第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(6)
リュカは塩蟹の皿を見た。
「今の言葉は、あの二人のものじゃない」
「じゃあ、誰の言葉なんだい」
「今年の蟹だ」
山側の女は、蟹の殻の手前で箸を止めた。
小皿の上で、塩蟹の脚が転がった。
「蟹、だって?」
年配の女が聞き返した。
「蟹だ。それは間違いない」
リュカはもう一度言った。
「今年の蟹は、綱を信用しなかった」
酒番は、水差しの取っ手を握ったままリュカを見た。
「蟹は綱を信用するものですか」
「普通は考えなくていい」
塩蟹を食べた二人は、水を飲んだ。
一人はすぐに杯を置き、もう一人は自分の手を見た。
「俺、今、何か言ったか」
「船を流すと言った」
「流してない」
「分かってる」
年配の女が言った。
「たぶん、あんたじゃなくて蟹だ」
年配の女の箸も、蟹の殻の手前で止まっていた。
蟹の二人組は、しばらく互いの箸先を見ていた。
「俺たちは、蟹だったのか」
「そこまで言っていない」
リュカは答えた。
「では、蟹の癖が出たのか」
「癖でもない」
「じゃあ何だ」
「残った勢いだ」
リュカは塩蟹の皿を指した。
「干される前の勢いが、人の喉から出ただけだ」
染物の行商人は、自分の藍のついた指先を見た。
「俺の喉へ、蟹が」
「言い方を変えろ」
年配の女が言った。
「食欲が落ちる」
酒番は蟹の皿へ手をかけたが、下げなかった。
「薄いエールで食べるなら、あの声は出ないと思う」
リュカが言った。
「言い切れないんですか」
「確かめるなら、お前が飲むか」
「いえ、遠慮します」
酒番はすぐ答えた。
「仕事中です」
「それも賢明だ」
酒番は塩蟹の皿を卓の中央へ置き直した。
小杯は、二人の手から遠い卓の奥へ引いたままだった。
二人の手元には、薄いエールの杯だけを残した。
「食べるなら、こちらでどうぞ」
「蟹を食べるのに、酒を選ぶ日が来るとはな」
塩蟹を頼んだ荷運びが言った。
食堂の客たちは、塩蟹を少しずつ食べた。
山側の女は水で口を湿らせた。
そのあと、客たちが口をつけたのは、薄いエールと水だけだった。
塩気が強く、焼き餅の麦とよく合う。
噛むと、蟹の甘さが少し遅れて出る。
その荷運びは、蟹を焼き餅にのせ、薄いエールで飲み込んだ。
火酒の残った小杯だけが、卓の奥でまだ光っている。
酒番は黒瓶の前の水差しを、また少し前へ出した。
その次に声を上げたのは、干し蛸を頼んだ男だった。
蛸は小さく切られ、皿の端に置かれていた。
炙ると縁が少し丸まり、噛むと塩気の奥に甘さが出る。
男の手元には、蟹の声が出る前に頼んだ火酒が残っていた。
「蛸なら平気だろ」
男は小杯を取った。
「待ってください」
酒番が止めるより早く、男は蛸をゆっくり噛み、残っていた火酒をあおった。
男の喉が、一度大きく動いた。
酒番は水差しへ手を伸ばした。
リュカは焼き餅を手にしたまま、男の小杯を見た。
男の箸が、皿の端で止まった。
「兜は取った」
「親方の兜も取った」
酒番は、水差しの取っ手を強く握った。
「だが、あれは固かった」
港の親方の兜。
墨まみれの水。
蛸に取られたという、あの妙に正確な騒ぎ。
「親方って誰だ」
入口側の荷運びが聞いた。
「港の漁師だ」
リュカは答えた。
「蛸に兜を取られたのか」
干し蛸の男は、小杯を持ったまま、低く言った。
「吸い取った」
「何を吸い取った」
「兜を、丸ごと」
年配の女が水差しを指で示した。
「水を足して」
「はい、すぐ足します」
酒番は水を足した。
干し蛸の男は、まばたきをして水を飲んだ。
そして、皿の上の蛸を見て言った。
「俺はこれを食べていたのか」
「食べていたよ。兜の話ばかりしてたけどね」
年配の女が答えた。
男は蛸を箸でつまみ、皿の上で一度止めた。
酒番が手を出し、皿を少し遠ざけた。
「もう一杯、水を飲んでください」
「蛸まで取り上げるのか」
「蛸は悪くありません」
酒番は静かに言った。
「ただ、今は水が先です」
男は水の杯を睨み、それでも飲んだ。
酒番が蛸の皿を下げる前に、年配の女が、薄いエールの杯を持ったまま言った。
「それ、火酒じゃなければ平気なのかい」
「試すなら少しだけにしてください」
酒番が答えた。
「あんたが食べるんじゃないのかい」
「仕事中です」
「便利な言葉だね」
年配の女は、蛸を一切れだけ取った。
丸顔の男は、水の杯を口へ運ぶ手を止めた。
女は蛸を奥歯でゆっくり噛んだ。
飲み込む。
もう一口、薄いエールを飲む。
「普通にうまいよ」
「兜は取らないのか」
丸顔の男が聞いた。
「あんた、水を飲んでから聞きな」
丸顔の男は水を飲んだ。
酒番は蛸の皿を卓へ寄せ、干し貝柱も薄いエールと一緒に出した。
小さく白い貝柱は、炙られて端が少しだけ茶色い。
炙った端から甘い匂いが上がる。
山側の女は笑い、干し貝柱を一つ取った。
薄いエールで食べる。
貝柱の甘みだけが舌に残った。
「これでちょうどいいね」
「普通が一番です」
酒番はそう言って、黒瓶から目をそらさなかった。




