第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(4)
白匙亭の裏は、入口より正直だった。
水桶。
薪。
欠けた椀。
割れた椅子の脚。
それから、春市のあいだだけ増える荷を置くための低い棚。
水桶の周りの土は踏み固められ、薪の端には魚の水が少し跳ねていた。
棚の上には、若い豆の籠が二つ並んでいた。
さっき橋で止まっていた籠だ。
ネリが預かり札を結ぶと、商人たちは渋々引いた。
日陰に入った豆は、橋の上より青く見えた。
「今ので分かったでしょ」
ネリは棚に指を置いたまま言った。
指先はまだ濡れた札を押さえている。
「商人たちの動きは見た」
商人たちは不満そうに橋へ戻った。
それでも籠は棚に残り、誰も拝まない。
「ああいうのが一日に何回もあるの」
「よく宿が回ってるな」
「回ってない。私が走って、父さんが怒鳴って、鍋が焦げる前に何とかしてただけ」
「それは、回っているとは言わない」
「正確に言い直さないで。今は慰めて」
ネリは口を曲げた。
「そこまで正確だと、腹が立つ」
ネリは棚の端を指で叩いた。
板は水を吸って反り、釘の周りだけ黒い。
端には同じ幅の溝が三本並んでいた。
「これも昔から?」
リュカが聞く。
「知らない。私が覚えてる頃には、もう荷置きだった」
「荷置きにしては溝が多い」
「棚のこの溝のこと?」
リュカは指先で溝をなぞった。
奥の溝には、古い紐の切れ端が挟まっていた。
その時、棚の上の豆籠が少し手前へ滑った。
濡れた底が板をこすり、青い豆が二つ跳ねる。
「ちょっと、籠が滑ってる」
ネリが慌てて籠を押さえる。
籠の底は手前の溝で一度止まり、押すと真ん中の溝まで滑った。
奥の紐の切れ端は、籠の取っ手にちょうど届いた。
ネリは豆籠を見下ろした。
「……ただ置く棚じゃなかったんだ」
「たぶん、荷を一度置いて、昼まで預かって、返す棚だ」
「今、籠に叱られたみたいで悔しい」
ネリは眉を寄せた。
だが、棚の溝を見たままだった。
二人は修道院坂を上がった。
坂の途中には古い石段が残り、坂の上には春の庭と呼ばれる空き地があった。
旧世界の建物の跡で、透明な板の破片が土に半分埋まっている。
踏むと危ないので、修道院の子どもたちは石の上だけを歩く。
庭の端では、巡礼者が花を摘もうとして修道士に止められていた。
「見るだけです。花を見る方は、この石の上でお願いします」
修道士は冗談めかして言い、庭の脇の板を指した。
ガラスの欠片を踏まない道が白い線で描いてある。
「摘みたい人は、昼の草むしりをお願いします」
巡礼者は不満そうに袖をまくった。
それでも花からは手を引いた。
花は摘めない。
だが、草を抜く場所はある。
巡礼者は二、三度花を見てから、庭の端へ移った。
「修道院が原因だって言う人もいる」
ネリが言う。
「まだ決めない」
「何を見てるの」
「花を摘めなかった人が、草を抜きに行った」
「追い返されたんじゃないんだ」
「行き場があった。宿では、止められた客が入口に残る。食堂へ行く人まで、入口で止まる」
花は風に揺れるだけで、誰の名も呼ばなかった。
修道院の食堂は、庭の向こうにあった。
昼前なのに騒がしい。
薄い粥を出す長卓、豆を洗う桶、川魚を包む布。
山羊チーズを切る小さな板。
粥の湯気には豆の青さが混じり、切ったチーズの塩気が板の上に残っている。
食べ終えた巡礼者が、椀を持って長卓の端で止まっている。
若い修道士が、白い溝のある棚を指した。
「奥へお願いします」
巡礼者が椀を置く。
修道士は椀を洗い場へ滑らせ、壁の釘から札を一枚外した。
「椀はここで受け取ります」
札が別の紐へ移る。
豆を洗っていた男は、何も聞かずに次の桶を寄せる。
山羊チーズの包みを持った少年には、板と籠を指す。
「包みは板へ。布は籠へお願いします」
次の巡礼者が汚れた布を板へ置きかけても、修道士はすぐ止めた。
「布はこちらです。私の袖はあとで洗います」
袖についた粥を見て笑うと、修道士は布を籠へ戻し、椀を奥へ滑らせた。
魚桶を抱えた男が、入口から顔を出す。
「桶はどこへ持っていけばいいですか」
「桶は外の水場へお願いします。札だけここに置いてください」
「聖水ですか」
「魚の水です」
魚桶を抱えた男は、真顔でうなずいた。
