第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(3)
春市の朝は、客より先に荷が道をふさぐ。
橋の上には、若い豆の籠が五つ。
川魚の桶が二つ、山羊チーズの包みがいくつか。
朝の石はまだ冷たく、豆の青い匂いだけが先に温まっていた。
桶の水が揺れるたび、魚の背が銀色に光る。
宿から修道院へ上がる坂は、朝のうちから詰まっている。
巡礼者、商人、荷運び。
それに、聖人扱いされた泊まり客。
聖人扱いされた客が、偉そうに道をふさぐ。
それだけなら、まだ叱れば済む。
厄介なのは、遠慮や善意で動かなくなる客だった。
「どうぞ、先にお通りください」
聖ミカが荷運びへ道を譲る。
「いや、聖人さまから先にどうぞ」
荷運びが譲り返す。
「いや、私は靴紐を結んだだけです」
「その靴紐がありがたいのです」
「ありがたくない」
ミカは本気で困っていた。
だが困っている間に、後ろの少年が豆籠を抱えたまま止まる。
少年が止まると、魚桶を抱えた男も動けず、宿の入口まで列が伸びる。
豆籠の取っ手は少年の腕に食い込み、青い葉先が袖を濡らしていた。
ネリは両手に椀を持ったまま、坂の途中で声を張った。
「荷は右。巡礼は左。泊まり客は先に椀を返して」
返事はある。
だが、列の動きは少ない。
その列の中で、聖ボランが寝ぼけたまま、真面目に言った。
「聖人が椀を返すと、椀も聖なるものに見えないか」
「椀は椀にしか見えない」
「でも、見える人がいるかも」
「その人には椀を洗わせる」
ネリはきっぱり言った。
ただ、坂の上では誰も動かなかった。
リュカは橋の欄干にもたれ、坂を見ていた。
坂の詰まり方には癖があった。
人が立ち止まるのは、決まって紙の前だった。
紙を結んだ柱、客が腰を下ろした石、誰かが椀を置いた卓。
そこだけ人が一歩遅れ、後ろの荷がそれにぶつかる。
聖なる紙の前では、客の足が少し遅くなる。
足が遅くなるものを、道の真ん中に置いてはいけない。
宿帳が書いたほめ言葉が、紙になって外へ出た跡だった。
客の胸だけでなく、橋の柱や荷籠の紐にも白い紙が絡んでいた。
濡れた紙は薄いのに、そこへ目が行くと人の足だけが重くなる。
聖ボランが寝ていた長椅子。
聖ミカが靴紐を結んだ石段。
聖ペルの椀を置いた卓。
紙が増えるほど、人は動きづらくなる。
少年だけが、籠の重さを受け止めていた。
「あれ、まずくない?」
ネリが顎で橋の中央を示した。
豆売りの少年が、若い豆の籠を抱えたまま固まっていた。
籠の取っ手に白い紙が絡んでいる。
紙には、まだ濡れた墨で文字が増えていた。
聖ペルの膳に添えられた若豆。
「宿帳は宿から出ないんじゃなかったのか」
リュカが聞く。
「帳面そのものは宿から出ない」
「宿帳と同じほめ言葉の紙は、橋まで出てる」
「帳面は宿から出ないのに、紙だけ外へ出るの」
ネリは橋へ走った。
少年の籠から紙を外そうとする。
すると、籠が少し傾いた。
青い豆の先が垂れ、少年の腕はもう震えていた。
周りの商人たちが一斉に止めた。
「ちょっと待て」
「それは今日の縁起物だろう」
「そのままだと豆が傷む」
「聖なる豆は傷まん」
「日なたに置けば傷むよ」
最後だけ、リュカが言った。
商人たちがこちらを見る。
ネリも見る。
橋の端では、厨房のミトが空の小鉢を抱えていた。
さっきの粥に入るはずの豆を待っている。
小鉢の底には、刻んだ春菜が少しだけ張りついている。
「その豆、昼の鍋に入れるんだけど」
「聖なる豆を刻むのか」
商人は唇を曲げた。
「刻まないと、粥がただの薄い粥になる」
ミトは大鍋の方を親指で示し、真面目に言った。
商人は豆から大鍋へ目を移し、口をつぐんだ。
少年は籠の中を見た。
豆の端から、小さな水滴が一つ落ちた。
聖なる豆でも、日なたでは水気が抜ける。
商人は白い紙に触れる手前で、手を止めた。
少年だけが、籠の取っ手を握り直す。
「誰か持って」
少年が言った。
誰も持たなかった。
豆籠はまだ胸の高さにあるのに、少年の肩だけが少しずつ下がっていく。
リュカは豆籠の置かれた場所を指した。
