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第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(3)

「……何の話をしていた」


 隣の客が、少し遅れて水の杯を卓へ置いた。


「今、お前がした話だ」


「今のを俺が言ったのか」


「墨横陣と言った」


「それは何だ」


 丸顔の男は、干しイカと自分の水の杯を見比べた。

 リュカは干しイカの皿を見た。

 次に、黒瓶を見る。


 酒番が、リュカの視線に気づいた。


「客人、少し聞いてもいいですか」


「何を知りたい」


「今のは、酒のせいですか」


「酒だけのせいではない」


 リュカは短く答えた。


「では、干しイカのせいですか」


「干しイカだけのせいでもない」


 酒番は、黒瓶の赤い紐から手を離した。

 棚の水差しを見て、黒瓶を見て、男の前に残った干しイカを見た。


「本人が覚えていないのが、一番困ります」


 酒番はそう言って、黒瓶を棚へ戻した。

 赤い紐が小さく揺れた。


 丸顔の男は、火酒の小杯を見たり、干しイカを見たり、水を飲んだりしていた。

 入口側の荷運びが、声を出さず「墨横」と口の形を作った。

 けれど、本人が水の杯を握ったまま首をかしげると、真似かけた口が閉じる。


「墨横陣って、港の言葉かい」


 山側の女が聞いた。


「港の言葉は知らない」


 酒番は黒瓶の首を布で拭きながら答えた。


「少なくとも、この宿場の言葉ではありません」


「港の喧嘩かね」


「港の喧嘩なら、もっと人の名が出ます」


 リュカは薄いエールを少し飲んだ。


「人の名ではなかった」


 丸顔の男が顔を上げた。


「俺は、人の名を言っていなかったのか」


「言っていない」


「なら、まだいいか」


「よくはない」


 年配の女がすぐに言った。


 丸顔の男は水の杯を両手で包んだ。


 酒番は干しイカを残し、火酒の小杯だけを下げた。


「食べるなとは言いません」


 酒番は丸顔の男に言った。


「飲むなら水を挟んでください」


「挟めばいいのか」


「今夜は、それで様子を見ます」


「明日はどうします」


「明日の顔色を見てからです」


 酒番は黒瓶を棚へ戻し、水差しを男の手前へ置いた。

 リュカはそれを見て、残りの焼き餅をちぎった。


 外では、夕鐘のあとに荷車の音が消えていった。

 食堂の窓には、干物箱の布が揺れる影が映っている。

 風が吹くたび、塩と麦と火酒の匂いが少しずつ混ざった。


 丸顔の男は、その夜、二杯目の竜の息吹を頼まなかった。

 食堂には、箸と水の杯の音だけが残った。

 年配の女が水差しを少し近くへ寄せた。


 翌朝、丸顔の男は食堂の隅で水を飲んでいた。

 水の杯を持つ手は震えていない。

 ただ、両隣の椅子が昨夜より少しずつ離れている。


「俺は本当に、兜どもを夜へ沈めると言ったのか」


「ああ、言ったよ」


 年配の女が答えた。


「誰の兜を沈めたんだ」


「知らないよ」


「俺は兜に恨みはない」


「あんたが知らないだけで、干しイカにはあるのかもしれない」


 丸顔の男は水の杯を両手で持った。


 酒番が、リュカの前に朝の膳を置いた。

 麦の焼き餅。

 炙った干魚。

 干しライム塩。

 薄いエール。


 膳の中身は昨夜と同じだが、水差しだけが昨夜より近い。

 火酒の小杯は、棚に伏せられたままだ。


「酔って忘れただけでしょうか」


「酔って忘れただけなら、『墨横陣』なんて言葉は出ない」


「では、何です」


 リュカは干魚をほぐした。

 皮の下から白い身が崩れる。


「干す前の魚介が、あの男の口を借りたんだろう」


 酒番は干物皿を見た。


「今年の魚介が、ですか」


「今年だけはな」


 リュカは焼き餅に干魚をのせた。


「今年の魚介は、少し元気すぎた」


「港で何かありましたか」


「少しあった」


 リュカは干しライム塩を落とした。


「説明すると長い」


「長いなら、今はやめておきます」


「その方がいい」


 丸顔の男が水を飲み干した。

 酒番は空いた杯を受け取り、次の水を置いた。

 酒番は水差しを持ち、次の卓へ回った。


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