第五話 春の膳 はじまり直す春浜(9)
「分かんなくなった」
ミロは桶の縁から手を離さなかった。
「でも、ここにいる?」
ノラは桶の縁を両手で押さえた。
水の底で、三つの欠けがほかの貝と一緒にかちりと鳴った。
「昨日、ここへ入れたからね」
ミロは水の底で三つの欠けがもう一度鳴るまで待った。
「じゃあ、いい」
言い終えても、ミロは両手を桶の縁に残していた。
朝の浜では、昨日の穴がまだ砂に残っていた。
子どもたちはまた泥に手を入れた。
けれど、一人の子が指を泥から抜いたあと、足洗い桶の湯気へ足を向けた。
親の布は昨日より早く広がり、湯沸かしのそばの男は桶へ湯を足す手を止めなかった。
「今日は、客が桶へ戻ってくるな」
ノラが言うと、男は湯沸かしの柄を持ったまま、浜の端を指した。
「昨日より早い。湯が冷める前に来る」
浜の端で、旅人が浜履きを腰の荷紐に結び直している。
昨日の足跡が、今朝の浜に残る。
泥はへこんだまま乾きかけ、籠を引きずった線に薄い水が入っていた。
まっさらな浜ではなく、昨日の跡の上に朝の光が差していた。
ノラは足跡の残る浜の前で、痛む足を一度浮かせた。
朝の食事に、宿の前へ椀が並んだ。
春貝の汁。
若い海藻。
煮た豆。
焼いた小魚が、昨日より一尾多い。
漁師たちは、朝のうちに小舟を出せた。まだ大漁ではない。けれど、昨日よりは焼ける魚があった。
ミロは椀を両手で持った。
「俺の、入ってる?」
ノラの母は椀をミロの前へ押した。
「さあね、欠けをたどってみな」
「母さん、教えてよ」
ノラの母は答えず、欠けた殻が湯気の下へ出るまで椀を回した。
ミロは椀の湯気に目を細めた。欠けた殻が湯気の下に出ていた。
ミロは椀を胸の方へ引き寄せた。
「これ、俺のだ」
「本当にそうかな」
「これが俺のだよ」
ノラは横から椀のそばへ膝を寄せた。
「それで分かるの?」
「この欠けで分かるよ」
「昨日は分からなくなったって言ってた」
「湯気の下で、欠けがこっち向いてた」
「そんなことある?」
「俺には分かる」
ミロは椀の縁へ両手の指をそろえ、汁を飲んだ。椀は膝へ戻らず、湯気の残る縁を両手が包んでいた。
「春貝の味はどう?」
ノラが聞くと、ミロは椀の縁に指を沿わせ、欠けた殻をそっと押した。
「砂、ない。甘い」
ミロは椀の底の欠けた殻を、指でそっと押さえた。
湯気が頬に当たっても、もう浜の方へ体を戻さなかった。
「明日も掘る」
ミロは椀の底を傾けた。
欠けた殻が、ほかの殻に当たってかちりと鳴る。
欠けた殻が湯気の下で半分向きを変え、ミロは椀を抱えたまま残った汁をすすった。
「今日のも、桶に入れてくる」
ミロは椀を口へ戻した。
春貝の汁は、昨日より甘みが濃かった。欠けた殻のくぼみに、湯気と薄い塩の匂いが残っていた。
ミロは椀を両手で持った。汁の熱が喉を下りると、「俺の貝」と言わず、また椀の縁へ口をつけた。
ノラの横で、ミロは椀の縁を両手で支え続けた。
昨日、浜へ戻ろうとした弟は、籠を抱えたまま止まった。
桶の縁に額を近づけたあとも、ミロは縁からなかなか離れなかった。
その弟が、今は椀を落とさず支えている。
砂の中から出てきた春貝は、小さかった。
椀の中では、欠けた縁にも湯気がかかっていた。
汁の中で殻を開き、湯気の下で他の貝と並んでいる。
ミロは、椀の端の一枚に指を触れたまま離さなかった。
どの殻も汁の中で同じ白に光っていた。
それでも、ミロは椀を手放さなかった。
ミロは椀を下ろすたび、殻の欠けへ指を戻した。
爪に残った黒い筋を親指でこすり、その指で椀の底の殻をそっと押した。
リュカも春貝の汁を受け取った。
昨日の汁と同じ温かさだった。貝を噛んでも、砂は鳴らない。
湯気の向こうで、ノラはまだ指をこわばらせていた。
ノラの母の手首には、朝の火のそばでついた細い煤が残っていた。
リュカは椀を両手で持ち、湯気が薄くなるまで待った。
外では、春の風が扉を撫でている。
子どもたちは浜の方へ体を向けるが、まだ椀の縁から手を離さない。
宿の裏の桶では、殻の隙間から細かな砂が落ちている。
波の音がしても、布は揺れなかった。
ミロは椀の底を傾けて言った。
「もう汁がない」
ノラの母は空いた椀を持ったまま言った。
「椀は空だね」
ノラは空いた椀を一つ重ねた。
「裏の桶、まだ鳴ってるよ」
ミロは「じゃあ」の途中で椀を止めた。けれど、扉の外で満ち潮が砂を吸うと、椀を両手で抱え直した。
鐘は鳴らなかった。
ノラは重ねた椀の縁から、すぐには手を離さなかった。
*
朝の食事が片づくころ、南浜にはまた濡れた浜履きが戻っていた。
子どもたちは足元の泥へ指を入れていた。
リュカは宿の入口に立ったまま、浜へ半歩も下りなかった。
干潟には、穴も足跡も籠を引きずった線も残っている。
ミロは泥へ入れていた手を止め、一度だけ沖を見た。
海面はただ寄せて返した。
古い鐘も鳴らない。
ミロは波打ち際へつま先を寄せた。
「今日は渦、ないんだ」
「今日はないね」
「掘り直しは?」
「掘り直しはいらない」
ミロは籠の持ち手を握り直した。それから、自分の籠をかたりと揺らした。中で貝が鳴る。
「朝まで、これ」
ノラが、宿の裏の桶を指した。
「急いだら、じゃりじゃり」
「それは嫌だ」
ミロは籠を下ろし、また泥に手を入れた。
ノラはその横にしゃがみ、小貝を一つ拾って、ミロの手のひらへのせた。
「波が届くところまで連れていって」
ミロは両手で包み、波の届く砂へそっと押し戻した。
春貝は、砂の下へ隠れる。ミロの指跡が、湿った砂の面に短く残った。
干潟には穴が残っている。足跡には水がたまり、籠を引きずった線へ潮が細く入っていた。
ノラは立ち上がり、ならしていない穴を指した。
「深い穴はならして! 足を取られるから!」
一番近い子が「はーい」と言い、膝の前の穴へ両手で砂を寄せた。
朝の浜で、二人の子が自分の籠を抱え、足洗い桶へ向かっていた。
湯を足していた男は「今日はちゃんと桶へ戻ってくるな」とだけ言い、桶の縁へ湯沸かしを寄せた。
子どもは籠を胸に寄せたまま桶へ足を入れた。
湯に触れた足指が丸まり、籠の持ち手が胸元でかたんと鳴った。
ノラが「落とさず桶まで来られたね」と言うと、子どもは籠を胸に寄せ直した。
古い鐘は鳴らない。
桶の脇では、さっきの子が籠から貝を一つつまんだ。
ノラが「小さい」と言うと、子どもはその貝を波の届く砂へ戻した。
男は湯を足し、白い湯気が子どもの膝のあたりへ上がった。




