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第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(5)

 ガルは白匙亭の奥にいた。


 奥といっても、小さな寝台と低い作業台、水差しがあるだけの部屋だ。

 細い窓から、春市の音が少し遅れて入ってくる。


 ガルの右足は膝から下を厚い布で巻かれていた。

 頬はこけていた。

 だがガルは、入口から聞こえる足音だけで客数を数えていた。

 椀の戻る速さで、厨房の詰まりも知っている。


「旅人に宿帳を見せたのか」


 ガルが言う。


「見られたの」


 ネリが答える。


「客のせいにするな。見える場所に置いたなら、こっちの落ち度だ」


「父さん、そこまで言うの」


「見せるものと隠すものを分けていない」


 ネリは言い返そうとして、やめた。

 たぶん、言い返すだけの体力が残っていなかった。


 リュカは低い椅子に座らず、部屋の壁際に立った。

 ガルはそれを見て、鼻で笑った。


「座れ。聖人さま」


「その呼び方はやめろ」


「宿帳が書いたなら仕方ない」


「仕方なくない」


「仕方なくない、か」


 ガルは少しだけ嬉しそうにした。


 部屋の棚には、古い木札が束ねてあった。

 宿代、手伝い、施しへ回す、修道院へ知らせる。

 ガルは寝台から迷わずその束へ手を伸ばした。


「宿帳に残っていた横棒のことを聞きたい」


 そう言われて、ガルは宿帳の方を見た。


「あれは追い出す印じゃない」


 ガルは作業台の上の細い木片を取った。

 手元にあった古い帳面を開き、薄く残った客の名を指で押さえる。


「名を書いて、膳を出す。朝、荷を返したら、ここに横棒を引く」


 ガルは名の終わりに、木片で短い横棒を引いて見せた。


「そこで、客は荷を持って外へ出る。宿はそれ以上、引き止めない」


 ネリが口を挟んだ。


「でも、それって帰れってことでしょ」


「『出ていけ』とは違う」


「同じじゃない」


「出ていけとは違う」


 ガルは穏やかに言った。

 それでも、ネリは口を結んだ。


「泊めるだけなら、優しくは言える」


「分かってる。寒い日に追い出せないから、こうなってるの」


 ガルは長椅子を杖で示した。


「だから、追い出すな。分けろ」


「どうやって」


「今いる客を見ろ」


 ガルは木札を束のまま、ネリの前へ押した。

 ネリは嫌そうに束を見た。

 それでも、木札へ手を伸ばした。


「寝ている男」


「ボラン。今夜は長椅子。朝は水桶を運んでもらう」


 ネリは札を一枚取った。


「靴紐の男はどうする」


「ミカ。宿代は半分もらって、残りは荷運び」


「椀を抱えてる若いのはどうする」


「ペル。椀を返してもらって、宿代ももらう」


「熱のある巡礼者」


 そこでネリは止まった。

 ネリは奥の長椅子を一瞬見た。


「……宿では抱えない。修道院へ知らせる」


 最後の言葉だけ、ネリは少し遅れて言った。

 ガルはうなずき、その札を一番上に置いた。


「今は、その札を使っていないのか」


 リュカに聞かれて、ガルは口を引き結んだ。


「俺が倒れてから、春市が二度来た」


「濡れた巡礼者に寝床をやったら、宿帳が礼の言葉を書いた」


「宿帳が勝手に?」


「ああ。最初は、名の横に礼の言葉が一行増えるくらいだった」


 ネリの眉が寄る。


「それが、どうして聖人の紙になるの」


「礼だけ残したからだ」


 ガルは皿洗いと書かれた木札を、宿代の木札の横へ表向きで置いた。


「木札を出していれば、客は皿を洗い、水桶を運ぶ。熱があるなら修道院へ回す」


 ガルは二枚の木札を爪でそろえた。


「皿洗いか水桶か、修道院へ回す道があれば、客は客のまま動く」


 ネリは木札と宿帳を見比べた。


「俺は、その木札を出さなかった」


 ガルは宿帳の余白を指した。


「皿洗いの木札も水桶の木札も出さず、修道院へ回す道も示さず、宿帳には礼の言葉だけ残った」


「礼だけになると、宿帳は客をほめる。ほめ言葉が増えると、聖人の紙になる」


 宿帳の余白は、台の上で白いままだった。

 ネリは表向きに置かれた木札を見ていた。


「昔は、受けきれない時の言い方があった」


「何て言ってたの」


 ネリが聞く。


「『今夜はもう泊められません』だ」


 ガルは指を橋の方へ向けた。


「泊められない客は?」


「修道院へ回す。荷は橋の下。熱のある人は先に知らせる」


 ガルは水桶の木札を押した。


「宿代が足りない人には、朝の水桶を運んでもらう」


「それ、冷たくない?」


「水は冷たい」


「そういう意味じゃない」


