第八話 冬の膳 燻し魚で狼煙を上げる盗賊団(6)
お頭は黒瓶を選ばず、水差しと小杯を卓の中央へ引き寄せた。
用意した杯は一つだった。
「一つで足りるのか」
短刀の男が聞いた。
「味を見るだけなら、それで足りる」
「飲む杯じゃないのか」
「飲むばかりで味を見なくなったら、酒好きとは言わん」
お頭は麦の火酒を一指ぶん注いで瓶を置き、燻し干魚の皮をひとかけ裂いた。
先に魚を口へ入れた。
温めた皮から脂がほどけ、強い塩気が引いたあとに煙の香りが細く残った。
お頭は小杯を取り、酒を一口含み、舌の上で転がした。
「麦の香りは、燻し香よりあとに残る」
見張り役が、干魚と小杯を見比べた。
「酒の方が弱いのか」
「弱いんじゃない。魚の香りが先で、麦はあとから来る」
お頭は干魚の皮をもう一度噛んだ。
「樽の匂いは煙の前へ出ない。飲み下したあとも、魚の脂が舌に残る」
お頭は小杯を水ですすぎ、すすぎ水を桶へ捨てた。
小屋に残ったのは、干魚の煙と麦の樽香だけだった。
二本目は林檎だった。
栓を抜くと、冬の小屋には似合わない甘い香りが立った。
熟れた実を割った時より淡く、皮をひと筋剥いた時の香りに近い。
薪番が燻し海老を一つ、皿へ置いた。
お頭は殻ごと噛んだ。
薄い殻が割れ、塩気が先に来た。
お頭は林檎の火酒を一口含んだ。
酒そのものに甘さはない。
それでも鼻へ抜ける林檎の香りが、海老の塩気をやわらげ、殻の香ばしさを立てた。
「塩の角が取れる」
お頭は空になった小杯の縁を嗅いだ。
「干魚では、林檎が脂に負ける。海老なら、塩を丸くして殻の香ばしさを残す」
押さえ役が海老へ手を伸ばした。
「俺にも」
「酒は回さない」
お頭が止めた。
「海老だけなら、食っていいか」
「食え」
押さえ役は海老を取った。
殻を噛み、口に残った塩気を確かめた。
「甘い」
「何が甘い」
「分からん」
「なら、もう一つ食え。今度は塩気を見ろ」
押さえ役は海老だけを取った。
お頭は小杯をすすぎ、新しい水を一口ぶん注いで飲み干した。
三本目は、香草の苦みが強い火酒だった。
お頭は緑がかった酒を注ぎ、燻しイカの色の濃い端を裂いた。
薪番が火から離して燻したため、新しい焦げはない。
端だけは乾きが強く、身より色が濃かった。
お頭は奥歯で何度も噛み、イカの塩気、煙、噛むほどにじむ甘みを順に確かめた。
香草火酒を一口飲んだ。
眉間に浅い皺が寄った。
「よく乾いた身の端は甘みが濃い。香草の苦みに負けない」
もう一度、今度は火酒を飲まずにイカを噛んだ。
「海老には強すぎる。だが、イカなら噛むほど甘みが戻る」
扉割り役が聞いた。
「どれが一番強い」
「強い酒を選ぶだけなら、評はいらない」
お頭は、味見を終えた三本の瓶へ目をやった。
「酒は、膳のあとに何を残すかだ」
麦は干魚の煙を追い越さず、脂を残した。
林檎は海老の塩気を丸くし、殻の香ばしさを立てた。
香草は、乾いた端の甘みに苦みを重ねた。
どの火酒も、干物の味を奪っていない。
三本を味見し終えても、お頭の頬は赤くなっていなかった。
お頭は小杯を水ですすぎ、卓へ置いて伏せた。
「今夜は、ここまでだ」
短刀の男が、赤い紐の黒瓶を顎で示した。
「そっちは試さないのか」
「一晩に飲むのは三杯までだ」
「夜明け前には、ここを捨てるんだろ」
「だから酔いは残せない。黒瓶は移った先で試す」
お頭は黒瓶を卓の端へ寄せ、小杯は伏せたままにした。
見張り役は扉を開け、小屋の外へ出た。
小屋の外では、見張り役が梢の高さを確かめていた。
白い煙は、梢へ届く前にほどけていた。
火酒は三杯まで。
根城を紙へ残さない。
煙を梢より上げない。
街道の灯へ近づかない。
薪番は酒ではなく、火床を見ていた。
乾いた薪の間を開けて火を落ち着かせると、煙はさらに細くなった。
リュカだけは、伏せられた小杯ではなく、黒瓶を見ていた。
黒瓶の細い首には、赤い紐が巻かれていた。
塩風街道の宿場で魚介と合わせた竜の息吹だった。
お頭が、卓の下へ戻そうと黒瓶へ手を伸ばした。
「それだけは魚介と合わせるな」
リュカが言った。
お頭の指先が、瓶の首に触れる寸前で止まった。
お頭は手を引かず、リュカを見た。
「三本は黙って見ていた。これだけ止めるのか」
「今年の魚介と合わせた時に起きることなら、知っている」
「何が起きる」
「自分が戦ったことのない戦を、自分の記憶として語り出す」
お頭は黒瓶と燻し棚を見比べた。
「酒が見せる幻か」
「その瓶を今年の魚介と合わせた時だけだ」
「なら、俺は味だけを見る」
「一口でも同じだ。飲むなら、先に水を一杯飲め」
「水なら飲んだ」
「飲んだのは一口だ」
お頭は伏せた小杯に指をかけ、表へ返した。
「四杯目ではない」
伏せていた跡に、丸い水の輪が残った。
「評のための一口だ」




