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第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(2)

 そこまでは、何もおかしくなかった。

 おかしくなったのは、夕鐘が鳴り、外の荷車の音が減り、奥の席の男が赤い紐の黒瓶を見てからだった。


「酒番、こっちだ」


 声をかけたのは、食堂の奥に座る丸顔の男だった。

 髪は短く、上着の襟元は少し緩い。

 頬はもう、薄いエールで赤くなっている。


「竜の息吹を一杯」


 酒番は手を止め、年配の女は水の杯を引き寄せた。


「昨日も飲んだろう」


 年配の女が言った。


「昨日の俺は、もういない」


「一昨日もそう言ってたよ」


「一昨日の俺も、もういない」


「明日はどうする」


「明日の俺に聞け」


 丸顔の男は胸を張った。

 年配の女は、水の杯から手を離さなかった。


 酒番は水差しを持ち上げた。


「昨日のあなたは、今日のあなたに謝っていました」


「覚えていない」


「でしょうね」


 竜の息吹という名は、宿場の客にはよく知られている。

 火酒として強い。

 山側から来る商人は、冷えた手足を温めるために頼む。

 港側から来る荷運びは、塩気の強い干物に合わせたがる。

 常連は、飲んだあとに自分の足で相部屋まで歩けたかどうかで強さを測る。


 客たちが思い浮かべるのは、まず喉と腹を焼く熱だった。

 飲み切れば卓を叩き、立てなければ隣に笑われる。

 竜の名は、そんな火酒によく似合った。


 ただ、酒番は黒瓶を取る前に、水差しを引き寄せた。


「竜の息吹は、半杯でも出せます」


 酒番が言った。


「半分の竜など、ただの大蜥蜴だ」


「大蜥蜴で十分な夜もあります」


「今夜は竜だ」


 丸顔の男は干しイカを持ち上げた。


「秋の干しイカには、竜だ」


「干しイカに火酒は要りません」


「俺が求めている」


「それも困るんです」


 酒番は丸顔の男の緩んだ目元を見た。


「先に水を置きます」


「水は飲んだ」


「もう一杯置きます」


「小杯も置け」


 酒番は男の前に水の杯を置いてから、黒瓶と小杯を棚から下ろした。


 黒瓶の赤い紐は古い。

 瓶の底に、火を閉じ込めたような琥珀色が揺れている。


「一杯だけです」


「秋の干しイカを前に、一杯でやめろと言うのか」


「干しイカには薄いエールで足ります」


「俺には足りん」


 男は笑い、小皿から干しイカを一本取った。

 噛む。

 顎がゆっくり動き、塩気に目を細める。


 酒番は黒瓶を持ったまま、まだ注がなかった。


「今夜のことを、明日の朝に聞かされても怒りませんか」


「宿代は払った」


「その話ではありません」


 丸顔の男は、水の杯の縁を親指でこすった。


「覚えていないなら、俺の話じゃない」


「明日のあんたも、そう言えればいいけどね」


 酒番は男の前に水の杯をもう少し寄せた。


「では、一杯だけ」


「今夜は竜だな」


「一杯だけなら、小さい竜です」


「大蜥蜴よりはいい」


 酒番が竜の息吹を注いだ。

 小杯の中で、火酒は少しだけとろりと光った。


 リュカは干しイカを見た。

 細く裂かれた身。

 炙った端。

 薄い焦げ。

 そこに、ほんのわずかに墨の匂いが残っていた。


 男が火酒をあおった。


 喉が上下する。

 目が開く。

 椅子の縁をつかんでいた指が、ぴたりと止まった。


「我ら墨横陣、一列にあらず」


 男は小杯を掲げた。

 その声は、さっきまでの間延びした酔い声ではなかった。

 変に格調がある。

 変に湿っている。


「第二列あり」


 リュカは焼き餅を持ったまま止まった。


「黒雲を吐き、兜どもを夜へ沈めたり」


 干しイカを噛んだ男は、杯を掲げたまま、ゆっくりうなずいた。

 入口側の荷運びは、焼き餅を持ったまま口を閉じた。

 最初に口を開いたのは、隣にいた年配の女だった。


「あんた、誰と戦ってきたの」


 男は答えない。

 ただ、椅子の縁をつかむ指に力を入れた。


「墨横陣、退かず」


「退かなくていいから、座っていな」


 年配の女が言った。


 丸顔の男は座っていた。

 座ってはいたが、背筋だけがやけに伸びている。


「第二列、前へ進め」


「誰が第二列だ」


 入口側の荷運びが、自分の隣を見た。

 そこには誰もいない。


「俺の後ろに誰かいるのか」


「後ろにはいない」


 リュカは答えた。


 荷運びは、すぐ酒番を呼んだ。


「奥のあの男にも、水をもう一杯持ってきてくれ」


「置いてあります」


「もう一杯だ」


 酒番はすでに水差しを持っていた。

 丸顔の男の前へ水を置き、小杯を少し遠ざけた。


 丸顔の男は干しイカの残りを見た。

 それから、干しイカを皿の端へ置いた。


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