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第六話 夏の膳 甲冑漁師の磯合戦(1)

 結論から言う。

 この浜の夏漁は、漁ではなく合戦だった。


 リュカが港で最初に見たものは、魚ではない。

 鎖だった。


 漁船が、一艘残らず、太い鎖で杭につながれている。

 網も、宿の大桶も、生け簀も、鎖で留めてある。

 岸に伏せた大桶の取っ手には、小さな鎖が二重に回され、木の蓋の上には石まで載っていた。


 夏の昼前だった。

 海は眩しく、潮の匂いは強く、干した網からは水の乾く匂いがした。

 その明るさの中で、港だけが妙に重かった。


 杭。

 鎖。

 兜。

 盾。

 大桶。


 リュカは杖を肩に預け、波打ち際から宿の軒へ目を移した。

 軒先には冷やした瓜の籠が置かれ、青い香草を束ねた紐が日陰で揺れている。

 その隣で、宿の主人が大桶を覗き込んでいた。


 大桶の底には、海水が指二本分しかない。

 魚も貝も入っていなかった。


「盗人が多いのか」


 リュカが聞くと、宿の主人は大桶から顔を上げた。

 主人の手には、冷やした瓜を切る薄い包丁がある。

 刃先には水滴だけがついていた。


「蟹です」


 リュカは、もう一度港を見た。

 鎖。

 網。

 大桶。

 生け簀。

 甲冑の肩当て。


「……蟹か」


「蟹です。夏の蟹は、綱を信用しません」


 宿の主人は、小さな鎖を杭から外し、空の大桶を軒下へ引いた。

 大桶の底が石畳を擦り、乾いた音を立てる。


「綱を信用しないのは、人の方ではないのか」


「春までは人も綱を信用しています」


 主人は大桶の縁へ指をかけた。


「夏になると、綱の方が先に負けます」


 港の奥で、甲冑の胸当てが鳴った。

 兵士の音ではない。

 海辺で濡れた革紐を締め直す音だ。


 リュカは宿の入口へ入る前に、軒先の大桶の縁で足を止めた。

 水は澄んでいる。

 底には、海水で濃くなった木目が見えていた。


「ここは宿だな」


「宿です」


「港の武具置き場ではないんだな」


「宿です」


 主人は冷やした瓜を一切れ、木皿へ移した。

 皿の縁に青い香草を少し置く。


「ただ、夏だけは、宿の前に鎧が増えます」


 入口の中は涼しかった。

 海風を通すため、奥の窓は細く開けてある。

 土間の端には濡れた足を拭く布が積まれ、その横に墨で黒くなった布だけ別のたらいへ沈んでいた。


 リュカは腰を下ろした。

 椀が一つ出る。

 薄い魚汁だった。

 魚の身は少ない。

 青い香草が浮き、塩気は強くない。

 冷やした瓜の皿が添えられた。


 リュカは椀の底を覗いた。

 魚の骨は細く、身は指先で崩れるほど少ない。


「魚が少ない」


「今日の魚介が、まだ宿へ届いていません。届けば、夏膳を出せます」


「届かなければ、どうする」


「瓜と、この汁で待ってもらいます」


 リュカは瓜を一口食べた。

 冷たい。

 歯を入れると水が出て、薄い青臭さが舌に残る。

 香草の匂いがすぐ追いついた。


「悪くはない」


「それでは、夏膳にならないんです」


 主人は大桶を台所の脇へ置いた。

 空の大桶は、空のままでも場所を取る。


「けれど、夏の浜で泊まる客は、夜に魚介を待ちます」


 入口の外で、鎖が鳴った。

 今度は長い。

 何かを引きずった音ではなく、杭の輪から鎖を持ち上げ、掛け直す音だった。


 主人は窓の外へ顔を向けた。


「親方が戻った」


 土間の外に、兜を小脇に抱えた男が立った。

 首筋に汗が流れている。

 肩に当たる布は濡れ、胸当てには乾いた塩が白く残っていた。


 男は兵士ではない。

 へこんだ盾の縁を片手で握っていた。


「泊まり客か」


 男が言った。


「お一人です」


 宿の主人は答え、リュカの椀へ目を落とした。


「飯は魚汁と瓜だけですが、寝床はあります」


「魚介が少ないのは、獲れないからか」


 リュカが聞くと、親方は兜を土間の端へ置いた。

 兜の内側から、黒い水が一滴落ちる。


「獲れてはいる。だが、宿まで運べていない」


 親方は、へこんだ盾の縁を親指で押した。

 鉄板が短く鳴る。


 リュカは椀を置いた。


「漁師が足りないのか」


「漁師は足りている」


 親方は兜の内側を覗き、黒い水を土間へこぼさないよう布で受けた。


「鎧を洗う者、大桶を守る者、魚介を宿まで運ぶ者が足りない」


 リュカは椀の底に残った魚の身を匙で寄せた。

 匙の先には、白い身がほんの少しだけ乗った。


「泊まりと飯の代わりに、何をすればいい」


 宿の主人は、空の大桶へ手を置いた。


「明日の漁を見てください」


「見るだけでいいのか」


 親方は首を横に振った。


「見るだけで済む日は少ない」


 宿の主人は冷やした瓜の皿をリュカの前へ寄せた。


「手伝うなら、大桶を運ぶか、兜を洗うか、皿を運ぶかです」


「魚介を捕る手伝いではないのか」


「捕るのは漁師の仕事だ」


 親方が答えた。


「客は邪魔をしないのが一番いい」


 リュカは薄い魚汁を飲んだ。

 腹には足りないが、塩気はある。

 冷やした瓜の水が喉に残っていた。


「なら、邪魔にならないところを手伝おう」


 宿の主人は、空の大桶の底を指で叩いた。


「魚介が届けば、夜の膳になります」


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