↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/81

第五話 春の膳 はじまり直す春浜(8)

 ノラは台所の入口で壁に背を預け、布を握ったまま片膝を浅く曲げていた。

 隣でミロが座ったまままぶたを落としかけている。

 姉弟ともに、髪の端にまだ砂が残っていた。


 リュカは空の椀を膝の横へ置いた。


 椀の底には、春貝の殻の匂いが薄く残っている。

 椀を下げに来る足音は、もう通路になかった。


 汁の熱は、まだ腹の奥に残っていた。

 リュカは空の椀の縁に指をかけ、底に残る春貝の匂いをもう一度吸った。


 リュカは、椀の縁が冷えてから立ち上がり、扉を開ける前に宿の裏へ回った。

 桶が並んでいる。薄い布の下で、春貝は底に沈み、殻を寄せ合っていた。

 大きい貝、小さい貝、殻の欠けた貝、泥をかぶった貝。その中のどれかが、ミロが自分で掘った一つだった。

 リュカが桶の底へ身をかがめても、ミロが掘った一つはもうほかの殻に紛れていた。

 その一つも、冷えた水の底で細かな砂を落としていた。


 布の下からは、まだ湯気ではなく、冷えた海水の匂いがした。

 布の下で殻がかちりと触れ、冷えた水底で止まった。


 リュカは布の端を持ち上げた。水面に輪はなく、春先の夜の空気を映して暗く澄んでいる。


 けれど、布を戻そうとしたとき、水面の端が爪の幅ほど丸く揺れた。


 春貝は動かない。

 桶もずれない。

 水面は、沖の渦の形を残して細く回った。


「まだ続くのか」


 リュカは桶の縁へ指を置いた。

 春貝は桶の底に残り、海水の表は昼間の干潟と同じ向きで回っていた。

 入口へ向かう途中で、リュカは一度だけ台所の前で足を止めた。


 伏せられた椀が並んでいる。

 片側を低くして、縁から細い雫が落ちていた。

 春貝の殻を入れた小さな桶も、台所の隅に寄せてある。

 昼間あれほど客の手に渡っていた椀から、もう湯気は上がらない。


 伏せた椀の下で水が切れ、掘った春貝は布の下で殻を鳴らす。

 濡れた足を包んだ布は水を吸って色を濃くし、寝床の中で子どもの足指がもう一度丸まった。


 火は灰の下で細く残り、桶の布は動かず、客の部屋の扉の隙間から漏れる音も途切れていた。


 海の方では、昼間と同じ丸い揺れがまだほどけずにいた。


 リュカは扉に手をかけた。

 木の取っ手は冷えていた。


 台所の火は落ちたまま、通路には床板の冷えた匂いが長く残っていた。

 客の部屋の奥で、ミロの寝息が布団の内側にこもっている。

 ノラも台所の壁ぎわで、腕を組んだまま動かなかった。


 リュカは桶の布を春貝の上へかけ、端を桶の縁へ戻した。

 それから宿の扉へ戻り、床を鳴らさず扉を開け、浜へ出た。

 夜の海風は冷たい。

 昼間の風とは違う。浜のざわめきにまぎれていた冷たさが、夜になると肌へまっすぐ当たった。


 夜風が、リュカの靴の縁から入った。

 昼間、ミロの足首に貼りついていた布と同じ冷たさだった。

 ノラが湯の中で丸めた足指の白さも、その冷たさを残していた。


 干潟の上でも、風は同じだった。

 干潟はほとんど海に隠れ、昼間、子どもたちが走り回った泥の広がりは黒い水の下に沈んでいる。

 それでも沖には、小さな白い輪があった。昼間よりも淡く、満ちた水の上で細く回っている。


 客はいない。

 籠を持つ子どももいない。

 もう一回と口にする大人もいない。


 それでも渦は回る。


 浜端の古い鐘は、風を受けて揺れていた。けれど、鳴らない。まだ鳴らない。


 リュカは浜の端に立った。


