第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(7)
墨が薄くなったころ、引き波が魚介の音をまとめてさらった。
海が静かになった。
静かすぎた。
親方が盾持ちの一人へ顎をしゃくった。
その一人が半歩前へ出て、ほかの盾持ちは半歩引く。
「次が来るぞ!」
「何が来るんだ!」
リュカが聞く。
親方が答えるより先に、水面が割れた。
先に来たのは、水だった。
小さな波が一つ、盾列の足元へ横から入る。
魚も貝も見えない。
それでも盾持ちは、足を動かさなかった。
小鐘が一度だけ鳴る。
止まる音。
水面の下で、細い影が曲がった。
若い漁師が、柄付きの小さな鎖網を出しかける。
親方は首を横へ振った。
「まだ網を出すな!」
次の影は、もっと近かった。
盾の前を横切り、急に止まる。
止まったところから、砂がわずかに舞った。
「打つ前に動くな!」
「打たれてから動くのか」
「盾へ打たせる。先に動いて、狙いを変えさせるな!」
親方は盾の縁を指で叩いた。
シャコだった。
体は大きくない。
けれど、前の腕が太い。
その腕が水の中から打ち出され、盾の中央へ当たった。
音が違った。
魚や海老や貝の音ではない。
鉄板を小さな槌で打ったような、硬く短い音だった。
盾持ちは、盾を砂へ取り落とした。
「あれが甲砕きだ」
盾持ちの一人が言った。
へこんだ盾の縁から、濁った水が滴っていた。
「食材につける名ではないだろう」
「食うまでは敵だ」
親方はへこんだ盾を拾い、元の盾持ちへ渡した。
「一人で受けるな!」
へこんだ盾の左右へ、別の盾持ちが一人ずつ出た。
三枚の盾が重なり、へこんだ面をシャコへ向けた。
シャコがもう一度打つ。
今度は低い。
盾の下端が跳ね、砂が水へ舞った。
若い漁師が反射で、柄付きの鎖網を落とした。
シャコは横へ抜け、代わりに海老が一匹、木枠へ引っかかった。
「網を落とすのが早い!」
「すみません!」
「謝るな! 次を見ろ!」
若い漁師は、海老をぶら下げた網を引いた。
桶番がそれを見て、大桶の蓋を半分開けた。
「その海老も大桶へ!」
「今、それどころじゃないだろう!」
「今、入れなければ逃げます」
若い漁師が網を傾けて海老を大桶へ落とし、桶番がすぐ蓋を閉めた。
中央の盾持ちが、へこんだ盾をシャコへ向けた。
左右の盾持ちは、横へ抜ける道へ盾を寄せる。
シャコが中央へ打つ。
打った瞬間、左右の盾持ちが盾を内側へ向け、シャコの逃げ道を塞いだ。
若い漁師が上から鎖網を落とす。
シャコは網の下で跳ねた。
腕がもう一度動く。
網の木枠が鳴る。
「甲砕き用の厚蓋桶を出せ!」
桶番が盾列の後ろに置いていた、小ぶりな桶を引き寄せた。
大桶より小さく、蓋が厚い。
蓋の上には、あらかじめ鎖が通してある。
桶番は蓋を、シャコの体が通るだけずらした。
「甲砕き専用か」
「普通の蓋では割られます」
桶番は、その隙間へ網の口を合わせた。
若い漁師が鎖網の柄を持ち上げた。
盾持ち二人が盾の縁で網の両脇を狭めた。
シャコが桶へ滑り落ちた。
桶番がすぐ蓋を閉め、上から鎖を回した。
中で、どん、と音がした。
蓋が一度浮きかける。
リュカは反射的に蓋へ手を伸ばしたが、桶番の方が早く押し戻した。
「蓋に触らないでください!」
「浮いたから押さえようとした」
「甲砕きは、中から蓋を打ちます。押さえるのは私です!」
リュカは手を引いた。
桶番は蓋に通した鎖を締めた。
鎖が蓋の上で張った。
「これも食うのか」
リュカが聞く。
「これは食う」
親方はへこんだ盾の中央を指で叩いた。
「このへこみを作る大きさなら、膳へ回す」
リュカは桶の蓋へ耳を向けた。
中で、もう一度、どん、と音がする。
「まだ元気だな」
「だからうまい」
桶番は厚い蓋を押さえた。
その後ろで、小さなシャコが一匹、網の端にかかった。
腕は細く、盾をへこませるほどではない。
若い漁師が網の柄を握った。
「その小さいシャコは、海へ戻せ!」
桶番が言った。
「同じシャコでもか」
「まだ食べるには小さいので、海へ戻します」
若い漁師の網は、大桶へ向きかけて止まった。
親方は盾の外側、波の戻る方を指した。
若い漁師は網を水面へ下ろした。
小さなシャコは細い腕を一度動かし、浅い水へ滑り落ちた。
「敵を返すのは、変な気分だな」
若い漁師が言った。
「来年、盾をへこませに来ます」
若い漁師は網を海水ですすいだ。
「嫌な励ましだ」
「励ましていません」
そのあとも、魚介は組み合わせを変えて押し寄せた。
魚介の切れ目に、網持ちが岩際のウニを柄付き網で掬い、若い漁師が墨を吐き終えたイカへ別の網をかぶせた。
桶番が大桶の蓋を開け、二人はウニとイカをそれぞれの網から落とした。
盾持ちは、張りついたヒトデだけを海へ返した。
桶番が蓋を閉めると、また魚が盾を鳴らした。
「魚介同士で合図でもしているのか」
「合図は潮だ」
親方は、へこんだ盾を水ですすいだ。
「揃っているように見えるだけだ。痛いのは本物だ」
鐘は、間を空けて何度も鳴った。
網を直し、鎖を掛け直す。
満ちた大桶を後ろへ下げ、盾を洗い、墨の布を絞る。
夜明けに浜へ出た漁師たちは、昼を過ぎても磯場にいた。
宿の主人は、大桶の蓋を少し開け、中を確かめた。
「全部、夜に出すのか」
リュカが聞くと、主人は首を振った。
「今夜出す分だけ、宿へ戻ってから客の数と魚介の大きさを見て取り分けます」
主人は大桶の蓋を閉め直した。
厚い蓋の下で、甲砕きが一度だけ鳴った。




