第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(2)
消せない字だからといって、ありがたいとは限らない。
入口脇の台には、古い宿帳と使いかけの墨壺があった。
壁の客室札は裏返り、斜めになり、ひとつは台の端に落ちている。
散らかってはいるが、毎日使われてきた台だと分かる。
台の端には、厨房へ合図を送る音の低い鐘があった。
その鐘の前にも紙が貼られている。
聖ボランの眠りを邪魔しなかった鐘。
リュカは、鐘の紐を見た。
鐘が鳴らせなければ、厨房は客の入りを知れない。
ありがたい紙一枚で、粥は簡単に焦げる。
ネリは入口の三人を中へ押し戻し、指で一人ずつ行き先を示した。
「ボランは奥の長椅子。寝るならそこで寝て」
寝ていた男が、返事の代わりに片手を上げた。
ネリは次に、ミカという若い男を指した。
若いが、胸の紙を気にして妙に背筋を伸ばしていた。
「ミカ、靴紐を結んだら、裏の水桶を厨房まで運んでくれる?」
ミカが胸の紙を指で押さえた。
「聖人に水桶を運ばせるのか」
「水桶を運べる聖人なら、なおさら運んで。厨房が困ってる」
ミカが渋々立つ。
「ペルは椀を返す」
ペルは椀を抱えたまま迷ったが、リュカと目が合うと、なぜか気まずそうに厨房へ向かった。
「それで、あんたはどうするの」
ネリは宿帳の前へ戻り、リュカを見た。
「あんたはどうするの。聖リュカ」
ネリは最後だけ、わざと丁寧に言った。
「その呼び方はやめろ」
リュカは胸の紙を指で押さえた。
「嫌なら帰って」
「泊まりたい」
返事が早すぎて、ネリの眉が少し上がった。
「寝る場所はないって言った」
リュカは奥の長椅子を見た。
ボランの足先が、床へ落ちかけている。
「あの長椅子の下なら寝られる」
「そこは客を寝かせる場所じゃない」
「なら、聖人扱いじゃなくて、客として扱え」
「客として扱ってる」
リュカは胸の紙を指で押さえた。
乾ききっていない墨で、聖リュカと書かれている。
「客なら、この紙はいらない」
ネリは濡れた布巾を握り直した。
「外したい。けど、私が貼ったんじゃない」
ネリは宿帳を睨んだ。
「宿帳が『聖リュカ』って書くと、そう書いた紙が勝手に出るの」
ネリはリュカの胸元を指した。
剥がそうとした紙の端だけが、少し浮いている。
「胸にも、荷にも。気づいた時には、もう貼りついてる」
宿帳は当然、何も言わない。
汚れた台の上で、白い余白だけが場違いにきれいだった。
「条件を出す」
リュカが言うと、ネリは眉を上げた。
「泊めるかどうかは、こっちが決める」
「そこはそっちが決める。俺が出したいのは、泊める時の条件だ」
「どういう条件?」
「泊めるなら、客として泊める。聖人扱いはなし。宿代は払う」
「それ、普通の宿なら当たり前でしょ」
「この宿では、その当たり前が崩れてる」
ネリは台の下を見た。
人ひとり寝かせるには、箱も籠も多すぎる。
「じゃあ、客として何を求めるの」
「寝る場所と朝の飯をもらう。代わりに宿帳と客の出入りを見る」
「ずいぶん図々しい客ね」
「聖人よりは扱いやすい」
ネリは台の下の箱を足で押し込んだ。
箱の角が床を鳴らす。
「あんた、何者なの」
「ただの旅人だ」
「旅人は普通、宿帳まで見ない」
「普通の宿は客を聖人にしない」
ネリは口を開きかけ、結局何も言わなかった。
奥の厨房から鍋の音がした。
春菜を刻む青い匂いが、湯気に混じって流れてくる。
腹が鳴った。
ネリがそれを聞いた。
「……今夜の残りなら出せる」
「朝の飯をもらう条件だったはずだ」
「朝まで待ったら倒れるでしょ」
「まだ倒れない」
「立ってるだけで精いっぱいに見える」
ネリは奥へ消え、しばらくして盆を持って戻ってきた。
麦粥、春菜、若い豆を少し。
固いパンの薄切りと、山羊チーズのかけら。
リュカはまだ匙を取らなかった。
「交渉は成立か」
「床の隅なら寝ていい。朝の膳も出す」
ネリは指を一本ずつ折った。
「その代わり、宿帳は見るだけ。勝手に触らない」
「触る時は先に声をかける」
「声をかけても、許すとは限らない」
