第一話 春の膳 泊まった客を聖人にする宿帳(1)
結論から言う。
この町で一番帰れないのは、死者でも迷子でもない。
泊まっただけの客だ。
白嶺街道の谷は、春になると音が増える。
雪解けの水、荷車の軋み、修道院の鐘。
寝不足の巡礼者たちが坂を上がる靴音。
谷底の道を歩きながら、リュカは一度だけ足を止めた。
腹が減っている。
昼に齧った干し果の甘さは、もう舌の奥にも残っていない。
雨はやんでいたが、外套の裾は湿って重かった。
靴の中にも水が入っている。
火を起こして外套を乾かすくらい、リュカには難しくない。
腹の鳴る音を少し紛らわせる術もある。
だが、リュカは何もしなかった。
自分の不便だけを術で消すくらいなら、濡れたまま歩く方がまだましだ。
道の先に、古い修道院の塔が見えた。
塔の下には春市の屋台が並び始めている。
まだ本番の前夜だというのに、道脇にはもう荷が積まれていた。
豆の籠、青い葉束、川魚を入れた桶。
少し先では、誰かが山羊チーズの包みを数えている。
修道院町は、谷に貼りついたような町だった。
橋の下に細い水路があり、上には白い石の坂がある。
坂の途中で道が分かれ、修道院と春市の広場へ上がっていく。
その分かれ目より下で、宿の看板が雨を受けて揺れていた。
豆籠を抱えた少年が看板の前で足を止める。
後ろの巡礼者が避けようとして、川魚の桶に肩をぶつけた。
桶の水が揺れ、荷車の男が舌打ちする。
泊まる客も、食べに来た客も、荷を預ける客も、ここで一度止まる。
一人が迷うと、後ろの客まで止まる。
橋の石には、濡れた靴跡が何重にも残っていた。
新しい跡の上に古い跡が乗り、荷車の轍がそれを横から潰している。
春市の前夜なのに、入口はもう詰まりかけていた。
橋の脇には、小さな掲示板があった。
修道院へ納める荷、春市へ出す荷、宿へ預ける荷。
板は三つに分かれているのに、貼られた紙は真ん中へ寄っている。
急ぐ客は、板の字を読まずに真ん中を通っていく。
リュカはそこも見た。
詰まりは宿の中だけでは済まない。
宿は橋の手前にあった。
白匙亭。
木の看板にはそう書かれている。
看板の匙は白く塗られていたが、雨で少し剥げていた。
入口の長椅子に、客が三人並んで座っていた。
一人は寝ている。
一人は靴紐を結んでいる若い男。
一人は両手で空の椀を抱えている。
その胸には、細い紙が一枚ずつ貼られていた。
聖ボラン、寝過ごしを許された客。
聖ミカ、靴紐を結び直した客。
聖ペル、最後の麦粥を空けた客。
柱にも、足元の釘にも紙があった。
聖なる柱、聖ミカの背を支えた柱。
聖なる釘、聖ボランの荷を止めた釘。
誰かが本気で避けて歩いた跡があった。
柱の周りだけ床が汚れ、釘の上だけ泥が乾いている。
ありがたくなるほど、人はそこを踏まない。
踏まない場所が増えれば、宿の入口は細くなる。
リュカは釘を見た。
曲がっている。
入口で役に立つのは、ありがたい釘よりまっすぐな釘だ。
リュカは曲がった釘と、細くなった入口を見比べた。
「よくない宿だ」
三人のうち、椀を抱えた若者だけがびくりとした。
寝ている男は半分しか起きない。
靴紐の男は、紐の輪を作りかけたまま、祈るような姿勢で止まっている。
長椅子の足元には、荷袋が二つ置かれていた。
一つはもう出立できる形に縛ってある。
もう一つは口が開いていて、替えの靴下と乾いた布がはみ出している。
帰るつもりの客と、帰れない客の荷が同じ場所で混じっていた。
それもよくない。
朝の宿では、出立する客の荷と、まだ泊まる客の荷を分けておくべきだった。
しかも、荷袋の一つには小さな白紙が挟まっていた。
まだ文字はない。
文字がないのに、周りの客はそれを少し避けて座っている。
書かれる前から、余白に遠慮している。
厄介なのは、書かれたほめ言葉ではない。
書かれるかもしれないという期待の方だ。
寝ていた客が片目を開けた。
「聖人に向かって何だ」
「泊まり客だろ」
「昨日まではな」
