第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(8)
夕方近く、親方が手を上げ、鐘役が最後の鐘を鳴らした。
港へ戻る鐘だった。
盾持ちは盾を下げた。
リュカと桶番が大桶の取っ手を持ち、親方と若い漁師が甲砕きの桶を運んだ。
宿の主人は、盾列の後ろへ置いた兜を濡れ布ごと抱えた。
宿の軒下へ着くと、二組は桶を下ろした。
「桶、二つ。どちらも戻った」
鎖番が言った。
それから、親方の頭布を見た。
「兜はどうした」
親方は、主人が抱えた墨まみれの兜を指した。
「蛸から取り戻した。まだ洗っていない」
宿の主人が差し出した兜を、リュカは濡れ布ごと受け取った。
黒い水が布の端から落ちる。
重い。
兜の内側に残った水が、腕を動かすたび揺れた。
「これは、どこへ運ぶ」
宿の主人は、墨の垂れる布から一歩下がった。
「裏の洗い場へ。台所には近づけないでください」
親方は短く頷き、甲砕きの桶へ戻った。
リュカは布に包んだ兜を運んだ。
大桶を運ぶより、よほど地味だった。
宿の主人は入口の客を数え、大桶の蓋を開けた。
濡れた台には、海水を張った仕切りのある木箱が置かれていた。
主人は二つの仕切りへ「今夜」と「明朝」の木札を差した。
主人は柄付きの小網で、大桶から魚介を一つずつ掬い上げ、大きさと傷みを見て、どちらかの仕切りへ移した。
木札の文字は少し滲んでいる。
主人は、大きい跳ね魚を「今夜」へ、身の薄い跳ね魚を「明朝」へ移した。
明朝の魚は、あとで干す。
主人は、欠けた貝の殻の割れ方をもう一度見て「今夜」へ回し、甲砕きだけは厚蓋桶に残した。
「客には選ばせないのか」
「空腹の者に任せると、だいたい多く取ります」
主人は甲砕きの桶の蓋へ手を置いた。
厚い蓋の下で、まだ小さな音がしている。
「主役なのに、最後なのか」
「主役だから最後です。先に焼くと、客が炙り台ばかり見ます」
主人は炙り台の場所を空け、冷やした瓜の籠を台所の端へ移した。
籠から一切れ取り、リュカへ渡した。
リュカはその場でかじった。
ぬるくなっていたが、噛むと水気が口に広がった。
香草の匂いが、墨の匂いを少しだけ押した。
「瓜を先に出せば、客は炙り台へ寄りません」
主人は布を外し、汲みたての井戸水へ籠ごと沈めた。
魚介の前に、瓜をもう一度冷やす。
籠の目から、冷えた水が一筋落ちた。
鎖番は港へ残り、船と網の鎖を掛け直した。
盾持ちは、へこんだ盾を洗い場へ並べる。
鐘役は小鐘の紐を指から外し、真水で洗った。
親方は、兜の代わりに頭布を巻いたまま、大桶の蓋と鎖を確かめた。
桶番は甲砕きの桶を、洗い場の日陰へ置いた。
リュカは、厚い蓋の下の音を聞いた。
「すぐ開けないのか」
「まだ暴れます。水は替えますが、弱らせません」
桶番は厚い蓋へ手を置いた。
甲砕きの桶は、重い蓋の下で静かになりかけていた。
桶番は蓋を少し開け、水を替えてすぐ閉じた。
それだけでまた、どん、と中が鳴った。
「活きを保つのも手間だな」
「手間ですが、その分うまいです」
日が落ちると、親方と桶番が甲砕きの桶を台所の土間へ運んだ。
親方が蓋を押さえ、桶番が鎖を外して蓋を少しずらす。
主人は長い棒を二本差し入れ、甲砕きを両脇から挟んで炙り台へ移した。
濡れた殻が炙り台で、じゅっと鳴った。
夜の宿は、昼とは別の音で満ちた。
甲冑の音は裏へ消え、台所からは包丁と鍋の音がした。
魚介を洗う水。
蟹の殻が鍋へ当たる音。
香草を刻む音。
炙り台の火が、脂を受けて短く鳴る音。
リュカは裏の洗い場で、兜をたらいへ沈めた。
黒い墨が水に広がる。
一度目の水はすぐ使えなくなった。
二度目の水も、まだ黒い。
宿の主人が、台所から顔を出した。
「食べる前に洗いきらなくてもいいですよ」
「こいつを黒いまま置いて、先に食えるか」
「膳が冷めます」
「冷めるものから先に食う」
主人は頷き、台所へ戻った。
リュカは兜をたらいへ沈めたまま、広間へ戻った。
すぐに、最初の皿が出た。
冷やした瓜だった。
井戸水で冷やし直され、縁に青い香草が少し増えている。
魚介を待つ客の皿へ、瓜が先に置かれた。
商人は冷えた瓜を噛み、瓜の皿の端を指で押さえた。
商人はもう一切れを口へ入れてから、主人へ声をかけた。
「昼より冷えている」
「昼より長く冷やしましたから」
宿の主人は、次の椀を盆に置きながら答えた。
蟹汁は、大鍋から順に出た。
蟹の殻は赤く、昼に鎖を鋏で挟んだものと同じ形をしている。
客の一人が殻を見て、窓の外の鎖へ目を向けた。
「これが、綱を切るのか」
「切ります。汁に入った今は、もう切りません」
鎖番が入口から答えた。
まだ港の見回りの途中で、濡れた手を布で拭いている。
蟹汁の匙が、広間でいくつも鳴った。
鎖番は、匙の音を背にして港へ戻った。