「分かってる。だが、何も決めずに泊めれば、次の客の寝床がなくなる」


「断ることになっても?」


「三人寝かせて、四人目を入口に立たせる方が冷たい」


 ネリは椅子の端を見た。


「この椅子は、四人分には伸びん」


 二人とも、客を追い出したいわけではない。

 だから二人とも、「帰って」と言う前に黙ってしまう。

 リュカは、客の名の右側に空いた細い枠を思い出した。


「名の終わりに横棒がない行だけ、余白に字が増えている」


 ガルが目を細める。


「横棒を引かないから、宿帳が勝手に客を褒めるのか」


 リュカはうなずいた。


「俺にはそう見える。違うなら、今のうちに直してくれ」


 そこへネリが口を挟んだ。


「そう。勝手に増えるのが腹立つ」


 ネリは腕を組んだまま、宿帳を見下ろした。


「ほめ言葉なんかいらない。名前だけでいい」


 ガルが宿帳を指した。


「なら、帰る時は名の終わりに横棒だけ引け」


 ネリは言い返しかけて、口を閉じた。

 外では春市の客の声が増え、厨房からも椀を返してくれと怒鳴る声がした。


 今日はもう泊められません。


 その言葉だけが、この宿では一番言いにくい。


 リュカは低い作業台の黒い定規を見た。

 片側だけが白く擦れている。

 何度も紙へ当てた跡だ。


「なぜ定規を渡さなかった」


 リュカに聞かれて、ガルは一瞬だけ目を伏せた。


「渡せば、俺はあの台に戻れないと認めることになる」


 ネリが顔を上げた。


「それが嫌で、隠してたの」


「嫌だった。あの台は俺の場所だった。お前がそこに立てば、俺の仕事が終わったみたいに見える」


「今は私が立ってる。でも、父さんの場所を取ったつもりはない」


 ガルは定規を見た。

 白く擦れた片側に、親指を一度だけ置く。

 ガルは親指の腹で、同じ場所をもう一度こすった。


「分かっていた。分かっていて、棚の奥へ押し込んだ」


 ガルは笑おうとしたが、口の端が少し動いただけだった。


「お前だけじゃない。俺も、客の名に横棒を引かなかった」


 ネリは何も言えなかった。

 ガルは木札の束をネリの方へ押した。


「今さら渡して、使えって言うの」


 ネリは束を受け取れなかった。

 札の端に指先を触れたまま、動けなかった。


「今さらだ。遅すぎるな」


 ガルはそう言って、木札の束をもう少しだけ押した。


「だから怒っていい。怒ったまま持て」


 ネリは木札を睨んだ。

 ネリは、どうして、と言いかけた。

 ネリは言葉を飲み込んだ。

 それでも、木札を見たままだった。


「何で、わざわざ怒らせるの」


「俺に遠慮していると、横棒は引けん」


 ネリは木札を見た。

 用件だけの字ばかりだ。


「父さんの字、雑ね」


「読めればいい。お前もそう言うだろう」


「それ、私の台詞」


「親子だからな」


 ネリは嫌そうに木札を受け取った。


「去年、商人を一人泊めただろ」


 ガルが言った。

 ネリは木札を受け取った姿勢のまま、ガルを見た。


「今その話する?」


「今する話だ」


 ガルは木札の一枚を指で押した。

 去年の日付と商人の名が残っている。


「宿代を持っていないと言った。だが朝には売り物の荷を二つ持って市へ出た」


 ネリはすぐ返さなかった。

 木札の端を爪で押したまま、去年の日付を見ていた。


「本当に困ってると思ったの」


「困っていたのは本当だ。だが払えないわけじゃなかった」


「そういうの、どう分ければいいの」


「全部は分からん。俺も間違える」


 ガルは短く認めた。

 リュカは帳面の空いた場所を指し、指先で小さく『荷』と書く真似をした。


「嘘を見抜くためじゃない。後で見返すためだ」


 ネリは木札を握った。

 騙した商人より、信じてしまった自分に腹を立てていた。


「信じたことまで宿帳に取られるな」


 ガルは低く言った。


「お前が信じたなら、お前の字で残せ」


「私が横棒を引いたら、本当にこの宿から追い出すみたいに見える」


 ネリは低く言った。

 ネリは木札を握りしめた。


「追い出すんじゃない」


 リュカは答えた。


「朝になった客が、自分の足で出られるようにする」


「父さんと同じことを言われると嫌になる」


「二人とも言うなら、横棒は要るんだろう」


「分かるから、余計に腹が立つ」


 ネリは目を伏せた。

 それから、低い作業台の上に置かれた木片を見た。


「朝になったら、客に『帰って』って言うの」


 ネリは木片を親指で押さえた。


「その一言が、一番言いにくいの」


 その言葉だけは、宿帳にも写らなかった。


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