第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(4)
朝の焼き餅は、昨夜と同じ塩気と麦の香ばしさだった。
その日、リュカは宿場を出るつもりだった。
だが、山側へ向かう荷車の車軸が一本折れ、道の入口が半日ふさがった。
宿場の者は荷を下ろし、樽を転がし、道の脇へ寄せる。
旅人は待つ。
リュカも待った。
待つあいだ、宿の裏へ回った。
そこには干物箱が積まれていた。
箱の横には港名を焼き付けた小さな板が結ばれている。
白い紐で結ばれた箱。
赤い紐で結ばれた箱。
青い紐で結ばれた箱。
酒番が後ろで咳払いした。
リュカは箱の札へ伸ばしていた手を引いた。
「札を見ていただけだ」
「札は逃げません」
酒番は箱の一つを持ち上げた。
中で干物が軽く動く。
乾いた音がした。
「これは港から来た干魚」
次の箱を指す。
「これは蟹と貝柱」
さらに奥の箱。
「これは、まだ開けません」
「なぜ開けない」
「酒好きが見つけるからです」
リュカは箱の札を見た。
港名は、昨日リュカが思い浮かべた場所と同じだった。
鎖で船を留め、桶を押さえ、漁師が甲冑を着る浜。
「この港の魚介か」
「ええ。夏の終わりにまとめて干したものです」
「今年は多かった。港では、干す前から騒がしかったと聞きました」
「あれを『騒がしかった』で片づけたのか」
「荷札には、そう書けませんから」
酒番は荷札の端を指で一度弾いた。
「荷札に、甲冑漁師の戦利品と書いたら、山側の客が買いにくい」
「逆に買う客もいる」
「それも困るんです」
干物箱の横には、山側から来た麦袋が積まれていた。
火酒のない朝、焦げた麦にのせた干物はどれも声を上げなかった。
ただ、今年の魚介は、干されても夏の磯合戦を忘れていなかった。
「竜の息吹は、この宿場の酒か」
「この宿場で造っているわけではありません」
酒番は黒瓶を置く棚の方を見た。
「山の向こうの蒸留所から来ます。竜が凍えた者を息で温めた昔話から、名を取ったそうです」
「死んだものにも、か」
「一度だけなら生き返る、と信じる人もいます」
「信じているのか」
「客に勧めるほど信じてはいません」
酒番は箱の布をかけ直した。
「ただ、名前につられて飲みたがる客はいます」
「名は強いからな」
風が吹き、干物箱の布が低く鳴った。
布の下で、干しイカか何かが擦れた音がする。
リュカと酒番は、同時に布を見た。
「今夜も、同じことが起きますかね」
「起きるかもしれない」
「今夜は、火酒を止めた方がいいですか」
「止めれば、隠れて飲む客もいる」
酒番は干物箱の布を押さえた。
「先に水を飲ませます。火酒のあとにも、もう一杯」
昼には、折れた車軸の替えが届いた。
だが、荷の積み直しに時間がかかり、山側の道は夕方まで詰まることになった。
旅人たちは、もう一晩泊まるか、道端で待つかを選んだ。
道端で待つには風が冷たい。
宿の食堂には、焼き餅と干物がある。
道端で待つ者は、ほとんどいなかった。
夕方までのあいだ、宿の前の荷車が減り、酒棚の影が食堂の床へ伸びた。
折れた車軸の周りでは、荷運びが麦袋を下ろしていた。
袋を下ろすたび、乾いた粉の匂いが立つ。
干物箱は別の荷台へ移され、箱の角が石畳に当たるたび軽い音を出した。
リュカは頼まれて、荷台の端を持ち上げるのを手伝った。
膝を曲げる。
肩を入れ、車輪が石に乗るまで押す。
荷運びが木片を噛ませ、鎖を掛ける。
「助かったよ」
荷運びが言った。
「食べた分だけだ」
「まだ食べるだろう」
「なら、先払いだ」
荷運びは笑い、額の汗を袖で拭った。
袖口には、昨日と同じ白い塩が吹いている。
宿場の井戸では、山側の女が水を汲んでいた。
桶の縁に手をかけ、井戸の縄を引く。
水は冷たい。
引き上げた桶から、井戸の石へしずくが落ちた。
「今夜は水がよく出そうだね」
女が言った。
「水なら出る」
リュカは答えた。
「火酒は出るのか」
「酒番に聞け」
「聞いたら出てきそうだから、聞かない」
「それは賢明だ」
「あんたまでそれを言うのかい」
女は笑い、桶の水を宿の裏へ運んだ。
そこで、桶の水を食堂の水差しへ移した。
水差しの中で、汲みたての水が揺れた。
夕方近く、宿の前に子どもが二人来た。
二人とも、宿の井戸の方から走ってきた。
干物箱の近くで背伸びをして、中をのぞこうとしている。
子どもの一人が布へ伸ばしかけた手を、背中へ回した。
「大人も言われてた」
「大人も言われます」
子どもたちは笑って、干し海老の箱を見た。
「これ、跳ねる?」
「干してあるから跳ねない」
酒番が答えた。
「生きてる時は?」
「港で聞きなさい」
「港までは遠い」
「なら、食べるだけにしなさい」
酒番が箱を覆うと、二人は笑いながら走っていった。
「子どもにも干物は出すのか」
「小さい皿で。飲ませるのは水だけです」
「なら、あの声は出ないはずだ」
「そう思えるだけで、少し助かります」
黒瓶の前には、水差しだけが残った。
干物箱の布は、子どもの指が届く高さでまた揺れていた。
夕鐘が鳴るころ、荷運びたちは食堂へ戻ってきた。
手は冷え、腹は空き、肩には麦袋の跡が残っている。
麦袋の跡が赤く残るほど働いた一日を、水だけでは終えられない。
だから、食堂にはまた薄いエールが出た。
麦の焼き餅も出た。
干物皿も出た。
そして、黒瓶も棚に残った。
その合間に、肩幅の広い旅人が宿帳の台へ立った。
「今夜は、相部屋の端なら空いています」
酒番が言った。
「食事も出るか」
「干物ならあります」
「端でいい」
酒番は水差しを洗い、棚の黒瓶の前へ置いた。