 杖の先は、砂についたまま動かなかった。

 リュカは右手だけを上げた。

 指先に、夜風の湿りが触れた。


 遠い水面の白い輪へ、指先をすぼめる。夜の浜の幅を挟んで、渦の縁が一度だけ止まった。


 リュカは、指先の湿りを親指でこすった。


 崩れかけた泥団子の縁を寄せる手つきで、右手の指を一本ずつ閉じていく。

 丸く回り続けていた水の輪が指の幅ほど縮む。


 白い泡が震えた。

 輪が縮む。

 渦の芯の白さが、夜の水面ですうっと薄くなった。


 リュカは右手をもう一度だけ閉じた。

 水の輪がほどけた。

 渦だった場所に、寄せ波が重なる。沖から寄せた水は、向きを失い、夜の砂へ濡れた線を広げていく。

 浜端の古い鐘は鳴らなかった。

 リュカは右手を下ろした。


「明日の分まで、掘り返すな」


 言い終える前に、波がリュカの足元で砕けた。

 リュカは波の向きがほどけきるまで待った。

 波は寄せている。風も吹いている。水面には細い揺れが残るが、もう同じ場所を丸く削ってはいない。

 けれど、昼間、鐘へ走り出した足音はなかった。

 宿へ戻る前に、リュカはもう一度、桶の前へ寄った。


 リュカは布の端を上げた。

 桶の水面に輪はなかった。春貝は底に沈み、桶の底も揺れていない。

 暗い底で、殻の隙間から細い泡が一つ上がった。

 リュカは桶の布を戻した。


 ミロの寝ているあたりで、寝床の布がこすれた。布の中から、春貝、という寝言が半分こぼれた。

 リュカは取っ手に手を戻した。

 扉を閉めた。

 扉の向こうで、夜の浜の砂へ波が薄く寄せていた。


     *


 翌朝の宿では、前の日より遅れて床の音が鳴った。


 客の部屋では、寝床の布がまだ丸くふくらんでいた。

 子どもの足は、朝になっても布の中で丸まっている。

 浜へ行くと言う子はいた。けれど、その子はまだ布の中で足を丸めていた。


 ノラの母は丸まった子どもの足の前へ、湯を入れた桶を置き、盆の椀を寄せた。


「今日は、汁が冷めずにすみそうだね」


「昨日はそんなに冷めたの?」


「鐘が鳴るたび、寝てた子まで浜へ飛び出したよ」


 置いた椀の汁は冷め、足洗い桶の前はすぐ空になった。


 ノラは湯を運びながら、痛む足をかばって床を踏んだ。

 自分の足もまだ重い。

 湯を入れた桶を持ち替え、足指を床へ押し直した。

 泥を歩いた昨日の分が、足裏に残っている。


 その朝、ミロは床板が鳴りはじめる前に起きた。

 宿の扉が開く音で、ノラも起きた。

 起き上がると足の先に痛みが残り、通路を急ぐミロも床の上で一度つまずいた。

 それでも、弟はもう裏口へ向かっている。


「ミロ、待って」


「布をめくるだけ」


「どの布をめくるの」


「俺の貝の桶」


 ノラは湯を入れた桶の持ち手を握り直した。


「昨日の、まだいる?」


「まだいるか、桶の音を聞く」


 ミロは桶の方へ足を急がせ、裏庭へ出た。


 宿の裏には、桶が並んでいる。夜の間、布をかけられていた桶だ。


 ノラが布の端を上げると、昨日の丸い揺れは海水から消えていた。桶の底では、殻の下へ細かな砂が落ちていた。

 ミロは桶の水面に影を落とした。


「どれが俺の」


 ノラは答えず、欠けた殻を指先で一つ寄せた。

 水の底で、よく似た欠けが二つ、あとから揺れた。

 ミロは爪に泥の残った指で、桶の縁を強く握った。


 ミロは桶の底へ身を乗り出した。両手を桶の縁にかけたまま、水面の上で動きを止めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。