第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(2)
親方は土間の端の兜を抱えた。
「明日の漁で、夜の膳を揃える」
「夜明けに出るのか」
「夜明けの鐘で出る」
親方は外へ出ながら、軒先の鎖を足で避けた。
親方が去ったあと、宿の主人は大桶の蓋を外し、取っ手の引き綱と蓋の紐を確かめた。
宿の主人は、冷やした瓜の籠を日陰へ移した。
瓜は多い。
香草もある。
湯を沸かす薪も、椀も足りている。
足りないのは、膳の真ん中に置く魚介だけだった。
入口近くの席で、荷を解いた商人の匙が一度だけ止まった。
商人は薄い魚汁の椀を両手で持ち、底の小さな身を匙に寄せた。
もう一度だけ湯気を吸った。
「今日は、これだけか」
「今日の昼は、これだけです」
宿の主人はそう答え、冷やした瓜の籠へ布を一枚かけた。
別の席では、港へ荷を下ろしに来た二人連れが、窓の外の鎖を見ている。
片方は、窓越しに濡れた網の切り跡を指さしていた。
「あれは毎年か」
リュカが聞くと、宿の主人は洗った椀を台所の棚へ伏せた。
「毎年、夏はこうです」
「なら、もう慣れているだろう」
「慣れていても、人手は増えません」
主人が空の大桶を指で押すと、大桶は石畳を軽く滑った。
主人は足先で、その縁を止めた。
「慣れているから、どこが足りないか分かるんです」
台所の奥では、青い香草が刻まれていた。
刃が木の台を打つたび、香りが少しずつ広がる。
それだけなら涼しい夏の匂いだ。
だが、香草をのせる魚介がなければ、匂いだけが先に立ってしまう。
リュカは椀の底に残った魚の身を食べた。
汁は薄い。
けれど、宿が惜しんで薄くしている味ではない。
今日の港から出せる分を、客の椀へ細く伸ばした味だった。
「明日、魚介が獲れなければ、どうする」
リュカが言うと、主人は洗った椀をもう一つ伏せた。
「瓜は冷えています」
「それでは泊まり客の腹はどうなる」
「腹は冷えます」
主人は淡々と言った。
「だから漁へ出るんです」
日が傾くころ、鎖番が港の杭を一つずつ確かめて回った。
杭に掛かる輪。
船へ伸びる鎖。
生け簀の枠に回した鎖。
網の端へ通した鎖。
鎖番は、確かめた数を口にした。
「船、三つ」
杭を叩く。
「網、二つ」
網の端を持ち上げる。
鎖番は、すぐ次の杭へ歩いた。
桶番は、宿の裏で蓋を並べていた。
蓋には墨の跡、爪の跡、鋏で削られた跡がある。
新しい蓋はない。
古い蓋の削れたところに布を当て、紐を締め直して使う。
「蓋まで傷だらけだな」
リュカが声をかけると、桶番は蓋を裏返した。
「傷がない蓋は、夏を越していません」
「縁起の話か」
「魚介が逃げ出すかどうかの話です」
桶番は、蓋の縁へ指を走らせた。
ほんの小さな欠けで指が止まる。
「ここから海老が押すと、蓋が浮きます」
「海老が蓋を押すのか」
「大桶の中では、何でも押します」
桶番は欠けた縁へ濡れ布を巻いた。
日が落ちる前、漁師たちが魚籠を一つ運んできた。
中に入っていたのは、細身の魚がわずかだった。
今夜の客へ分ければ、汁の身を少し増やすのが精一杯だった。
夜に出た飯は、やはり軽かった。
薄い魚汁。
冷やした瓜。
香草を散らした豆。
塩を少し利かせた干し魚。
干し魚は小さく、噛むと塩が先に来る。
宿の主人は、干し魚を客の皿へ一尾ずつ分けた。
一尾の横へ、冷やした瓜を二切れずつ置いた。
豆を噛む間も、裏の棚から濡れた革と鉄の匂いがした。
棚には兜が伏せてある。
その隣には、盾が立てかけてある。
大桶の蓋が乾かされている。
兜の縁にも、盾の下端にも、乾いた布が挟まっていた。
その夜、港は早く静かになった。
鎖が揺れるたび、鎖番がすぐ輪へ手を伸ばす。
棚の大桶の蓋が風で鳴るたび、宿の主人が裏口から顔を出す。
漁船は海に浮いているのに、どれも杭に縛られたまま眠っていた。
リュカは寝床へ入る前、裏手の棚の前で足を止めた。
棚の下には、墨を落とすたらいが二つ。
一つは水が黒く、もう一つはまだ澄んでいる。
澄んだ方には、明日のための布が畳んで沈めてあった。




