第五話 春の膳 はじまり直す春浜(7)
「さっき入れた俺の貝は?」
「まだ、この水の底だよ」
ノラは布の端を桶の縁へ戻した。ミロは桶の縁をもう一度両手でつかんだ。
ノラは桶の布に指を置いたまま、水の底へ身を寄せた。
さっき沈めた貝の下で、細い砂がほかの殻の間へ落ちていた。
白い輪が広がるたび、干潟の表はなめらかになり、布の下は暗いままだった。
沖の渦はまだ消えていない。
リュカが、桶の前で足を止めた。
ノラの母が布をかけようとすると、桶の水面が爪の幅ほど揺れた。春貝も砂も底に沈んだままだった。
水の表は、沖と同じ向きに細く回った。
ノラの母は桶の布を握り直した。
「桶の水まで渦を巻くのかい」
リュカは桶の縁へ片手を添えた。
春貝の殻の隙間から、細かな砂がうっすら落ちていた。
ミロは桶の縁に指をかけたまま、布の端をつまんだ。
「俺の貝、戻される?」
「桶からは戻らない」
リュカが言うと、ノラの母が布の端を桶の縁へ押し込んだ。
「布の下で、朝までかちかち鳴ってるよ」
ミロは桶の布に指をかけたまま、端の折り目を押さえた。ノラも、桶の布の端に指を添えた。
「じゃあ俺が見てる」
「寝る前まででいい」
ノラの母は布の端を押さえたまま言った。
「一晩中番したって、桶の底は朝まで桶の底だよ」
「じゃあ、早くかちかち鳴らしたら?」
「桶を揺らしたら、明日の椀まで余計に待つことになる」
「春貝も困るの?」
「困る。あんたも眠いときに起こされたくないだろ」
ミロは足の指に布をからめたまま、桶のそばへ膝を寄せた。
「じゃあ、待つ」
「そうしなさい」
ノラの母は布をかけ直した。
布の下で、春貝の殻が水底を叩いた。
かちり。
かちり。
昼間、砂の下で鳴ったかちりが、布の下では低く沈んだ。
白い輪はない。暗い水の底で、殻と殻が触れている。
宿の入口では、ノラの母が泥を落とした足の前に椀を置き始めていた。
湯気の下で、昨日から布の下にいた春貝が殻を開いている。
入口から湯気が流れると、冷えた子どもたちが椀を抱え直した。
ノラは桶の前に残った。
「行かないのか」
リュカは宿の入口の湯気を見て、桶の縁から手を離した。
「汁の椀が出ている」
「あとで飲みます」
ノラは桶の布から目を離さなかった。
「汁が冷めるぞ」
「……すぐ行きます」
そう言っても、ノラの足元では泥が乾き始め、足の指がこわばっている。
ミロは布を差し出す前に、ノラの足を指さした。
「姉ちゃんも足、冷えてる」
「足を指ささなくていい」
「寒くないって言ってた?」
「言ってない」
「言いそうだった」
「言ってない」
ミロは両手で布を差し出した。
「姉ちゃんも拭きなよ」
ノラは受け取った。
濡れた布が掌に冷たく貼りつき、言い返す前にノラは湯の中で足の指を縮めた。
「……ありがとう」
「それも潮のせい?」
「それは潮のせい」
「それ、俺の言い訳」
ミロは湯の中で足を動かした。
ノラは濡れた布の端を湯の上で揺らした。
湯の中で丸めていた足指を、ノラは一本ずつ開いた。
リュカは桶から浜の方へ体を向けた。
沖には、白い渦の芯がまだ残っている。干潟には濡れた足跡が残り、その先の水面へ昼間と同じ白い輪が広がっていた。
「まだ、終わってないんですね」
ノラが言った。
「湯の前に、戻った足が並んだ」
リュカは、湯に並ぶ足と壁際の籠を指した。
「壁ぎわの籠も濡れてる。さっきの貝は布の下だ」
リュカは沖の白い渦を指した。
「渦は、まだ沖にある」
椀を並べていたノラの母は、盆の縁を押さえた。
「先に汁を飲んでいきな。冷めるよ」
「もう飲んだ」
「もう一杯あるよ」
「夜に腹が重くなる」
「旅人のくせに、細かいね」
リュカは答えず、桶の布の端を指で押さえた。それから、いったん宿の中へ戻った。
外では、潮が満ち始めている。
昼間の穴の縁へ、薄い水が戻っていた。
足洗い桶の湯は減り、濡れた籠が宿の壁ぎわで水を落としている。
けれど、沖の渦には、まだ白い輪が残っていた。
*
夜になると、南浜から足音が消えた。
昼間、あれほど子どもが叫び、籠が泥の上で揺れていた浜では、足跡が潮に縁を消されていた。
濡れた砂は月明かりを受けて、薄く白く光った。
宿の方では、客の部屋の咳も、寝床の布がこすれる音も止んでいた。
寝床の端々で、子どもたちは拭かれた足を布の下から出していた。
春貝の汁を飲み終えた子は、浜の続きを口の中で転がしたまま寝息に変えていた。
ミロも、桶の中の春貝の番をすると言い張っていた。
けれどノラの母に布をかけられる前に、座ったまままぶたを落とした。
ノラの母は、そんなミロの肩へ厚い布をかけてやった。
「番役が寝たら、春貝も気が抜けるね」
布の下で、ミロが一度身じろぎした。
「……俺の、逃げない……」
「逃げないよ」
ノラの母は桶の縁に手を置き、布を直した。
ノラはその横で、足を拭いていた。湯につけたばかりの指はまだこわばり、布で包んでも爪の先は白く残った。
最後の水が、台所の床を走った。
細かい砂が入口へ寄り、薄い流れになって外へ出る。
入口の外で、夜の砂が細く黒く濡れた。
ノラはミロの頭についた砂を払っていた。
ミロは眠りかけながら、まだ口を動かしている。
「明日、桶、開ける」
「朝になったらね」
ノラは布の端を、ミロの肩へ寄せ直した。
「朝に桶、開ける」
「母さんがいいって言ったら」
「俺の貝、起きてる?」
「今は寝てる」
「春貝も寝るの?」
「あんたよりは、桶の底でおとなしい」
ミロはまぶたに力を入れて目を閉じた。
リュカの手元では、空いた椀の縁が冷え始めていた。
客の部屋では布団のこすれる音が止まり、台所では椀が伏せられている。
火の熱は灰の下にこもり、桶には布がかけられていた。
海の方には、白い輪がまだ残っている。
台所には灰の匂いが残っている。春貝の汁の鍋は洗い場で伏せられていた。
通路の足音も、客の部屋の話し声も途切れていた。
宿の裏の桶では、布の下の水面に、まだ丸い輪が残っていた。
波は、昼間より壁の近くで鳴った。
客の部屋が静まるほど、宿の裏で桶の布から落ちるしずくが細く鳴った。
昼間ならざわめきにまぎれる床のきしみも、灰が崩れる音も、夜の通路で一つずつ鳴った。
リュカは、寝静まった客の部屋を通る前に足を止めた。
隅では、旅人が浜履きを抱えたまま眠っていた。
片方の浜履きは腰の荷紐に結ばれ、抱えた方には泥の筋が残っていた。
別の親子は、子どもの足に乾いた布を巻いている。
子どもは眠っているが、時々足の指を丸める。
乾いた布の下で、丸まった足指がまた布を押した。