「分かった。いいと言われるまで触らない」
「あと、聖人扱いされても宿代は取る」
「払う。客だからな」
そこで初めて、リュカは匙を取った。
麦粥は薄い。
だが麦の粒は舌に残り、春菜の苦みが湯気の中で立っていた。
若い豆は皮がぷつりと割れ、青い甘さを混ぜる。
チーズの酸味と、粥に浸したパンの塩気があとに残った。
濡れて歩いてきたリュカには、その温かさがありがたかった。
食べながら、リュカは厨房の動きを見た。
鍋の前には二人、椀を洗う場所には一人。
しかし、椀を受ける人間がいない。
客は椀を持ったまま立ち止まり、宿帳はそこへ余計な紙を足す。
足りていないのは、入口で椀を受ける人だった。
食べる間にも、塩、毛布、客室札、椀、満室の返事。
小さな用が全部ネリへ来る。
ネリは盆を置いたあとも座らなかった。
「食わないのか」
リュカが聞く。
「あとで食べる」
「そのあとでは、たぶん冷える」
「冷えるのは知ってる」
「知っていても後にするのか」
「宿番だから」
ネリはそう言って、椀から目をそらした。
だが、椀は冷えたままだ。
宿番が食べなければ、宿番から先に倒れる。
その時は、宿帳が倒れた宿番まで聖人にする。
「味はどうなの」
ネリに聞かれて、リュカは椀の底の春菜をすくった。
「温かい。少し苦い。今は助かる」
「それ、褒めてるの」
「褒めている」
「褒め方が下手」
リュカがもう一口食べると、ネリは少しだけ口元を緩めた。
すぐ戻したが、戻しきれていなかった。
リュカは匙を置き、宿帳を見た。
宿帳の一行には、名、人数、寝台、支払いの小さな枠が並んでいた。
いちばん右には、さらに細い空欄がある。
古いページでは、そこに短い横棒が引かれていた。
今のページでは、そこだけが白い。
そのかわり、余白には余計なほめ言葉ばかり増えている。
椀の縁が、右端の枠に重なっていた。
リュカは椀を少し横へずらした。
ネリは椀の動きを見て、眉を寄せた。
「宿帳には触らないでほしい」
「触ってない」
「宿帳に近すぎる」
「近くで見ないと分からない」
「分かりすぎるのも困る」
「困ることを見てる」
ネリは宿帳の余白へ目を落とした。
怒るには疲れていて、頼るにはまだ早い。
聖ボラン、眠りすぎた客。
聖ミカ、靴紐を二度結んだ客。
聖ペル、最後の麦粥を空けた客。
聖リュカ、空腹を我慢した旅人。
さらに、下の余白に小さく一行が増えた。
聖なる欠け匙、粥の底まで届いた匙。
リュカは盆の横を見た。
確かに匙の先が欠けている。
欠けた匙は、ただ使いにくいだけだ。
だが、紙に書かれると誰も替えられなくなる。
「匙の先まで書くのか」
「匙まで書くの」
「その匙は替えろ」
「替えたら、罰が当たりそうなの」
「当たるのは舌だ」
ネリは一瞬だけ迷い、欠け匙を引っ込めた。
代わりに、先の丸い匙を出す。
匙を替えるだけで、粥は食べやすくなった。
奇跡より、替えの匙の方が早い。
「昔からこうなのか」
「そんなわけないでしょ。前は普通だった」
「いつからそうなった?」
「父さんが客を迎えられなくなってから」
「怪我をしたのか」
「坂で荷車をよけそこねて、足を痛めたの」
ネリは壁の客室札を直した。
「父さんの時は、宿帳もおとなしかった」
「客の名を書いて、飯を出して、朝には名の終わりに印をつけてた。それだけだった」
「その印は、客が出る時に引くのか」
「うん。荷を返して、宿を出てもらう時」
「なぜ今は引かない」
ネリは宿帳の右端を見た。
厨房の奥で、ペルが椀を置いた。
ことり、と鳴ってから、ネリは小さく言う。
「言いにくいのよ」
「何を言うのが苦手なんだ」
「朝になったら、客に『帰って』って言うの」
リュカは宿帳へ目を戻した。
名の終わりに印をつける右端の枠は、どの行も空いたままだ。
そのかわり、余白には「聖」で始まるほめ言葉が増えている。
眠い客は長椅子から起きればいい。
椀を返す客は、椀を棚へ置けばいい。
名前の前に聖人と書かれると、客はただの用でも動けなくなる。
「足りないのは、寝床だけじゃない」
リュカは言った。
「朝になったら、客に『出る時間だ』と言う人だ」




