第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(5)
二晩目、椅子を引く音は昨夜より早く収まった。
客の多くは薄いエールを飲み、干物を食べる。
丸顔の男は水を飲んでいる。
酒番は水を客の手前へ置き、火酒の小杯は注文されるまで棚に伏せた。
入口側の荷運びは棚の黒瓶を見てから、手前の水の杯を取った。
「今夜は水が近いな」
荷運びが言った。
「近い方が手に取れます」
「火酒が遠い」
「遠い方が考えます」
「考えて飲む酒か」
「考えずに飲むと、昨夜のようになります」
丸顔の男が水の杯の向こうから言った。
「俺を見るな」
「見ていません」
酒番はそう言いながら、丸顔の男の水を足した。
水面が、黒瓶の赤い紐を細く映した。
年配の女は、黒瓶の赤い紐を見た。
「あれ、しまわないのかい」
「しまうと、余計に飲みたがる人がいます」
「見えるところにあると、手が伸びると思うけどね」
「届くところには置いていません」
山側の女は、今夜も干しライム塩を少しだけ使った。
昨日より少ない。
指先に残った粒を、皿の縁で払った。
「昨夜のあれは、悪いものじゃないんだね」
山側の女がリュカへ聞いた。
「悪いものなら、もっと分かりやすい」
「分かりにくい方が困るね」
「そこはそうだな」
「あんたなら、分かりにくいものも分かるんじゃないのかい」
「分かることと、直すことは違う」
山側の女は、焼き餅へ伸ばしかけた手を止めた。
「それも分かりにくいね」
「だから俺に聞いたんだろう」
リュカは焼き餅を割った。
昨夜より焼き目が濃い。
端の焦げが指に少しつく。
酒番は食堂を一周し、薄いエールを足し、水を足し、黒瓶にはまだ触れなかった。
客が黒瓶を見るたび、酒番は先に水の杯を差し出した。
焼き餅の皿は、少しずつ空いた。
黒瓶だけが、棚の同じ場所に残った。
それでも、道の宿の棚に名の知れた火酒があれば、頼む者はいる。
最初に頼んだのは、塩蟹のほぐし身を前にした二人組だった。
片方は荷運び。
片方は染物の行商人らしく、指先に薄い藍が残っている。
「竜の息吹を二つ」
酒番は水を二杯置いた。
「水が先です」
「分かってる」
「分かっているなら、先に水を飲んでください」
「昨日の男とは違う」
昨日の男は水の杯を持ったまま、席の端で小さくなった。
「俺を例にするな」
入口側の荷運びが吹き出し、昨日の男は水の杯を卓へ置いて小さく音を立てた。
酒番は黒瓶を取り、昨日よりゆっくり二つの小杯へ火酒を注いだ。
二人組は塩蟹のほぐし身を焼き餅にのせた。
蟹の塩気は強い。
火酒の香りが上がる。
一人が飲んだ。
もう一人も飲んだ。
二人は同時に、蟹の皿へ目を落とした。
「網は切った」
荷運びが言った。
「綱も切った」
染物の行商人が続けた。
「桶も流した」
「船は、鎖がなければいけた」
一人が薄いエールの杯を卓へ置いた。
「船を流そうとしたのか」
入口側の荷運びが、焼き餅を持った手を止めて言った。
塩蟹を食べた荷運びは答えない。
染物の行商人は、蟹の皿を見下ろしたまま、指先で焼き餅の端を押さえている。
「網は噛めば甘い」
「綱はもっと甘い」
「桶の縁は越えた」
「鎖だけは、歯が鳴った」
年配の女が立ち上がりかけた。
「酒番、これはまずいよ」
入口近くにいた荷運びが、自分の荷札を確かめた。
山側へ向かう荷には、布紐がかかっている。
船などない。
それでも荷運びは、今の声を聞いて、荷札を押さえた指を離さなかった。
「俺の荷は無事か」
「ここは内陸です」
酒番が言った。
荷運びは、荷札からいったん指を離した。
だが、すぐにまた荷札を押さえた。
染物の行商人は、まだ先ほどと同じ調子で言った。
「蓋は少し甘い」
「何の蓋の話だ」
「桶の蓋も甘い」
「桶まで狙うのか」
「桶は道になる」
山側の女が、自分の水の杯を少し引き寄せた。
「私の桶じゃないだろうね」
「その桶ではない」
リュカは言った。
「たぶん、港の桶だ」
「たぶんじゃ安心できないね」
「少なくとも、ここにある桶じゃない」
山側の女は、蟹の二人組を指した。
「先に水を飲ませな」
酒番は返事をする前に、二人の手元へ水の杯を寄せた。
それから、小杯を二つ、そっと二人から遠ざけた。




