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第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(6)

 親方が腕を岩場へ振り、鐘役が小鐘を続けざまに鳴らした。

 漁師たちは、一斉に岩場へ向き直った。


 今度は、岩場の上が動いた。


 岩場の上に、ヒトデがいた。

 濡れた岩に貼りついているだけに見える。

 波が岩場を洗った。

 次の瞬間、その一つが剥がれて飛んだ。


 盾持ちが盾を傾け、鉄の縁で弾いた。

 かん、と甲高い音がした。

 ヒトデは平たい体を回しながら横へ飛び、隣の盾の面へべたりと張りついた。


「まだ剥がすな! 裏から海老が来る!」


 若い漁師は、ヒトデへ伸ばした手を止めた。


 盾の下から、海老が跳ねた。

 脛当てに当たる。

 若い漁師は足を引いたが、盾は下げたままにした。


 次の波が岩場の隙間へ入り、ウニを一つ弾き出した。

 黒い棘の塊が盾の縁へ当たり、手首の脇へ転がる。

 棘は鎧を貫くほどではない。

 だが、手首や首筋へ落ちれば痛い。

 漁師たちは盾を少し斜めにし、岩場へ近づいた。


 盾の面にはヒトデ、下には海老、その向こうでは波に弾かれたウニが転がる。

 ヒトデの張りついた盾だけが、重みで少しずつ下がる。


「ヒトデは食えないのに、盾を重くするのか」


「そこが一番腹立たしい!」


 親方は盾列の後ろから怒鳴った。


 鐘役が小鐘を持って前へ出る。


 小鐘が一度鳴ると、盾列が止まる。

 二度鳴ると、大桶が後ろへ下がる。

 三度鳴ると、鎖番が岩場の右へ回る。


 鐘役はほとんどしゃべらない。

 小鐘の紐を濡れた指に巻き、親方の手だけを見ている。

 親方が肩の高さへ手を上げれば一つ。

 盾の縁へ下げれば二つ。

 兜の縁へ触れれば三つ。


 波音の中では、声は遠くまで届かない。

 小鐘の音は盾列の端まで通った。


 波に剥がされたヒトデがまた飛んだ。

 今度は盾ではなく、大桶の蓋へ張りつく。

 桶番は剥がさない。

 波が蓋の上を洗う位置まで、大桶を半歩寄せた。

 ヒトデはしばらく張りつき、波を受けて落ちた。


「剥がせば早いだろう」


「剥がしている間に、中の魚介が蓋を押します」


 その次の瞬間、大桶の蓋が内側から押された。

 桶番は蓋の反対側へ手を移す。

 ヒトデを剥がしていれば、間に合わなかった。


「おまけに、剥がした手へ張りつきます」


 桶番は、大桶の短い係留鎖を杭から外した。


「盾の後ろまで、一緒に運んでください!」


「俺の持ち場は、大桶の後ろだろう」


「運び終えたら、そこが持ち場です。大桶より前へ出ないでください!」


 リュカと桶番は片側ずつ取っ手を持った。

 水と魚介が入った大桶は重い。

 二人で持ち上げ、歩調を合わせて盾列の後ろへ運んだ。

 大桶を下ろすと、桶番は取っ手の引き綱をリュカへ渡した。

 岩場から転がったウニが盾に当たり、棘が鉄を細く擦る。

 波に剥がれたヒトデがもう一枚飛び、親方の肩当てへ張りついた。

 親方は剥がさず、声を出す。


「左を低く構えろ!」


 左の盾が下がる。


 墨の匂いがした。

 まだ水は黒くない。

 けれど、海の匂いの中に、ぬめるような濃い匂いが混じった。


 親方は兜の縁を押さえた。


「イカが来る! 墨に備えろ!」


 水面に黒い線が並んだ。

 一匹ずつではない。

 横に並んでいる。

 水の下で、白い腕が揃って揺れた。


 鐘役が小鐘を握り直した。


 イカが一斉に墨を吐いた。

 水面が黒くなった。

 前が見えない。

 盾も岩も、足元の水も、境目が消える。


 声が重なる。

 親方の低い声だけが、黒い水の上を通った。


「鐘を二つ鳴らせ!」


 小鐘が二度鳴る。

 リュカは合図を受け、取っ手の引き綱を引いた。

 大桶が盾列から離れた。

