睨んだ。
長椅子の端を叩き、次に奥の壁際を指す。
「待つ人はここ。寝る人は奥。荷は足元に置かない」
言いながら、厨房の前へ低い棚を出す。
棚の脚が床の水を引き、細い跡を作った。
棚の上には、炭で短く書いた。
食べた椀はここ。
ペルがさっそく空の椀を置いた。
椀の底が棚へ触れて、こつん、と軽く鳴る。
置いてから、手を合わせかける。
「手は合わせないで。椀を戻すだけでいい」
「つい、手が動いたんだよ」
「その『つい』で椀が返らなくなるの」
その横に、荷を置くための板を一枚出した。
パン籠を置きかけた商人は、ネリに睨まれて奥の卓へ戻した。
空いた板に、後ろの男が荷袋を置く。
文句より先に道が空いた。
入口の湿った風が、やっと宿の中へ入ってきた。
ネリはガルの木札を三枚、台の手前に並べた。
宿代、手伝い、修道院へ知らせる。
置いたそばから、ペルの肘が当たった。
札が宿代の札へ重なる。
「ペル、肘が当たってる」
「ごめん、見てなかった」
ネリは札を戻し、今度は少し離して置いた。
そこへ別の商人が、銅貨を違う札の下へ滑らせる。
ネリは銅貨を指で止め、「宿代」の下を叩いた。
「泊まるなら、こっち」
商人は渋々、銅貨を移した。
ボランは水桶を持たされ、ミカは他人の靴紐を見ようとして怒られた。
ペルは椀を返した。
厨房の女たちが軽く拍手したので、本人は耳まで赤くなった。
「拍手まではしなくていい」
ネリが言う。
「椀を返しただけです」
「その、だけ、が昨日まで返らなかったんだよ」
ネリは何か言いかけ、やめた。
代わりに、空いた椀棚を見た。
棚の上には、まだ水の丸い跡だけが残っている。
余白は白いままだった。
ネリはそれを見て、すぐ調子に乗りかけた。
入口の客を一度全員立たせようとして、半分だけでやめた。
「待つ人は座る。寝る人は奥。荷だけの人は板へ置いて」
言ってから、ネリは自分の声に少しだけ驚いた。
怒鳴らなくても、客は少し動いた。
文句は出たが、足は入口から離れた。
椀の音と荷袋の擦れる音が、別々の方へ分かれていく。
「少しは効いてる?」
ネリが小声で聞く。
「昨日よりは動いた」
「まだ動かない客もいる」
「最初はそんなものだ」
昼過ぎ、本当の混雑が来た。
修道院から戻ってきた巡礼団が、白匙亭へ一気に流れ込んだ。
十二人ほど。そのうち二人はまだ宿帳に名が残っている。
濡れた外套の匂いと、魚桶の水の匂いと、麦粥の湯気が入口でぶつかった。
ネリは入口で手を上げた。
「泊まる人は、入口脇へ一人ずつ」
「食べるだけの人は奥。椀は、食べたら棚に戻して」
「聖ボランさまは?」
誰かが言った。
「水桶を運んでる」
ネリは即答した。
ボランは水桶を持ったまま、少し誇らしげだった。
その時、入口の外で荷車が止まった。
水桶を持ったボランが、道の真ん中で胸を張っている。
後ろの女が空の鍋を抱え、通れずにいる。
「ボラン、道を空けて」
「はい、どっちへ寄ればいい」
「道の真ん中に立たない」
「邪魔ですか」
「鍋が通れない。水桶を持つなら端へ寄って」
ボランは慌てて半歩退いた。
女が鍋を抱え直し、厨房へ入る。
巡礼団の一人が宿帳をのぞき、聖人と同じ卓で食べたいと言った。
「空いた卓から座ってください。椀は洗ってあるものを使って」
巡礼者は不満そうだったが、奥の卓へ座った。
そこへミトが小声で言った。
「ネリ、鍋の底」
鍋の火が強すぎる。
麦粥の底が重くなっていた。
春菜の青い匂いの奥に、焦げる前の甘い匂いが混じる。
ネリは息を詰めた。
入口を離れれば入口が詰まり、残れば鍋が焦げる。
リュカは鐘を見た。
紙はもう剥がしてある。
ミトも鐘を見た。
すぐ鍋へ戻りたいのに、鳴らしていいか分からず立ち尽くしている。
ネリはその視線に気づいた。
「……鐘を鳴らしてもいい?」
「鳴るなら、使え」
「父さん、あの鐘を嫌がってた」
「どうして嫌がった」
「入口を一人で見られないって、厨房にばれるから」
奥からガルが声をかけた。
「足りないなら鳴らせ。今は俺の見栄より鍋だ」
ネリは迷った。
それから鐘を鳴らした。
鐘が低く鳴り、ミトが鍋へ戻った。
木べらが鍋底をこすり、重い音が一度だけした。
ぱり、という音はしなかった。
ネリは鐘を見た。
「鳴らしてよかった」