「急がないと、ありがたくなる前ににおいます」
男はうなずき、桶を抱えたまま外へ戻った。
小さな札だけが、棚の手前へ置かれる。
ネリが息を止めた。
椀も布も、修道士が一度受け取るだけで次へ流れていく。
白匙亭なら、そのたびにネリの名前が呼ばれる。
ネリの両手は空いているのに、何かを抱えている時の形のままだった。
「これ、白匙亭の裏と同じ」
「白匙亭の棚と同じだな」
棚の下には、小さな木片が落ちていた。
文字はほとんど消えている。
だが、穴が一つ空いていた。
リュカは拾って、ネリへ渡した。
「その木片の字は読めるか」
「……返し、とだけ読める」
「返す時の札か」
「たぶん。父さんの箱にも似たのがあった」
ネリは棚に触れ、溝の上で指を止めた。
「父さんは、印をつけるのは入口脇だけだって言ってた」
「でも、白匙亭では私しかいない」
ネリはきつく言った。
入口で一人。厨房へ走る時も、客に呼ばれる時も一人。
「一人で全部は無理だ」
「無理なのは知ってる」
「知っていても、やってる」
「やらないと泊まれない人が出る」
ネリは言い返しかけた。
しかし、洗い場へ消えた椀を見て、言葉を飲み込む。
次の少年は、修道士に聞かずに椀と布を分けた。
後ろの男も、包みだけを板へ置いた。
ネリは二人を見送った。
誰もネリの名を呼ばない。
それなのに、客たちは椀と布を分けていく。
ネリは唇を結んだ。
帰り道、二人は石段の脇で足を止めた。
腰の高さの古い柱があり、先端だけが削れて白い。
「これも何かの印なの?」
ネリが聞く。
「印ではない。たぶん、ここに立って客を呼んでいた」
「声を届ける場所なの?」
「ここで呼ぶと、宿の入口と食堂の両方へ届く」
リュカは柱の横で軽く手を打った。
宿の前の客が振り向いた。
食堂の方から、誰かが顔を出す。
手を打つ音は石段に当たり、坂の下と上へ同時に届いた。
ネリは目を丸くした。
「こんな場所、あったんだ」
「あった。使わなくなっただけだ」
春の庭では、さっきの修道士がまだ草を抜いていた。
今度は巡礼者が一人、白い線を外れて、ガラスの欠片が埋まった土へ踏み込もうとしている。
「見るだけです」
修道士は泥だらけの手で止めた。
それから、空いている方の手で石の通り道を示す。
「通るなら、こちらです」
巡礼者はうなずき、花には触れずに石の上を歩いた。
ネリは、修道士が止めたあとに道を示すのを見ていた。
「止めるだけじゃないのね」
「止めたあと、通る道を示してる」
「うちだと、止めたあとにみんな私を見る」
ネリは濡れた指先を開いた。
白匙亭では、止めた客も、戻る椀も、預かる荷もネリの前へ来る。
ネリが椀や札を抱え込むと、客はまた宿帳を見る。
ネリは柱の横に立ち、試しに声を出した。
「食べた椀は棚へ戻してください」
宿の前にいた客が顔を上げ、上の食堂でも誰かがこちらを見た。
「この柱なら、宿の前まで届く」
「上の食堂にも聞こえた」
「私、いつも中から怒鳴ってた」
「そこから怒鳴っても、一番近い客しか振り返らない」
「早く言って」
「今見つけたばかりだ」
ネリは柱をもう一度見た。
「明日の朝、ここに誰か置けるかな」
「人を立たせられないなら、案内板を掛けられる」
「案内板だけで客が動くの」
リュカは柱の削れた先を指した。
「椀を持った客は棚へ送る。荷を持った客は裏へ回す」
少し考え、橋の方を見る。
「道を聞くだけの客は、橋の柱へ案内する。先に板へ書いて掛けておく」
ネリは柱の削れた先を見た。
そこには確かに、紐を掛けた跡があった。
客を呼ぶだけでなく、案内板も掛けていたのだ。
リュカは柱の削れた跡から指を離した。
「白匙亭へ戻る」
「まだ宿では何も直してない」
「直す場所は分かった」
「どこを直すの」
「入口の台だ」
リュカは橋の方を指した。
「宿帳の前に集めすぎている」
リュカは坂の下の白匙亭を見た。
入口の台が見える。
椀を抱えた客が寄り、荷袋を持った商人も寄る。
道を聞きたい巡礼者まで、宿帳の前で足を止めていた。
椀を戻す棚も、荷を置く裏口も、道を聞く橋の柱も、そこから少しずつ離れている。
ネリは少し考え、それから嫌そうにうなずいた。
「椀を返す客も、荷を預ける客も、道を聞くだけの客も、あの台で止まってるのは分かる」




