第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(10)
夜が深くなっても、宿の裏では水の音がしていた。
漁師たちは一人ずつ甲冑を脱ぎ、塩を落とし、革紐を伸ばして干す。
濡れた革は、乾かし方を間違えると翌朝硬くなる。
硬くなった革紐は締めきれず、脛当てに隙間ができる。
そこへ後ろ跳びした海老が入り込む。
リュカは洗い場の水を替えた。
兜の墨は落ちたが、布には黒い筋が残った。
桶番がその布を見て、別のたらいへ入れた。
「墨を吸った布は、分けて洗うのか」
「はい。白い布と混ぜると、全部が薄く黒くなります」
桶番は、黒い布を押し沈めた。
「黒くなった白布は、どうする」
「墨布へ回します」
洗い場の壁には、布を入れる籠が三つ並んでいた。
白布。
墨布。
油布。
油布の籠から、鋏で裂かれた布の端がはみ出している。
「油布は、どれも穴が開いているな」
「蟹に切られた布です。鎖の油なら、穴があっても拭けます」
「兜を拭いた布は、洗えば白布へ戻せるだろう」
桶番は、たらいの中の兜を指した。
水面には、落ちた墨と赤い錆が薄く浮いている。
「汗と墨と錆を吸った布で、皿を拭きますか」
「それなら、白布には戻せないな」
桶番は黒い布を絞り、墨布の籠へ入れた。
洗い終えた兜をたらいから上げ、棚へ伏せた。
洗い場の水音が止むころ、宿の主人はリュカを昨夜と同じ寝床へ案内した。
翌朝、港はまた鎖の音で始まった。
鎖番は船、網、大桶の鎖を確かめた。
桶番は、空になった甲砕き桶を軒下へ運んだ。
順番札の一番は、大桶の取っ手に結ばれていた。
兜は棚に残り、親方は頭布だけを巻いた。
盾持ちは、へこんだ盾をそのまま背負った。
「兜も盾も後回しか」
リュカが聞くと、親方は頭布の端を押さえた。
「頭は布で足りる。盾はへこんでいても受けられる」
朝飯には、主人が宿で取り分けて干した小魚が出た。
薄い魚汁には、一昨日より少しだけ身が多い。
冷やした瓜はない。
代わりに、塩で締めた瓜が小皿に置かれていた。
商人の一人が椀を見て言った。
「一昨日より魚がある」
「昨日のうちに、朝の分を取り分けて干しました」
宿の主人は答えた。
「夜の膳へ全部出さなかったのか」
「全部出せば、今朝の汁がまた薄くなります」
商人は汁を飲み、椀の底の小骨まで匙で追った。
リュカも椀を持った。
薄い汁だが、一昨日の昼より身がある。
小魚は硬く、噛むと塩が先に出る。
そのあとで、魚の甘さが少し残った。
宿の主人は、商人の空いた椀を下げた。
リュカは椀を置いた。
リュカの椀にも、小骨は残っていなかった。
宿の主人が、台所から小さな包みを持ってきた。
干した小魚と、薄く切った瓜を塩で締めたものだった。
「昼にどうぞ」
主人は包みの紐をきつく結び直して差し出し、リュカは受け取った。
鎖番が次の漁の前に杭の輪を確かめ、鎖が短く鳴った。
リュカは宿の軒先へ出た。
船は、昨日と同じように鎖でつながれている。
大桶も、網も、生け簀も、鎖で留めてある。
鎖番は、もう二つ目の杭の輪に手をかけていた。
静かな港の奥で、蟹が一匹、杭の下を横切った。
鎖へ鋏をかける。
かつ、と鳴った。
切れない。
蟹は横へ歩いていった。
「また来るのか」
リュカが言うと、親方は棚の兜へ目もやらず答えた。
「夏だからな」
宿の主人が、大桶の細い鎖を外し、空の桶を軒下へ伏せた。
港の鎖は、朝の光の中でまだ濡れていた。
兜は乾かされ、盾には順番札がつく。
リュカは、墨の匂いが残る指先を水で洗った。
最後まで、杖は使わなかった。
指先から落ちた水だけが、港の石を打った。