「鍋が焦げずに済んだ」
「鐘を鳴らすだけで済んだのが悔しい」
湯気はまだ苦くなっていない。
宿帳の余白では、白い光が字になる前に弱まった。
ネリが巡礼者の名の横へ手伝いと書くと、巡礼者は不満そうに袖をまくった。
宿帳は何も褒めなかった。
「今の人、自分で袖をまくった」
ネリが言うと、リュカは奥の卓を見た。
ネリも同じ方を見て、肩を落とした。
「やめて。まだ一件残ってる、って言いたいんでしょ」
「言ってない」
リュカは、まだ奥の卓を見ていた。
「顔に出てる」
「まだ言ってない」
その時、奥の卓で声が上がった。
巡礼団の一人が、春菜の麦粥をこぼしていた。
青い粥が卓の溝を伝い、端から糸のように垂れる。
布巾へ手を伸ばした客がためらい、別の客が手を合わせた。
「何してるの」
ネリが駆け寄る。
「聖ペルさまの椀と同じ鍋から出た粥だ」
「こぼれた粥を拭いて」
「粗末にしていいのか」
「こぼれた粥は床に置いておく方が粗末」
「でも、宿帳には聖なる卓って書いてあるぞ」
宿帳が、ぱり、と鳴り、余白に白い光が走った。
聖なる卓。春菜の粥を受けた卓。
床へ落ちた粥のところにも、白い字が伸びる。
「忘れていい」
ネリが怒鳴る間にも、白い字は増えた。
布巾の端に、聖なる布巾、麦粒を迎えた布、と字が浮いた。
「布巾までやめて」
卓の全員が固まった。
布を持つ手も、匙を持つ手も、椀を持つ手も、半端な高さで止まる。
ネリは布を握ったまま、一瞬声を失った。
ミトが替えの鍋を抱えてきたが、布を持った客が通り道をふさいでいた。
湯気が腕に当たり、別の客の椀が揺れる。
鍋の縁からこぼれた湯が、ミトの袖を濡らした。
ネリは布をつかみ直した。
しかし、卓の前で踏み出せなくなった。
粥は卓の端から床へ落ちた。
それでも、誰も最初のひと拭きをしない。
巡礼団の一人が、布を持ったままそっと聞いた。
「本当に、拭いていいのか」
「拭いていい」
「聖なる卓なのに?」
「宿の卓です」
「でも、宿帳に聖なる卓って書いてある」
「宿帳は布巾を持ちません」
奥の客までネリを見た。
宿帳を見ている間、粥は床で冷める。
ミトが小さく笑う。
その笑いで、巡礼団の肩から少し力が抜けた。
ネリは布を奪わなかった。
布の端を、客の手ごと卓へ下ろす。
「布、持ってるでしょ」
巡礼者は自分の手を見た。
「俺が拭くのか?」
「宿帳じゃなくて、あなたが拭くの」
巡礼者は布を卓に当てた。
粥の筋が、少しだけ薄くなる。
リュカは何も言わなかった。
ネリは床へ落ちた粥を見て、一度だけ目を閉じた。
次に開いた時には、怒っていた。
「こぼしたものは拭く」
そう言って、聖なる卓を拭いた。
粥の筋が切れると、ミトが鍋を置いた。
若い巡礼者が椀を退ける。
布を持った客も、遅れて卓を拭いた。
拭いた場所には、春菜の小さな欠片だけが残った。
リュカはそれを見て、台の鐘を少しだけ奥へ寄せた。
「そこ、鳴らしにくくない?」
ネリが聞く。
「鳴る。厨房には届く」
「でも、宿帳の紙は貼りにくい」
「貼りにくいなら、なおいい」
そのあとも、鐘は二度鳴った。
入口の客は自分から半歩下がった。
紙は増えなかった。
その代わり、客の方が落ち着かなかった。
ミカは胸元を何度も見た。
紙がないせいで、何を済ませたのか自分でも確かめられない。
「ミカ、こっちに来て」
ネリが呼んだ。
「荷袋を二つ、橋の下へ運んでくれる?」
「俺が運ぶのか?」
「靴紐を結べるなら、その手で運べるでしょ」
ミカは少しだけ笑った。
「それ、またほめ言葉なのか?」
「ただの仕事。橋の下に荷を置いたら終わり」
「ただの仕事か」
ミカは荷袋を持った。
「紙がないと不安そう」
ネリが言った。
リュカは、荷袋を持って歩くミカを見送った。
「不安でも、荷は持てた」
ネリは鐘を見た。
「鐘が鳴らない時は?」
「自分で見る」
「見たなら、次は鳴らせる」
「宿帳みたいに勝手に褒めないのは助かる」
「褒められたいのか」
「宿帳に褒められるのは嫌」
ネリは濡れ布を桶へ落とした。
桶のふちで水が跳ね、ミカの荷袋が入口を出ていく。
誰も、水桶にも荷袋にも紙を貼らなかった。
水の音だけが残り、宿帳は黙っている。
「次の人、入口で名を書いて」
奥の卓にいた客も顔を上げた。