橋の真ん中だ。
「ここに置くな」
「じゃあ、どこへ置けばいい」
少年は籠を抱え直し、心細そうに聞いた。
リュカは答えなかった。
豆籠から半歩退くと、少年も商人もネリを見た。
ネリは豆籠を見た。
橋の右も左も、坂の上も宿の入口も、半端に詰まっている。
「……白匙亭の裏。水桶の横なら日が当たらない」
「宿へ戻すのか」
商人が眉をひそめる。
「戻すんじゃない。市へ出すまで預かる」
「傷んだら誰が払うんだ?」
そこでネリは、一瞬だけ詰まった。
その隙に、豆籠の紙がまた白く光る。
聖なる若豆を守った籠。
商人たちは手を引き、籠の前から半歩退いた。
少年の腕が少し沈む。
ネリは籠へ手を伸ばしかけ、白く光る紙を見てためらった。
紙は増えた。
籠を持ってくれる人は増えなかった。
その時、少年の指から力が抜けた。
籠の片側が下がった。
青い豆が一粒、橋の石に跳ねる。
商人たちは一斉に息を飲んだ。
「誰か、その豆を拾って」
少年が言ったが、誰も拾わない。
「聖なる豆を拾っていいのか」
「石に置いたままの方がまずい」
ミトが腰をかがめ、豆を拾った。
指先に土がつく。
周囲がまた息を飲む。
ネリはそれを見て、ため息をついた。
「洗えばいい」
ネリが言う。
水場の魚屋が顔を上げた。
「預かり札は?」
リュカが聞く。
「預かり札は宿にある」
「持ってこい」
「それは命令なの?」
「命令じゃない。今夜泊めてもらう分を、先に働いて返している」
ネリは舌打ちし、それでも宿へ走った。
橋の上で、豆籠の白い紙がひらひら揺れる。
しばらくして、ネリが戻ってきた。
手には薄い木札が三枚。
白匙亭、豆売りの印、昼の鐘まで。
用件だけが書かれている。
「白匙亭で昼の鐘まで預かる」
ネリは札を一枚、籠の取っ手に結んだ。
「籠は裏の水桶の横に置く。戻す時はこの札と引き換え」
商人が口を開く。
「聖なる籠を宿の裏へ置くのか」
「聖なるかどうかは知らない」
ネリは遮った。
「傷んだら白匙亭が払う。預かった籠は、私が返す」
魚屋が桶を少し持ち上げ、少年も籠の取っ手を握り直す。
商人たちは不満そうにしながらも、橋の端を空けた。
リュカは欄干から手を離した。
「今のはよかった」
「何を褒めてるの」
「『預かった籠は、私が返す』と言い切ったところだ」
「そこだけ褒めるの、嫌なんだけど」
ネリはそう言いながらも、籠を抱えた少年の前を歩いた。
列が、ようやく一歩進んだ。
その一歩で、後ろの魚桶も動いた。
橋の石に落ちた豆の水だけが、丸く残った。
「助かった。水場も空けたいんだ」
ネリが頭を抱えた。
「水場まで詰まっているの?」
「聖人さまが足を洗ったって、誰も先に水を使いたがらない」
リュカは坂の脇の水場を見た。
白い紙はない。
それでも、魚屋は桶を抱え、下働きは椀を抱えたまま止まっていた。
巡礼者も、濡れた指を宙でそろえている。
流しの端には、白い布が一枚かけられていた。
布は魚の匂いを吸い、端から水を垂らしている。
「これ、清いの?」
ネリが低く聞いた。
「魚の匂いがする」
「だよね、清くはないよね」
その一言で、巡礼者は祈りかけた手を下ろした。
清いかどうかより、臭いかどうかの方が人は早く分かる。
「魚桶と椀と手洗いは、どこで分けるんだ」
リュカが聞く。
「昔は、見れば分かったの」
「今の客は、見て分かるか」
「分からない。みんな置き場所じゃなくて、紙を見てる。私も、さっきまで紙ばかり見てた」
ネリは素直に認めた。
認めるとすぐ、悔しそうに口を曲げる。
魚桶の銀色の背が揺れ、下働きの腕では椀が滑りかけている。
「板を借りる」
「それもありがたがられたら?」
「ありがたい名前は書かない」
ネリは水場の脇に立てかけてあった板を引き寄せた。
濡れた板の上を袖で拭き、黒い炭を握る。
「魚桶は左へ。椀は真ん中へ。手を洗う人は小さい流しを使って」
言いながら、板にも同じ順で書いた。
魚桶、椀、手を洗う小さな流し。
魚屋が桶を左へ下ろした。
下働きは椀を真ん中へ置いた。
巡礼者は、手を洗う小さな流しの前へ寄った。




