第五話 春の膳 はじまり直す春浜(6)
かたん。
ミロは足を止めた。
ノラは、そこで籠を押さえた。
「それ、もう籠に入れたでしょ」
ミロは返事の代わりに、籠の縁を押さえた。
泥のついた小さな春貝が、底にある。大きくない。光ってもいない。でも、ミロの手で掘った春貝だ。
ノラの足元で、ミロの冷えた足指が泥の中で丸まっていた。濡れた布が足首に貼りついている。
宿の方では、足洗い桶の湯気が上がっていた。
「また走ったら、その貝、置いていくよ」
「置いていかない」
「足の指、もう丸まってる。桶まで持たないよ」
「……冷えてない」
「じゃあ、足洗い桶まで歩けるね」
ミロは籠を両手で抱え直した。
浜の方では、別の子がまた泥に手を入れていた。桜色の縁の貝を掲げる子もいる。
ミロの足先が、そちらへ半歩だけ向いた。
籠の底で、春貝がかたりと鳴った。
「これ、明日も俺のまま?」
「浜に置いていかなければね」
「俺の貝なの?」
「うん。あんたの手で出した貝」
ミロは持ち手を両手で包んだ。
「……足洗いに戻る」
ミロは布の端を口元まで引き寄せていた。布の下で、最後の音がこもった。
「うん、戻ろう」
「でも、明日、桶を開ける」
「一緒に開ける」
「姉ちゃん、忘れない?」
「水に入れるところまで、そばにいるよ」
ミロは持ち手を両手で握り直した。
近くにいた小さな子が、二人のそばへ籠を寄せた。
「うちの貝も明日?」
「落とさず桶まで戻れたら、明日の朝、湯気の中にいるよ」
その子も籠を抱えた。
ミロの後ろで、籠を抱え直す音が一つ増える。
近くの父親が「そんな小さいのでいいのか」と言いかけたが、ミロが籠を抱え直すと、自分の子の籠へ手を戻した。
そこにも、小さな春貝が二つ入っている。
「……うちも、一回戻るか」
濡れた袖をつまんでいた母親が、ようやく布を広げた。
足首の泥を押さえた布から、冷たい水が一筋落ちる。
浜の端で、籠を置く音が増えた。
湯沸かしのそばの男は怒鳴らず、桶の縁へ湯沸かしを寄せた。
ひとりが宿へ歩き出すと、隣の子も足首の布をつまむ。
足洗い桶の前に、子どもたちが並び始めた。
さっきまで浜へ走っていた子どもたちが、今は桶の湯を待っている。
泥にまみれた足。こわばった指。濡れた上着の袖。
さっき一番高く貝を掲げていた子が、湯に足を入れた途端、上着の端を噛んだ。
隣の子も湯に足指を丸め、籠を膝へ引き寄せた。
「足の湯が熱い!」
「冷えてるからだよ」
「湯が熱いって!」
「だったら、もっと早く戻ればよかったね」
男が湯を足す。鉄の湯沸かしから白い湯気が立ち、桶の水面には並んだ足から落ちた泥が薄く広がっていた。
ミロも桶に足を入れ、歯を食いしばった。
「やっぱり熱い」
「寒くないって言ってた」
「言ってない」
「さっき言った」
「それは潮のせい」
「便利だね、潮」
ノラはそう言いながら、ミロの籠を受け取った。
籠の底には、泥のついた春貝がいくつか入っている。
その中に、ミロが自分の手で掘った小さな春貝があった。大きくも、光ってもいない。
殻の端に米粒ほどの欠けがある。
それでも、ミロはすぐに欠けへ指を伸ばした。
「それ、俺の貝」
「欠けで分かるの?」
「ちゃんと分かる」
ミロは籠の中の欠けた殻を指で示した。
「欠けてるから」
「自慢するところ?」
「俺が掘ったところ」
ノラは濡れた籠を胸元から下ろしかけ、桶の方へ足を向けた。
宿の裏へ回ると、大きな桶が並んでいた。
桶には海水が張ってあり、薄い布の端が風で持ち上がっていた。
布の下で、春貝の殻が水の底をかちりと叩く。
ノラの母は、先に戻っていた客の籠を受け取り、春貝を桶へ移していた。
横には割れた殻を入れる木の鉢があり、ノラの足元には戻す小貝だけを入れる籠が置かれている。
「これ、小さい?」
「その小さいのは、波の届く砂に戻しておいで。ノラ、見てやって」
欠けた殻は木の鉢へ、硬く鳴る春貝は海水の桶へ、小貝はノラの足元の籠へ。
子どもたちは泥だらけの籠を台の前で止め、貝が指先を離れるたびに籠の縁を握り直した。
桶へ落ちた春貝は、暗い水の中でかちりと鳴った。
ミロが、自分の春貝を胸元へ引き寄せた。
「俺のは、どこ」
「出してみな」
ミロは両手で、籠の中身を台へ出した。
ノラの母は指先で、貝をそっと寄せた。水へ入れる貝は、ミロの手元に残る。
小貝はノラの足元の籠へ、割れた殻は木の鉢へ移った。
「これは……あんた、石を持って帰ってどうするの」
「重かったから」
「石は鍋に入れないよ」
「石から味、出ない?」
「石からは出ない」
子どもたちが、台の上の石へ指を伸ばした。
ノラの母は石を台の端へ置き、次の籠を受け取った。
ノラは、台の端へこぼれた水をまた布で押さえた。
浜で泥をつけて拾った春貝の殻に、台の上で水の匂いが重なっていく。
子どもたちは、それぞれの貝を指で追いかける。
けれど桶へ落ちると、泥の筋も欠けも、暗い水の中でほかの殻に寄っていく。
桶の水へ沈むと、殻の隙間に暗い水が入り込んだ。
泥の筋は暗い水の中で薄くなり、殻の下から細かな砂が糸ほど細く落ちていく。
ノラの母は布の端を直し、桶の縁へ身を寄せた。
ミロが、自分の春貝を両手で差し出した。
「この貝、どう?」
ノラの母は受け取って、殻の欠けを親指でなぞった。
「欠けてるけど、割れてないね」
「食べられる?」
「明日の湯気の中ならね」
「俺の椀に来る?」
ノラの母は、火のそばの鍋を親指で示した。
「明日は、あそこでほかの貝と一緒に煮るよ」
「俺のって、分かる?」
「分からなくなっても、いなくならないよ」
ミロは桶の縁へ指をかけ、爪の先を白くした。
ノラの母はミロの春貝を桶の中へ沈めた。
小さな貝は、ほかの貝の殻に当たって向きを変え、泥の筋を残したまま沈んだ。
次の瞬間、布の影がかかり、どれか分からなくなった。
「あっ、見えない」
「逃げないよ」
「どれか分からなくなった」
ノラの母が布の端を持ち上げると、桶の暗い底があらわになった。
ノラの母は桶を爪の幅ほど揺らした。殻がいくつも触れて、かちかち鳴った。
ミロは桶の木の縁に爪を立てた。さっきまで「俺の」と言っていたミロは、縁の上で指を止めた。
大きい貝も、小さい貝も、欠けた貝も、暗い水の底で水に押されて向きを変えている。
どれも、まだ湯気から遠い。
底の殻の隙間から、細かな砂が一筋落ちた。
「これ、全部ここ?」
「暗い水の底で、夜のあいだかちかち鳴ってる」
ノラはミロの肩に乾いた布をかけた。
「今夜の椀で開いてたのは、昨日この布の下で鳴ってたやつ」
ミロは桶の縁へ両手をかけた。
暗い水の底で、殻の隙間から細かな砂が落ちた。




