第七話 秋の膳 竜の息吹で磯合戦を語る酒飲み(1)
結論から言う。
塩風街道の秋の干物に竜の息吹を合わせると、身ではなく武勇伝が戻った。
港から一日半ほど内陸へ入ると、道の石に潮の白さだけが残る。
海は見えない。
乾いた風だけが、荷車の幌の端を払っていく。
夏の湿った匂いはもう薄い。
かわりに、干した魚と麦を焼く匂いが宿場の入口に流れていた。
塩風街道の宿場は、海沿いの港ほど騒がしくない。
港から届いた魚はここで干物にされ、山側へ向かう荷車へ積み替えられる。
港へ戻る者は、山の芋や麦袋を下ろす。
道の真ん中には、荷車の轍が二本、白い砂と赤い土を混ぜて続いていた。
リュカが宿場へ入った時、夕方の鐘はまだ鳴っていなかった。
けれど、食堂の外にはもう人がいた。
旅人が腰を下ろし、荷運びが肩紐を外し、宿の軒下では干物を入れた浅い箱が風に当てられている。
箱の中には、小さな干魚が並んでいた。
腹のあたりが薄く反り、皮は鈍い銀色をしている。
端には干し海老。
その横には、紐のように細く裂いた干しイカ。
布をかけた小皿からは、青い皮を干したような苦い香りがした。
リュカは食堂の入口で足を止めた。
「泊まれるか」
宿帳の台の向こうにいた男が顔を上げた。
年は三十を過ぎたくらいだろう。
袖を肘までまくり、片手に小さな杯を持っていた。
杯は洗ったばかりで、水滴が縁に残っている。
「相部屋の端なら、一人ぶん空いています」
男は奥の棚を見た。
棚には木札がかかっている。
空き札の隣に、酒瓶と水差しが並んでいた。
「食事も出るか」
「麦の焼き餅と干物なら出せます。薄いエールも」
「それでいい」
リュカは銅貨を置いた。
男は先に札を取った。
それから銅貨を数え、浅い箱の中の干魚を見た。
「火酒はいりますか」
男は棚の奥へ目だけをやった。
そこに、細い黒瓶が一本あった。
首のところに赤い紐が結ばれている。
「火酒はいらない」
「それは賢明です」
「勧めておいて、そう言うのか」
「聞くのは仕事です。止めるのも、少しだけ仕事です」
男はそう言って、空の小杯を棚へ戻した。
小杯の底は、棚板にほとんど音を立てなかった。
黒瓶の前には水差しが一つ置かれている。
客からは、赤い紐より先に水差しが見える。
リュカは食堂の端の席へ座った。
壁際の席で、入口と宿帳の台と酒棚が見える。
リュカは、旅先ではそういう席を選ぶ。
食堂は細長い。
入口に近い席は荷運びが使い、奥の席は宿泊客が使う。
宿帳の台の後ろには酒棚。
反対側の壁には干物の箱が三つ置かれていた。
一つは今夜使う箱。
一つは明日の朝に回す箱。
一つは、布を厚くかけて、まだ開けない箱。
酒番は客の顔より先に箱の布を見て、今夜使う箱の残りを確かめていた。
リュカの隣では、山側から来た女が靴紐をほどいていた。
靴の縁には赤土が固まり、爪先には白い塩がついている。
女は靴を椅子の下へ入れ、塩のついた爪先を奥へ向けた。
「相部屋は寒いかい」
女がリュカに聞いた。
「端なら寒いだろう」
「真ん中はうるさいよ」
「端で構わない」
「旅慣れてるね」
女は靴紐をほどき終え、椅子の下へ靴を寄せた。
それから、台の後ろの酒棚を見た。
「竜の息吹、まだあるんだ」
「まだあります」
酒番が答えた。
「今年はよく出るね」
「ええ。今年のは、翌朝まで残るそうです」
「何が残るんだい」
「酔いです」
女は笑った。
酒番は水差しを引き寄せた。
減ったぶんだけ、水を足した。
食堂の奥では、若い荷運びが二人、干物の箱をのぞきこんでいた。
片方が指を伸ばす前に、酒番が言った。
「触るなら、買ってから」
「見てるだけだ」
「指は伸びかけていました」
荷運びは手を引っ込めた。
その手の甲には、荷紐の跡が赤く残っている。
宿の奥から、焼き餅を返す音がした。
鉄板の上で麦の生地が短く鳴り、焦げた匂いが食堂へ流れる。
干物の塩気と、麦の焦げ。
そこへ、干しライムの皮を擦ったような苦味が重なった。
リュカは上着の前を少し開けた。
港から離れた道の風は、夕方になると急に冷える。
焼ける麦の匂いが、冷えた襟元まで届いた。
しばらくして、膳が来た。
麦の焼き餅が一枚。
表面は薄く焦げ、割れ目から湯気が上がっている。
その上に炙った干魚が二つ。
脇に干し海老。
小皿には干しライム塩。
杯には、薄いエール。
リュカは焼き餅を手で割った。
中は柔らかい。
干魚の皮を少しほぐし、干しライム塩を指先で落とす。
口に入れると、最初に麦の香ばしさが来た。
次に干魚の塩気。
あとから、干しライムの苦い酸味が舌を引き締める。
薄いエールを飲む。
苦みは軽い。
魚の塩気を消しすぎず、麦の焼き餅の焦げを残した。
「干魚に合うな」
酒番の男が、宿帳の台の向こうで小さくうなずいた。
「山側の客は、塩を強くしたがります」
「港側はどうだ」
「干す前の味を知っているから、塩に文句を言います」
「港側は面倒だな」
「港側も山側も来ますから」
酒番はそう言って、別の客の前へ干物皿を置いた。
その客は荷運びらしく、袖口に白い塩が吹いている。
皿を受けると、焼き餅の上に干し海老を三つのせた。
「火酒もあるのか。まあ、今日は薄いのでいい」
「それも賢明です」
「お前、火酒に恨みでもあるのか」
「ありません。火酒は悪くありません」
酒番は水差しを持ち上げた。
「ただ、一杯でやめる人が少ないんです」
荷運びは笑った。
薄いエールの杯を受け取り、干し海老を噛む。
肩から少し力が抜けた。
食堂の中では、まだ食事の音が続いていた。
干魚をほぐす者。
焼き餅を半分だけ残す者。
干しライム塩をつけすぎて顔をしかめる者。
山側の女は、焼き餅の端を小さくちぎって、干しライム塩をほんの少しだけつけた。
苦味に目を細める。
それから薄いエールを飲み、息を長く吐いた。
「山の塩漬けより軽い」
「山の塩漬けと比べないでください」
酒番が言った。
「褒めてるんだよ」
「分かりにくい褒め方です」
荷運びの一人は、焼き餅の上に干し海老を並べていた。
干し海老を三つ、四つ、五つ。
隣の荷運びがそれを見て、皿の端を指で押さえる。
「海老ばかり取るな」
「先に取った方が勝ちだ」
「食卓で勝負をしないでください」
酒番が短く言った。
「海老は二人で分けてください」
荷運びは渋々、干し海老を二つ、皿の端へ置いた。
細い殻がぶつかり、軽い音を立てた。
干物は浅い皿から焼き餅へ移り、薄いエールと一緒に飲み込まれていく。
焼き餅には、干物の塩気が染みている。




