第五話 春の膳 はじまり直す春浜(10)
桶の底で、今日の春貝の殻の下へ細かな砂が落ちた。
ノラも桶のそばに腰を下ろし、足を湯へ入れた。湯が足の指に当たり、ノラは桶の縁をつかんだ。
「姉ちゃんも冷えてたじゃん」
ミロが湯の中で足を動かしながら言った。
「潮のせいにしとく」
「それ、俺の言い訳」
ノラは湯の中で足の指を丸め、濡れた布を膝へ寄せた。
古い鐘は鳴らない。
ノラの濡れた布だけが、湯気の中で小さく揺れた。
*
旅立つ前に、リュカは宿の裏へ回った。
桶には、今日の春貝がもう入っている。
布の下の水に、昨日の丸い揺れはなかった。
殻の隙間から、細かな砂が桶の底へこぼれていた。
ミロが、その横でしゃがみこんでいた。
「番をしてるのか」
リュカが聞くと、ミロは首を横に振った。
「春貝を数えてる」
「数えられるのか」
「さっきまでは、数えられた」
ミロは桶の縁に両手をかけ、身を乗り出した。
泥のついた春貝が、ほかの貝と並び、殻の隙間を暗くした。
「もう、分かんない」
リュカは桶の縁へ身をかがめた。
桶の底では、欠けた殻がいくつも同じ色で揺れていた。
それでも、ミロは両手を縁に残したままだった。
「でも、俺が掘った」
ミロの爪の間には、まだ泥の筋が残っている。
ミロは自分の手を桶の縁から離した。
それから、泥の残った指を一本ずつ開いた。
ノラが裏口の枠に手をかけた。
「ミロ、また桶に話しかけてるの?」
「話しかけてない。そばにいるだけ」
「掘った貝は、もう桶に入れたでしょ」
ミロは桶の縁を握り直した。
水の底で、殻の下へ細かな砂が一筋落ちた。
ノラは裏口の柱に肩を預け、かけた手で木目を一度なぞった。
足の泥は落ち、椀の湯気は頬に触れ、桶の底では殻が水底をかちりと叩いている。
宿の奥からノラの母が出てきて、桶の布を指でかつんと叩いた。
「桶の前で騒ぐと、貝が警戒して殻を閉じるよ」
「閉じると、困るの?」
ミロが聞く。
「砂を吐くのが遅れる。明日の椀まで余計に待つことになる」
ミロは慌てて口を閉じた。
桶の水面に輪は戻らなかった。
暗い水の底で、殻の隙間から細い砂が殻の下へ落ちた。
南浜の道は、宿を出るとすぐにゆるく上った。
坂の下で、浜が広く開けていた。
春の潮は満ちかけ、干潟の端に薄い水が入り、さっきまで子どもたちが掘っていた穴を順に隠していく。
薄い水の下で、穴の縁はまだ丸く残っている。
寄せる波が、その縁をなで、濁った砂を穴の内側へ寄せた。
古い鐘は鳴らない。
ノラとミロは、浜の入口で小さな貝を戻していた。
ミロは戻す前に、小貝をノラの手元へ一度のせた。
「これ、来年、誰かがまた見つける?」
ノラは小さな貝を受け取り、波の届く砂へそっと置いた。
「大きくなっていたらね。この砂の下で待ってる」
次に濡れた籠の角を差し出しかけ、ミロは自分で首を振った。
「これは違う」
最後に、ミロが丸い石を両手で差し出す。
「石は、ここでいい?」
「石はずっと石」
ミロは両手の石を胸の前で止めた。
ミロは石を籠へ入れず、足元の乾いた砂へ置く。
ミロは泥のついた指を、籠の縁で一度止めた。
リュカが近づくと、ノラは濡れた籠を片手に下げたまま持ち手を一度握り直した。
「もう行くんですね」
「朝のうちに出る」
「昨日採れた春貝の汁が、まだたくさんあります」
「足を洗って戻ってきた子に出すといい」
ノラは濡れた籠を片手に下げ、一度だけうなずいた。
それから、浜の端へ運んだ。
小さな子が穴の前で足を引き、母親の上着をつかんで回り道をしている。
宿の入口では、桶から上がった子が椀を両手で持っていた。湯気が指に当たっても、すぐには離さない。
ミロが横から言う。
「俺にも、椀ある?」
ノラは濡れた籠へ手を伸ばした。
「足を洗ったらね」
ミロは濡れた足を見下ろした。
それから籠をノラへ渡し、宿の湯気へ体を向けた。
宿の入口でノラの母が小さな包みを振ると、リュカは上着の前を開けた。
「小魚の骨、包んでおいたよ」
ノラの母が小さな包みを投げた。
リュカは片手で受け取った。
「礼を言う。助かる」
「こっちの台詞だね」
「食べた分だけだ」
「なら、次はもっと食べさせるよ」
「あとが怖くて喉を通らない」
「汁なら通るよ」
ノラの母は重ねた椀の縁をつかみ直した。
リュカは包みを上着の内側へ入れた。
春貝の汁の熱は、もう腹の奥で細くなっていた。
椀の底に砂はなかった。小ぶりな貝の甘さと若い海藻の匂いが、湯気の奥でまだ舌に残っている。
上着の内側で、骨の包みが軽い。舌の奥の塩気は、なかなか消えなかった。
浜の穴のそばで、小さな子が小貝と籠の間で手を迷わせている。
ノラは「小さいのは戻すよ」と小貝を受け取り、ミロは濡れた足を桶へ向けた。
近くの子が、貝の入った籠を胸の前で揺らす。
「桶までは落とさない。入れたら、揺らさない。朝まで待つんだよ」
ミロは、昨日ノラの母に言われた声を少しだけまねた。
近くの子は笑ったが、籠を胸に寄せ、湯気の方へ足を向けた。
宿の裏で殻がかちりと鳴ると、別の子は足を止めた。
次に泥へしゃがむとき、その子は籠の縁を胸の前で押さえていた。
ノラは浜端に立ち、最後の子が泥だらけの足を桶へ向けるまで、籠の持ち手を握っていた。
浜には、穴も足跡も籠の跡も、潮が届くまで残っていた。
小さい貝を置いたあたりを波がなでる。宿の桶では、今日の春貝の殻が布の下でかちりと鳴った。
殻の下へ落ちた砂が、桶の底に薄く積もっていく。
リュカは道を上った。
道を進んだところで、海風が背中を押した。背後の南浜はもう遠く、白い渦の泡は残っていなかった。
沖では、白い渦のない波が細く光っていた。
道が曲がるたび、足洗い桶の湯気の前に子どもが一人増えた。
宿の煙突から、細い煙が上がる。
道の途中で、リュカは小魚の骨の包みを一度だけ持ち直した。
包みの中の小魚の骨は、昨日より一尾分多かった。
それでも、上着の内側で包みは軽かった。
浜の方で、漁師が舟を砂から押し、船底がざりと鳴った。
台所では、濡れた椀の縁が重なって短く鳴る。
宿の前では、空の籠の縁から水が落ち、子どもの手がまた持ち手へ伸びていた。
浜の入口で、ノラが小貝を受け取り、ミロが足洗い桶を指していた。
リュカは包みの角を親指で押さえた。
靴底には、さっき歩いた浜の砂がまだついていた。
それから、南浜をあとにした。
背後で古い鐘は鳴らなかった。
代わりに、宿の入口でノラの母が足洗い桶を指した。
「足を洗ってから入りな!」
入口の子が「はーい」と返し、春の海風が宿の前を抜けた。
古い鐘は鳴らず、宿の裏の桶で、春貝の殻がかちりと鳴った。