客は眠そうに答え、また目を閉じた。
靴紐を結んでいる男は、もう片方の靴紐に手を伸ばしたまま固まっている。
椀を抱えた若者は、助けを探すように周りを見ていた。
「返せないのか」
リュカが聞くと、若者は椀を少し持ち上げた。
「返したいんだけど、聖ペルになってしまったから」
「椀はどうする」
「最後の麦粥を空けた器として、粗末に扱うなって」
「誰が言った」
若者が宿の奥へ目を向けたところで、女が言い返した。
「誰も言ってない。宿帳が勝手に書いたの」
宿番の若い女が、奥から出てきた。
髪を後ろで結び、袖を肘までまくっている。
片手には濡れた布巾。
もう片方には、さっき若者の胸に貼られていたのと同じ紙。
若い女は、若者の胸から紙をはがした。
「ペル、椀を返して」
「でも、紙がまだ」
「でもじゃない。椀は聖人じゃない」
「じゃあ、俺は聖人なのか」
「あんたも違う」
若い女は短く言い、紙を丸めた。
丸めたはずの紙は、指の中で白く光った。
次の瞬間、宿の奥から、ぱり、と乾いた音がした。
入口脇の台の上で、古い宿帳が勝手にページをめくっていた。
リュカは入口から半歩だけ中をのぞいた。
厚い革表紙の帳面だ。
背は何度も修繕され、角は黒く擦れている。
開いたページの余白に、いま消したばかりの文字が戻っていた。
宿帳は大きすぎた。
一軒の宿の帳面にしては、ページも革表紙も金具も重い。
台の脚だけが床板へ深く沈み、そこから入口へ向かって薄い擦れ跡が続いていた。
この帳面は、ただ置かれてきたのではない。
人がここで名を書き、椀を受け、朝に何かを閉じてきた。
聖ペル、最後の麦粥を空けた客。
若い女の眉がぴくりと動く。
「また戻った」
「よくあるのか」
リュカが聞く。
若い女はようやくリュカを見た。
濡れた外套。
泥のついた靴。
空腹だけは隠せていない。
それから、杖とも物差しともつかない細い棒。
「泊まりたいの?」
「泊まれれば」
「宿代は払えるの?」
「少ない。働ける」
ネリは濡れた布巾を握ったまま、リュカを見返した。
「春市の前夜にそれを言う?」
「今言える事実だ」
「ここでは泊められない。帰って」
「帰れない客が三人いる宿で言われても、説得力がない」
ネリは布巾を握る手に力を入れた。
「喧嘩売ってる?」
「飯を売ってほしい」
「もっと悪い」
入口の客が少し笑った。
若い女が振り返ると、三人とも急に背筋を伸ばした。
「先に名前を聞かせて」
「リュカ。旅人だ」
「ネリ。白匙亭の宿番をしてる」
名乗りだけは、きちんとしていた。
ネリは布巾を握り直し、冷たく言った。
「空きはない。床もない。椀も足りない」
「寝る場所は隅でいい」
「勝手に聖人にされたら困る」
「俺はならない」
「なるの。うちの宿帳は、泊まった客を全部ありがたくする」
「ありがたいのか」
「かなり迷惑」
ネリは即答した。
その返事だけは信用できた。
リュカは台の上の宿帳を見た。
ページの端が、また少し白く光っている。
「結論から言う」
「今その話をするの?」
「この宿は、入る客より出る客で詰まっている」
ネリは言い返しかけて、口を閉じた。
怒っていた肩が、少しだけ落ちた。
「……何で、出る方の話になるの」
「もう出られるように縛った荷が、入口に残ってる。椀も返ってない」
「それ、言い方が雑」
「よく言われる」
宿帳が、そこでまた音を立てた。
ぱり。
白いページの下に、新しい文字がにじむ。聖リュカ、空腹を我慢した旅人。
ネリは布巾を握りしめた。
「客の空腹まで褒めなくていい」
リュカはしばらくその字を見てから、言った。
「この字、消せるか」
「消せないの」
宿帳の余白は、嫌になるほど白かった。
そこへ誰かが笑い、誰かが拝み、誰かが困る。
困った客が増えるほど、宿帳は余白にほめ言葉を増やす。
リュカの腹が、もう一度鳴った。
ネリは聞かなかったふりをした。
そのまま奥へ消え、棚から盆を一つ取った。
客の腹が鳴っただけでは、宿帳はまだ紙を出さなかった。