 黒い水の中で、リュカは掌にかかる引き綱の張りから、桶の位置を探った。


「鎖を鳴らせ!」


 鎖番が鎖を鳴らす。

 右の杭。

 左の杭。

 音で互いの位置を確かめる。


 黒い水の中で、誰かの足が桶へ当たった。

 桶がずれる。

 リュカは引き綱を引いたが、どちらへ引けばいいか分からない。


 小鐘が一度鳴り、盾列が止まった。

 桶番はリュカの手首を軽く叩いた。

 リュカは引くのをやめた。


 桶番はそのまま、リュカの手首を膝元へ押し戻した。

 桶を足元へ戻せという合図だった。


 リュカは桶を膝元へ寄せた。

 すぐ横で、水が細く鳴った。

 何かが、桶のあった場所を滑っていく。

 桶がそこにあれば、蓋の紐を取られていた。


「今のが見えたのか」


「見えません。見えない時は、桶を足元へ戻します」


 リュカは、引き綱を自分の膝の横へ寄せ、大桶の後ろから足を出さなかった。


 水面の黒が少し薄くなったところで、二列目が来た。

 白い腕がまた横に並ぶ。


「イカの二列目が来ます!」


 若い漁師が声を上げた。


「息を吸うな! もう一度来るぞ!」


 親方が命じた直後、イカの二列目が残った黒へもう一度墨を吐いた。

 黒が重なった中で、親方の兜の紐が軋んだ。

 吸盤が鉄へ張りつき、剥がれ、また張りつく湿った音がした。

 親方の脛当てが、岩を横へ擦る音がした。


「親方が取られた!」


 若い漁師が叫んだ。


「何に取られた!」


 リュカは大桶を押さえたまま聞き返した。


「蛸に取られた!」


 兜の紐が、もう一度軋んだ。

 親方の声は出ない。


 若い漁師が、親方の声が途切れた方へ駆けた。

 鎧が鳴り、濡れた砂を蹴る音が続く。

 盾持ちが盾の縁を脛当てへ当て、その足を止めた。


「親方へ行くな!」


「親方が取られたままだ!」


「先に桶を見ろ!」


 若い漁師は桶へ戻り、大桶の蓋を押さえた。


 小鐘が鳴りかけ、半端な音で止まった。

 親方が墨の中で、鐘役の手首を一度叩いた。

 鐘役は、親方の手を一度握り返した。


 網持ちが、吸盤の音へ向けて網を広げた。

 網の木枠が親方の肩当てへ当たり、木と鉄が鳴った。

 濡れた網が、兜と頭布へ落ちる音が重なった。


「親方まで獲るな!」


 リュカが言うと、盾持ちが短く笑った。

 砂へ押しつけられた盾の縁は、波を受けて鳴っていた。


 鐘役は、親方の手合図を待たずに小鐘を一度鳴らした。

 盾列が止まる。

 ひと息置いて、二度鳴らす。

 大桶が下がる。

 もうひと息置いて、三度鳴らす。

 鎖番が岩場の右へ回った。


 親方は顎を引いて紐を外し、蛸に引かれる兜から頭を抜いた。

 網の底で、吸盤が頭布から兜へ移る湿った音がした。


「兜は網に入ったか」


 親方の声が戻った。


「入っています。後で拾います」


 網持ちが答えると、親方の足音が盾列の後ろへ戻った。

 濡れた砂を踏み直す音が二度した。


「よし、続けろ!」


 盾の縁がまた鳴り、大桶の引き綱が張った。


 網持ちが網を運ぶと、木枠が大桶の縁へ当たった。

 桶番が蓋を開ける。

 宿の主人が濡れ布で兜を引くと、吸盤が鉄から剥がれ、大桶の内壁へ移る湿った音がした。

 兜の重みだけが布に残ったところで、桶番が蓋を閉めた。

 主人は兜を濡れ布に包み、盾列の後ろへ置いた。

 濡れ布から、墨の匂いが強く立った。


 若い漁師が親方の方へ半歩動くと、鎧が一度鳴った。


「親方、無事ですか!」


「大桶を押さえろ!」


 親方が答え、頭布から水を絞る音がした。


 若い漁師が半歩退いて大桶の蓋を押さえ直すと、縁が少し鳴った。


 宿の主人は、濡れ布に包んだ兜を指した。


「それは台所へ持ち込まないでください」


「分かっている。台所へ行くのは蛸だ」


 兜を包んだ濡れ布から、しずくが岩へ落ち、小さく鳴った。


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